贖罪の希望
ある晩、私はひとつの嘘をついた。
それは取るに足らぬ、小さな言葉の綾にすぎぬはずであった。だがその嘘は、まるで静かな水面に落ちた石のように、思いもよらぬ波紋を広げていった。
相手は、私を信じていた。疑うことを知らぬ、ある意味で幸福な人であった。その人の眼に浮かんだ戸惑いと、やがて訪れる苦しみの色を、私ははっきりと覚えている。
それでも私は、すぐに真実を告げることができなかった。
人は時に、己の卑小さを守るために、さらに嘘を重ねるものであるらしい。私もまた、その例に漏れなかった。
夜になると、私は机に向かう。しかし書くべきものは何もなく、ただ自分の胸の内を覗き込むばかりであった。そこには、言い訳と恐れとが入り混じり、まるで濁った水のように淀んでいた。
「あれほどのことではない。」
私は何度もそう思おうとした。だが、思えば思うほど、その言葉の空虚さが際立つばかりであった。
やがて私は気づいた。苦しんでいるのは相手だけではない。むしろ、その苦しみを見ながら何もできぬ自分こそが、もっとも耐えがたい場所に立たされているのだと。
ある朝、私は鏡の前に立った。
そこに映った自分の顔は、どこか他人のように見えた。いや、むしろ他人であってほしいと願ったと言うべきかもしれぬ。
「これが私か。」
そう呟いたとき、不思議と一つの考えが胸に浮かんだ。
――このままで終わることはできない。
それは決して立派な決意ではなかった。むしろ、追い詰められた末の、かすかな反動のようなものであった。しかしその弱々しい思いは、これまでのどの言い訳よりも、はるかに確かな重みを持っていた。
私は、真実を告げることを考えた。
相手がどれほど傷つくかは、もはや分からない。あるいは、すでに手遅れかもしれない。それでもなお、言わねばならぬと思った。
それは相手のためであると同時に、私自身が私であるために、避けて通れぬ道のように感じられた。
外に出ると、空は思いのほか明るかった。
私はしばらく、その光の中に立ち尽くしていた。昨日までと同じ街路であるはずなのに、どこか違って見えるのは、私の心持ちが変わったからであろうか。
罪は消えぬ。嘘もまた、なかったことにはならぬ。
しかし、その重みを抱えたままでも、人は歩くことができるのではないか。
ふと、そんな気がした。
私はゆっくりと歩き出した。胸の奥には、なお痛みが残っている。だがその奥底に、かすかながらも新しいものが芽生えているのを、私は確かに感じていた。
それは、償おうとする意志であり、同時に、もう一度生き直そうとする、ささやかな希望であった。




