87 Euphoria(ⅶ) -Side.T-
―――2023年、冬。
茜さんが楽園を去って半年がたった。
まだ陽も昇らない午前5時。
早くに目が覚めてしまったからなんて理由で外に出てみたけれど、冷たすぎる風を全身に受けながら既に後悔する。これはもしかしなくても失敗だったかもしれない。
「寒ぃ……」
吐く息が白い。揺蕩いながら徐々に薄くなる白の向こうに見えるのは、こんな時間でも煌々と輝く本部の明かり。最上階が一層眩しく見えるのは憧れからだろうか。
軍に入って9ヶ月。指導科の教員として目まぐるしい日々を過ごしているうちに気が付けば年が明けていた。まだまだ未熟者の俺があの光の先にたどり着くのは果たして何年先になるのやら。
いつものランニングコースは淡い白色の街路灯でぼんやりと照らされている。
流石に真冬の早朝にランニングをする物好きは俺以外にはいないらしく、聞こえるのは一定のリズムを刻む自分の足音と呼吸の音だけ。冬の空気は冷たいけれど静寂も相成って心地いいかもしれない、なんて思っていたその時だった。
(ん?……何かいる?)
ふいに前方で何かが動いた。思わず足を止めて暗闇を凝視する。
ここには動物はおろか犬や猫すらいないので、前方の生き物は恐らく人間だろう。それなら間違いなく軍の人間だ。
(でも、何故こんな時間に、こんなところに……?)
人のことは言えないけれど、普通に考えるとこの時間に外を出歩るくような人はほとんどいない。ランニングやジョギングをしているならまだしも、ただ佇むだけなんて怪しいにも程がある。しかもここは本部の目の前だ。
広場の中心から少し離れた所に立つその人はまだ俺の存在には気付いていないらしい。人の気配を察せないなんて軍人としてどうなんだ、なんて偉そうなことを考えながらゆっくりと距離を詰める。
暗闇なので確かなことは言えないけれど、あのシルエットは恐らく女性。身長は160センチくらいだろうか。色の白い肌だけが不気味なほどはっきりと浮かび上がっていた。
顔が認識できる距離まであと数歩。そう思った時、ふいにイランイランの香りが鼻腔をくすぐった。それは、思い焦がれる彼女が愛用する香水の香り。
まさか、そんなわけがない、けれど確かめずにはいられない。確証は全くないのに逸る気持ちが抑えきれずに駆け出せば、流石に向こうも俺の存在に気付いたらしい。視線がかち合い、お互いに目を見開いた。
「三坂、くん……?」
「茜さん……!」
どうして気付かなかったのだろう。
目の前の彼女は俺が知るよりもさらに細くなっていたし、少し伸びた髪は見慣れないピンクベージュに染まっているけれど、間違いなく葛西茜その人だった。
「どうしたの、こんなところに、こんな時間に」
「それはこっちのセリフですよ!と言うか、帰るなら連絡くらい……!」
「あ、……違うの、報告のために立ち寄っただけで。だから、三坂くんたちに会う時間はなくて」
ごめんね、と曖昧に笑う茜さんは何も悪くない。けれど、会いたかったのは自分だけだと突きつけられたような気がして胸が苦しくなる。
いいえ、と返すのが精一杯の俺は、彼女の目すら見れなかった。
(かっこ悪すぎんだろ、俺……)
それじゃあ、と立ち去ろうとする茜さんを引き止めたのは、かっこ悪い俺の最後の抵抗。
「三坂くん……?」
「……仕事、ちゃんと終わったら連絡くれますか」
茜さんの身体がびく、と震えた。掴んだ腕から伝わってきた動揺に俺が動揺してしまう。
「うん、……終わったらね」
この時、酷く傷ついたような表情で笑う彼女に気付いていれば、もしかしたらこの先の未来は変わっていたのかもしれない。
