88 Euphoria(ⅷ) -Side.T-
「茜さんと連絡が取れないってどういう事ですか!?」
本部にある聖菜さんの自室に呼ばれた俺は、部屋に入るや否や、乱暴に彼女の肩を掴んだ。
もちろん失礼なことをしている自覚はあった。落ち着かなくてはいけないことも頭では分かっていた。それでも身体が言うことを聞かない。
当の聖菜さんは対照的に落ち着いた様子で俺の手を掴んで自分の肩から外し、ソファに座るように冷静に指示した。
「どうもこうもそのままの意味よ。メッセージは送れるけど電話には出ない、家にも本部の自室にもいない、茜と繋がりがありそうな人には男女問わず連絡したけど収穫はゼロ」
「捜索届は出せないんですか!?」
「馬鹿ね、私たちは情報科よ。身を隠すことも仕事のひとつだし、中には仲間にすら共有されない仕事だってあるわ。茜だって仕事の可能性もある」
「じゃあ、そうですよ!だって、聖菜さんにすら言わないなんて、それは言えないとしか考えられない!」
「そうね。……でも、私はそうじゃないと思う。私の勘を信じるかどうかは君次第だけどね、三坂くん」
こちらを見つめるアーモンド型の瞳の奥は真剣そのもので、口を衝いて出そうになる反論の言葉をぐっと飲み込んだ。
それに、と聖菜さんは続ける。
「……茜の様子が変だった気がするのよ」
「変、ですか」
「そう。実際、潜ったのは初めてではないけれど、こんなに長いのは初めてだったし、そりゃあ本調子なんて無理よねって思ってたけど、でもあれはやっぱり違った気がする」
「……それ、実は俺も感じました。茜さん、ただいまも言わないし、また会おうとも言わなかったんです。それに最後の別れ際、バイバイって……」
「……そっか」
俺と聖菜さんの間に重い沈黙が降りる。
分かったことはおそらく茜さんは仕事ではなく、彼女の意思で連絡を絶っているということだけ。それ以外は全く分からないことが酷くもどかしい。
それは聖菜さんも同じようで、落とした視線の先にある彼女の拳は美しく彩られた爪がくい込むほど強く握られていた。
「無理してたのかしらね、茜」
ふいに聖菜さんがぽつりと呟いた。
「無理って……茜さんが?」
「えぇ。……あの子、潜入先で立場を得るために奮闘してたから」
「確かに大変でしょうけど……でも茜さんなら上手くやりそうな気がしませんか?」
聖菜さんの言葉に違和感を感じたのは、茜さんが根っからの人たらしだから。ただ人懐っこいというだけではなく色んな人の懐に入るのが上手いらしく、気難しい日本軍の上司とも仲良くやっているという話はよく聞いていた。
潜入先がどのような所かは分からないけれど、彼女の性格上それなりに上手くやっていたような気がする。
その言葉に納得できない様子の俺を見て、今度は聖菜さんが視線を落とした。
「三坂くん、あのね、奮闘っていうのはつまり―――」
彼女の口から紡がれた言葉はとても信じられない、否、信じたくないこと。
頭の中がごちゃごちゃにされて何も考えられないはずなのに、まるで真実から目を逸らすみたいに二の句が継げないとはこういう事か、なんてどこか他人事のようにぼんやり思う自分がいた。
茜さんと連絡がついたのは、それから3日後のこと。
こんなに長く感じた3日間は人生で初めてだった。
仕事の合間を縫って3日間かけ続けた電話に茜さんが出てくれたのは夕方で、電話越しに俺の名前を呼んだ声はか細く震えていた。
泣き出しそうな声の後ろから聞こえたのは波の音。聞き馴染みのあるその音だけを頼りにシェルターの外を探し回ってついに茜さんを見つけた時には、空の茜色が夜色に呑まれる寸前だった。
「茜、さん」
名前を呼んだその声が情けなく震えていたのは探し回った疲れか、それとも底知れぬ恐怖からか。
びく、と大きく肩を揺らした彼女は、振り返ることなく応えた。
「よく、まだ島の中にいるって分かったね」
「ここの波の音、何年聞いてきたと思ってるんですか」
「そっか……そうだよね」
ふふ、と笑った声は弱々しく震えている。
(……あの背中は、あんなに小さかっただろうか)
目の前にいるのに、手の届かない深い闇に消えてしまいそうな小さな背中が不安で仕方がない。気付いた時には自分の腕の中に震える茜さんがいた。
はっと気づいて、拒否されるだろうかと身構える。けれど、腕の中の彼女はただ震えて俯くだけ。その姿が余計に痛々しくて、腕に込める力が強くなる。
「ごめん、三坂くん、私……」
「……大丈夫ですから」
「違うの、私にはこんな資格ない、から……」
「どうしてそんなこと……」
「だって私―――」
強引に俺の腕の中から抜け出した茜さんと数日ぶりに目が合った。泣き腫らしたことが分かるほど真っ赤な顔をした茜さんは、傷ついた顔で曖昧に笑っていた。
「……私、もう、君に抱きしめて貰えるような、綺麗な人間じゃ、ないから」
思い出したのは、3日前の聖菜さんのあの言葉。
‘’徹くん、あのね、奮闘っていうのはつまり―――自分の身体を、女である自分の身体を利用して、相手につけ入るってことよ”
身体を利用する。その意味がわからないほど子供ではなかった。
