89 Euphoria(ⅸ) -Side.T-
―――熱い、甘い、融ける、解ける。
シェルター越しの月明かりが照らす薄暗い部屋の中、響くのは俺と彼女の熱くて甘い息遣い。
見下ろす先にいる想い人は両手で口を押さえ、熱を孕んだ眼差しでこちらを見つめる。彼女の一挙一動に身体が否応なしに反応して頭がクラクラする。融けてしまいそうだった。
「あかね、さん……」
「み、さか、くん……っ」
触れる度に伝わる体温が愛おしい。それはまるで、頑なに結ばれた糸が解けていくような感覚。
目の前の彼女のことしか考えられない。理性なんてとっくの昔に飛んでいった。呼吸をする瞬間ですら頭も心も目の前の相手でいっぱいだけど、それはきっと彼女も同じ。
勘違いかもしれない。けれど、それでもいいと思えるほどの多幸感が俺を支配していた。
途絶え途絶えの記憶がようやく鮮明になったのは東の空が薄明るくなってきた頃。
寝ぼけ眼で白む窓の外をぼんやり眺める。
とても幸せだった記憶はあるのに、心がふわふわして実感がない。まるであの出来事が己の欲が見せた都合の良い夢のように思えて、底知れぬ不安に襲われる。けれど恐る恐る隣を見れば、そこには布団だけを見に纏った茜さんが寝息を立てながら眠っていて、ただそれだけのことで言葉にできないほどの安堵に包まれていく。
単純な人間だとつくづく思う。けれど正直なところ、今はそんなことどうでもいい。
(……間違っていない、よな)
眠る彼女の長いまつ毛とさくらんぼのような艶やかな唇を眺めながら考える。
茜さんに告白をした。
それは受け入れられなかったけれど、彼女は俺に抱かれることを選んだ。彼女にとっては一晩の思い出なのかもしれない。でも、俺は思い出にするつもりはない。ただ、それはまた別の話。
(……大丈夫、茜さんはここにいる。もう一度、俺の気持ちをちゃんと伝えれば……)
大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせながら詰まっていた息を吐く。何度か深く呼吸をした後、ゆっくりと彼女の方を向いてその華奢な身体に腕を絡ませた。
(温かい……)
じんわりと伝わる体温が心地良い。一生このままでいられたらいいのに。そんな夢物語を考えながら、再び重くなってきたまぶたを閉じた。
次に目を覚ましたのは芳しいコーヒーの香りが鼻腔を通り抜けた時。
腕の中にあったはずの茜さんの温もりはすっかり消え失せていて、身体の芯が急激に冷えていく。けれどその中でも冷静でいられたのは、隣の部屋から届いたよく知る香りのおかげだろう。
「……茜さん」
「あ、おはよう。キッチン、勝手に借りてるよ」
昨晩と同じピンクベージュのスカートと白いシャツを着た茜さんは、高めの位置で髪を束ねたいつも通りの姿で普段使われることのない我が家のキッチンに立っていた。
コーヒーの香りにつられてやってきたが、よく見ると目玉焼きやトーストもしっかりと準備されている。自分の家の冷蔵庫に卵は無かったはずなので、おそらく買いに行ってくれたのだろう。
(身体は大丈夫、……なんて、聞くまでもないか)
何事も無かったような顔で料理をする彼女を見ていると、2人きりでもそんな質問をする気にはなれなかった。
彼女は昨晩のような行為には慣れきっている。分かりきっていたこととはいえ、目の前の彼女があまりにもいつも通りすぎて軽くショックを受けてしまうのは仕方の無いこと。けれど、それを悟られないよう必死でポーカーフェイスを取り繕う。
ローテーブルの上には、普段見ることの無い彩りの良いモーニングプレートが並んでいる。食器は普段から使っているものなのに、それすら全く違うものに見えてきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
コーヒーを手渡した茜さんはそのまま俺の隣に腰掛け、いただきます、と呟く。それに倣うように慌てていただきます、と言えば、彼女は眉を下げて柔らかく笑った。
窓から見えるのは雲ひとつない青空。窓を開ければ薄手の長袖がちょうど良い温度になってとても心地良い。小さく聞こえる談笑の声は夜桜学園の生徒のものだろうか。
全て日常の一場面なのに、どれもこれも普段は意識しないものばかり。日常の違う側面を見たような気持ちになる。その住み慣れた一人暮らしの部屋すら特別な空間に思えるけれど、一番の要因は言うまでもなく隣に座る彼女の存在だろう。
穏やかな時間が流れる。
茜さんの手料理を食べたのは初めてだったけれど、惚れた欲目かどのレストランの食事よりも美味しく感じた。実際、彼女の料理の腕が高いことは間違いないのだろう。
