戦は起きなかった
春先の風はまだ冷たく、土は湿っていた。
小さな農村の外れに立つ柵にもたれながら、騎士ロランは空を見上げていた。曇り空。雨になるかもしれない。畑には悪いが、戦いには都合がいい――そんなことを考えている自分に、彼はかすかに苦笑した。
「本当に来るんですかね……」
背後から声がした。振り返ると、まだ若い農夫のトマが、不安そうに手をもてあそんでいる。
「来るだろう」
ロランは短く答えた。
それは確信ではなく、むしろ「そうであってほしい」という思いに近かった。噂だけで終わるならそれに越したことはない。だが、備えた上で何も起きないのと、何もせずに襲われるのとでは、後悔の質が違う。
「怖いか」
ロランが尋ねると、トマは少し間を置いてから頷いた。
「……はい」
その正直さに、ロランはわずかに救われた気がした。
「いいことだ」
「え?」
「怖くないやつは、すぐ死ぬ」
自分に言い聞かせるように言って、ロランは視線を村へ戻した。
村人は全部で三十人ほど。そのうち戦える者は十数人。相手も同じくらいの数だと聞いている。数だけ見れば、五分。だが、相手は慣れている。こちらは違う。
――守る戦いは、不利だ。
逃げれば生き延びることもできる。だが、ここには家があり、畑があり、冬を越すためのすべてがある。捨てれば、結局は別の形で死ぬ。
ロランはゆっくりと息を吐いた。
「聞け」
集められた村人たちの前で、彼は声を張らずに言った。大声は恐怖を増幅させるだけだと、経験で知っていた。
「奴らは金目のものと食糧を取りに来る。戦うのが目的じゃない」
数人が顔を上げた。
「だから――こちらが『損だ』と思わせればいい」
ざわめきが広がる。
「門は閉じる。だが、完全には閉じるな。隙があるように見せろ。柵の一部はわざと弱くしておく」
「え、それじゃ……」
トマが戸惑った声を出す。
「いい。奴らは楽な方を選ぶ。正面から来させないためだ」
ロランは一人ひとりの顔を見た。恐怖、疑い、そしてわずかな期待が入り混じっている。
「戦うな、とは言わない。だが、勝とうとするな。追い払え。それだけでいい」
その言葉は、彼自身に向けたものでもあった。
――勝つ必要はない。負けなければいい。
それを忘れたとき、人は無謀になる。
やがて見張りが駆け込んできた。
「来た!」
空気が一変した。
ロランの胸も強く打ち始める。だが、それを押し殺すように、彼は静かに頷いた。
「配置につけ」
村人たちはぎこちなく動き出す。鍬や斧を握る手が震えているのが見えた。
――自分も同じだ。
ロランは自分の手を見た。わずかに震えている。だが、不思議と安心もあった。震えがあるうちは、まだ冷静だ。
やがて、略奪者たちの姿が見えた。
汚れた装備、だが動きは無駄がない。笑っている者もいる。こちらを見て、値踏みしているのだ。
――数は、ほぼ同じ。
だが、あちらは慣れている。こちらは初めてだ。
ロランはゆっくりと剣を抜いた。
「……いいか」
小さく、しかしはっきりと言う。
「やることは変わらない。怖いなら下がれ。ただし、背中は見せるな」
それだけ言って、彼は前に出た。
略奪者の一人が、わざとらしく柵の弱い部分へ向かう。思った通りだ。
ロランは心の中で数を数えた。
――一人、二人、三人……
十分に引きつける。
「今だ」
短く合図を出す。
隠れていた村人たちが一斉に現れ、石と木槍を投げつけた。完全な奇襲ではない。それでも、「簡単ではない」と思わせるには十分だった。
略奪者たちの動きが一瞬止まる。
その「一瞬」を、ロランは逃さなかった。
前に出て、最も近い男に剣を向ける。斬るためではない。距離を詰めさせないためだ。
相手の目を見る。
そこにあるのは怒りではない。計算だ。
――なら、まだ引く。
何度か小競り合いが続いた。大きな衝突にはならない。ロランはそれを望んでいたし、相手もまた同じだった。
やがて、略奪者の頭目らしき男が、周囲を見回した。
村は思ったよりまとまっている。抵抗もある。得られるものに対して、危険が高い。
その判断が、表情にわずかに現れた。
ロランは剣を下げない。ただ、じっと見返す。
――来るなら来い。
だが、その覚悟を見せることこそが、相手にとっての「割に合わなさ」になる。
しばらくの沈黙のあと、男は舌打ちした。
「……引くぞ」
その一言で、すべてが終わった。
略奪者たちはゆっくりと後退し、やがて森の中へ消えていく。
誰も追わなかった。
追えば、戦いになる。それだけは避けるべきだった。
静寂が戻る。
風の音と、荒い息遣いだけが残る。
トマがその場に座り込んだ。
「……勝った、んですか?」
ロランはしばらく答えなかった。
剣を鞘に収め、空を見上げる。雲はまだ厚いが、わずかに光が差している。
「いや」
少し考えてから、彼は言った。
「守れただけだ」
その言葉に、村人たちはゆっくりと息をついた。
歓声は上がらない。ただ、安堵が静かに広がっていく。
ロランはそれを見て、初めて肩の力を抜いた。
――これでいい。
英雄になる必要はない。
ただ、ここにあるものを、失わなければいい。
彼は再び柵に手を置いた。
湿った木の感触が、現実を確かめさせる。
遠くで雷の音がした。
やがて雨が降るだろう。
畑には恵みになる。
そして村は、またいつもの日々に戻る。
それで十分だった。