情報科が諜報活動を担っていることだって知っていたのに、俺は何の根拠もない勝手な思い込みで茜さんは立派にやっているのだと決めつけていた。
立派に任務を務めていることは間違いないだろう。実際、今回の潜入も結果としては大成功だったと聞いている。けれど、その代償として彼女は身も心も深く傷ついてしまった。
(あの時……)
あの冬の朝、俺に触れられて酷く怯えた茜さんに気付けていたら彼女は救われていただろうか。否、あの時は既に深い傷を負ったあとだったのだろうか。
茜さんに拒絶されたと勝手に傷ついた自分の幼さに反吐が出そうだった。今更後悔したって遅いのは分かっているけれど、それでも後悔せずにはいられない。
「茜さん……」
「嫌になったでしょ?私、とても傷だらけで……汚い、から」
そんなことない。そう答えるよりも早く身体が動いていた。
「やだっ……離して……!」
「離しません」
張っていた糸が切れたのだろう。壊れたおもちゃのように叫ぶ茜さんを再び腕の中に閉じ込める。
抜け出させるつもりはない。そんなこと出来ないくらい強く力を込めた。
案の定彼女は抜け出そうともがくけれど、自分より10センチ以上も高い男性の力には敵わない。出会った時は身長もさほど変わらなかったことを思い出して、その小さな身体にどれほどの期待とプレッシャーを感じているのかを考えて胸が痛んだ。
「……俺、そんなに頼りないですか」
「は……何、言って……」
「分かってます……頼りないのは当たり前です。でも、それでも……俺だって、男なんですよ?好きな人が泣いてたら助けたいって、そう思うのは普通でしょう?」
ひゅ、と息を飲む音が聞こえた。ドクドクうるさい鼓動は俺のものか、それとも。
(あぁ、言ってしまった……)
ずっと隠してきたつもりだった。隠しきれているつもりは全くなかったけれど、彼女を困らせたくなくて直接言葉にすることは避けてきた。
それでも、好きな人が目の前で泣いている。涙は流していないけれど、彼女の心は間違いなく泣いているのだ。それを見て見ぬふりなんて出来なかった。
それに、ほんの少しだけ期待してしまったのだ。
聖菜さんからはまだ、茜さんから電話や返事が来たという連絡はない。つまり、彼女が一番最初に頼ったのはもしかすると俺かもしれない。そこを確かめるつもりはないけれど、俺が最初だという確信があった。
果たして、傷ついたこの状況で、好きでも特別でもない人に頼るなんてことをこの人はするだろうか。俺が知る限り、葛西茜という人間はそのようなことができる人ではない。
「……俺、茜さんが好きです」
ずっと大切にしていた想いは、それを口にした途端、さらに強くなる。
「だから、どんな茜さんでも、茜さんが仕事で何をしようと……それでも、好きです」
半分本当で、半分嘘。
どんな彼女でも好きなことは変わりない、揺るぐことの無い真実。けれど、仕方がなかったとはいえ、それでも彼女を抱いた男たちに対して醜く嫉妬してしまう。
「私は……」
掠れた小さな声だった。
「……三坂くんのこと、好きじゃない」
茜さんはそう言って、両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。泣くことを必死に堪えるように大きく動く背中が痛々しくて、ぎこちない手つきでその背を撫でた。
(……嘘つき)
どれだけ鈍感な男でも、全身から好きだと叫ぶような表情で“好きじゃない”なんて言われたらそう思うだろう。
彼女は俺なんかよりもずっと大人で、だから色々考えてその返事を言ったのだと思う。
部署も違えば年齢も違う、今までのキャリアもこれから歩む道も違うだろう。きっと、俺の事を大切に思ってくれているから、だから俺の想いを否定するのだ。
だったら、俺は物分りの悪い子供のような後輩になってやる。生憎、俺は成績こそ良かったけれど、見本のような良い子ではないのだ。
「……茜さん、俺の部屋に行きましょう」
そう言われて、目の前の彼女は信じられないものを見るような顔で俺を見た。実際、今の彼女には俺の考えは全く分からないのだろう。
「何、言ってるの?」
「そのままの意味です。もちろん、察してください」
「言ったでしょ?私は君のこと、……好きじゃないって」
「はい。……でも俺、諦め悪いので。だからせめて、思い出だけでも下さい」
一晩だけの思い出にさせるつもりはない。けれど、今の彼女が受け入れてくれるギリギリのラインはここだろう。
それでも賭けには変わりない。今うるさいのは確実に自分の鼓動だ。
「……本当、馬鹿」
永遠にも感じられるほど長い一瞬の後、聞こえた小さな声と共に感じたのは、柔らかく湿った彼女の唇だった。
「ごめんね、三坂くん……私、いい先輩じゃ、いられないみたい」
そう言って柔らかく微笑んだ彼女は、俺の耳元で甘く囁いた。
「私を、抱いて」
2023年の春の夜、俺と茜さんの人生は交わった。
この夜を茜さんが一夜の思い出にするつもりだったのか、俺の想いを受け入れるつもりだったのかは分からない。けれど、この夜の出来事が俺たちの今後を大きく左右したことは紛れもない事実になる。
そう、交わった道は再び離ればなれになる。
その事に幼い俺はまだ、気付いていなかった。