「ねえ、三坂くん」
2人きりのこの瞬間で時が止まればいいのに。そうすればこの先の難しいことなんて何も考えなくて済むのに。
「……昨日のこと、忘れてね」
そんなわがままを願ってしまったからだろうか。
人生はそう簡単には上手くいかないようだった。
「……嫌です、って言ったらどうするんですか」
「君は嫌でも、私は忘れるよ」
「茜さん、俺のこと好きでしょう」
「……それとこれとは、話が違うから」
否定はされなかった。けれど、彼女は俺の思いを受け入れるつもりはないらしい。ここまで来ると、逆にどうしてここまで頑なに受け入れることを拒むのかが気になる。
そのことが顔に出ていたのだろう。彼女はその大きな瞳で俺を捉え、真剣な顔で告げた。
「君は最高司令部に行く人間なんだよ」
「たしかに最高司令部は目標ですけど、……でも、だから何なんですか」
最高司令部に行きたいという目標とこの想いが一体どう関係があると言うのだ。彼女の言いたいことが理解出来ず、思わず語尾を腹立たしげに荒らげてしまう。
そんな俺に驚いて目を見開いた彼女は数瞬の後、ただ困ったように笑った。
「……君の隣を歩く人は、ずっと隣を歩ける人じゃなきゃいけないんだよ」
そう告げた彼女の恋しさと切なさと諦めの入り乱れた表情を見て、俺は何も言うことが出来なかった。
じゃあね、と手を振る茜さんはいつも通りの笑顔だった。
彼女が居なくなった部屋をぼんやりと眺める。食べ終わったプレートが2枚ともテーブルの上に残っているのは、俺が何度もそのままでいいと言ったから。片付けてしまえば、この部屋で茜さんと過した痕跡は跡形もなく消えてしまう。それが嫌だった。
茜さんもそのことに気付いただろう。その上でありがとう、と言ったのは彼女の優しさだと思うことにした。
(ああ言われたら、何も言えないなんて……本当、情けない)
茜さんは情報科の人間で、これからも変わることはない。つまり、今回の任務のような仕事を今後もずっとこなして行くことになる。その上、経験を積めば積むほど潜入する組織の危険度は増していく。命の危険と隣り合わせの仕事でもあるのだ。
正直、目先のことに精一杯の俺は結婚なんて考えたことも無い。それに、結婚したからといって相手に家庭に入って欲しいなんて言うつもりも毛頭ない。けれど、茜さんは、と言うよりは情報科に所属する人々にとって、家庭を築くという行為はあまりに障壁が多すぎるのだろう。
毎日家に帰ることはおろか、いつ突然命を落とすかも分からない。家族にすら告げる事が出来ない任務だってあるだろう。
彼女たちはその全てを受け入れた上で情報科に所属している。だから、その覚悟はとっくに出来ている。けれど、だからこそ自分以外の大切な人を作る覚悟は、少なくとも今の自分は出来ないと彼女は言った。
彼女が好きだ。抱いたことも決して間違いだなんて思わない。
けれど根底にあるのは、彼女を大切にしたくて、困らせたくないという想い。数年間抱えてきたその想いは大きすぎて、結局俺は彼女の“お願い”を聞くことしか出来なかった。
次の日、聖菜さんから茜さんが見つかったと連絡が来た。
『上司に聞いたら、休暇を取りたいけど私たちには言わないでって口止めされてたみたい。全く、人騒がせな子よね』
「はは……まあ、茜さんらしいですけどね」
電話越しに務めていつも通りに返したつもりだったけれど、きっと察されてしまったのだろう。聖菜さんは優しい声色で、落ち着いたらまた連絡するわね、とだけ言い残してそのまま電話を切った。
(……何やってんだ、俺は)
俺は茜さんが好きで、おそらく茜さんも俺のことが好き。けれど俺は最高司令部を目指し、茜さんは情報科の一員として今後も奮闘し続ける。全てを加味して考えると、この先俺と彼女が結ばれることは、ない。
ひとりぼっちになった部屋でそう結論づけて、この重すぎる想いを捨てることを決めた。だけど、この調子じゃ一生かかってもこの想いを捨てることなんて出来そうにない。
幸か不幸か、その後しばらくは俺も茜さんも仕事が忙しく、2人きりどころか聖菜さんや剛士や川上を交えての食事すら開催されることは無かった。
ちょうどいい。大きな喪失感を感じて、彼女への恋心がこんなにも自分の大部分を占めていたのかと呆れたけれど、その大きな穴を仕事でも埋められるのだ。これくらいの忙しさはむしろ望ましかった。
忙しさを理由に彼女を避けていたら、いつの間にか新緑の季節も終わり、気付けば季節はすっかり夏に変わっていた。
「暑ぃ……」
―――2023年、夏。
自宅から本部への短い道中ですら滲み出る汗を拭いながら、頭上で燦然と輝く太陽を睨んだ。
7月下旬、初等部の1年生の頃から担当している4人の生徒たちは束の間の夏休みを楽しんでいるであろう。授業のない開放感と一抹の寂しさを感じるある日、俺は手が空いていることを理由に無理矢理会議に参加させられることになっていた。
もちろん生徒が休みだからといって指導科も休みなわけではない。むしろ休みの日にしか出来ないような仕事が溜まっていて、本来なら今日はそちらの処理をする予定だったのだ。
手が空いているなんて嘘を吹聴した相手は見当がついている。俺の事をあまりよく思っていない先輩だろう。まあ、彼らの相手をするのも面倒だし、どんな理由であれ会議に参加できるということはそれなりの信頼があるということ。そのことは素直に喜ばしいことなので、考えを強引に良い方にシフトチェンジして資料と共に会議へと向かった。
今回の会議は各部署の定期報告会議。何度か上司について入ったことはあるので勝手はわかるが、発表者として参加するのは初めて。さすがに少し緊張していると、聞こえてきたのはよく知っているアルトの声。
「あら、三坂くんじゃない」
「あ、聖菜さん、……って、また随分派手な……」
「仕方ないでしょ、仕事よ仕事」
久々に会った聖菜さんは、生え際まで金色の豊かなブロンドヘアに変身していた。純日本人のはずなのに、白に近い金髪は彼女の華やかな顔立ちによく似合っている。
窓の外を眺めながらこちらにやって来た聖菜さんは、暑いわねー、と言いながら資料でフレンチスリーブのシャツの胸元を大胆に仰ぐ。何人かの視線がこちらに向いているのを感じたけれど、当の本人は全く気にしていない様子で思わず苦笑が漏れた。
「何笑ってるのよ?」
「いえ、別に。聖菜さんも会議ですか?」
「もちろん。じゃないとこんなむさ苦しいところ、来ないわよ」
嫌になっちゃう、と言う視線の先にはガタイの良い軍人たち。最近、部署を超えて筋トレが流行っていると風の噂で聞いたことがあるけれど、どうやら本当らしい。
会議が始まるまでの間、発表者として隣同士の席に着いた俺と聖菜さんは、広報部と渉外部の有名カップルが別れたらしいなんてどうでもいい話から、下層部に出来たカレー屋のランチが美味しいらしいという話まで様々な世間話に花を咲かせる。
けれど、どうしても気にしてしまうのは“彼女”の存在。そしてもちろん、その事に目の前の先輩が気付かない訳がない。
「茜なら、今日は体調不良で休みよ」
「え……体調不良、ですか」
「えぇ。夏バテかしらね、最近暑かったから」
そう言われて、ここ数日の殺人的な暑さを思い出す。あそこまで暑ければ体調を崩す人も出てくるのは仕方がない。茜さんが体調を崩すのは珍しい気もするが、忙しければそのような事もあるだろう。
「まあ、大丈夫よ。そもそもそんなに酷くないみたいだし」
「でも……」
「あの子の有給が溜まってるってのもあるのよ。だから本調子じゃないなら休め、って上司がね」
「あぁ、なるほど」
心配であることには変わりないが、ほんの少しだけ安心する。お見舞いに行きたい気持ちはあるが、未だに俺は彼女と会う勇気が持てないでいた。
「そんな顔しないの、三坂くん」
「いや、その……てか、どんな顔ですか」
「んー、気まずくて仕方がないって顔?」
「それは……」
言葉に詰まる。
この人は、俺と茜さんの間にあった出来事をどれぐらい知っているのだろう。察しのいい人なので何かしらがあったことは茜さんから聞いていなくても分かっているだろうが、俺の口から言うのは何となくはばかられる。
そんな俺の気持ちを知ってか、聖菜さんは呆れたように笑ってわざとらしく溜め息をついた。
「私、人の恋路には興味無いわよ」
「あ……すいません」
「それは何についての謝罪?というか、そんな顔で会議に参加するつもり?」
「……いえ、大丈夫です」
そう来なくちゃ、と言われて前を見据える。いつの間にか会議室の座席はほとんど埋まっていて、そこには自分よりも歳も立場も上の人々が大勢いる。瞬間、この人たちの前で発表するのかと急に緊張が身体を駆け抜けた。
「今は、目の前のことに集中しなさい」
小さく聞こえてきた声に反応して横を伺えば、同じく姿勢を正した聖菜さんと視線がかち合う。ふっと笑った彼女は優しい顔をしていて、わずかに心が落ち着いた。
「……本当、馬鹿」
ガチガチに緊張しながら発表する俺を見ながら聖菜さんが小さく呟いたその言葉は、俺の元まで届くことは無かった。