けれどそう気付いたのはずっと先のことで、この時の俺は彼女に拒絶されたような気がしてそれ以外のことは何も考えられなかった。
「三坂くん、何かあった?」
数日後。久々に顔を合わせた聖菜さんは、開口一番に怪訝な顔でそう問いかけた。
「何かってなんですか」
「いや、うーん……なんか、怖い顔してるから」
「……俺がですか?元からでは?」
「いや、そうだけどそうじゃない……てか、そんなことを言う時点で何かあったってことよね」
大丈夫、という問いに頷くことはできなかった。
けれど、聖菜さんに茜さんの話をしたところでどうしようもない。彼女たちが連絡を取りあっているのかすら知らないし、どちらにしろ俺が勝手に傷ついた話なんてされても聖菜さんだって困るだろう。
「ま、話したくなったら言いなさい。相談くらいは乗ってあげるから」
「……すいません」
「やだやだ、三坂くんが素直なんて明日は雨かしら」
そんな俺の気持ちを察しているのだろう。
聖菜さんは無理やり話を聞こうとはしない。普段は明るく派手で目立つのに、ひっそりと人に寄り添うことができる人。そんな彼女に救われたことは一度や二度ではない。今だって、気付いてくれただけで少し心が軽くなった。
「ありがとうございます。……ちなみに明日は晴れです」
「ふふ、もう……相変わらず可愛くないんだから」
―――2023年、春。
気付けば例の広場の桜は満開を過ぎ、葉桜に移り変わっている。
あの日、茜さんに会ってから今日までの4ヶ月間、茜さんに会うことはおろか、連絡すら一回もなかった。
だからこそ、指導科生活2年目を迎えた5月の半ば、帰宅してベッドに倒れ込んだ俺は端末を確認した時に見つけた彼女からのメッセージに文字通り飛び起きた。
メッセージは“明日帰るね”というシンプルな一言。
明日帰るね、なんて何の変哲もない言葉にこれほどの喜びを感じたのは後にも先にもこの一回だけ。明日が休日で良かった、なんて呑気に考えていた俺は、この先に待つ未来なんて何も知らなかった。
自ら小型のクルーザーを運転して楽園に戻ってきた茜さんは、俺を見て目を細めた。
「来てくれてありがとう、三坂くん」
「いえ……おかえりなさい、茜さん」
「ふふ、ありがとう」
リボンタイのついた淡いピンク色のブラウスと膝丈のレースのスカートをあわせたスタイルは華奢な茜さんによく似合っていて、春を告げる使者にも見えた。そんなことを言えば笑われるだろうか、なんて考えられることが幸せな俺は、目の前の彼女の心が壊れかけているなんて想像もしていなかった。
身一つで帰ってきたらしい茜さんは本部へ着くとそのまま情報科へと向かう。エレベーターを待ちながら茜さんは微笑んだ。
「ここでいいよ」
「いや、でも……」
「ふふ、そんなに私に会えて嬉しいの?」
「はあ!?」
なんてね、と言いながら鼻をつつかれる。俺をからかう時の癖は昔と変わっていないらしい。その事実に密かに胸をなでおろしていると、ポーンと軽い音をたててエレベーターが到着した。
「来てくれて嬉しかったよ。ありがとう」
「いえ、こちらこそ。じゃあ、また」
「ありがとう……バイバイ」
そう言ってエレベーターの中から手を振る茜さんになぜかどうしようも無く不安になって思わず手を伸ばす。けれど掌が掴んだのは虚空で、彼女を乗せた鉄の箱は既に100階をめざして上昇していた。
(……あれ、何かが……)
何かが引っかかる。
戻ってきた茜さんは確かにいつも通りではないけれど、それは長期の諜報活動を終えて帰って来たばかりだから当たり前だと思っていた。実際、間違ってはいないだろう。
でも、そうじゃない。
例えば、俺と再会してから彼女は“ただいま”と言っただろうか。“また”という言葉に返事をくれただろうか。最後に言った“バイバイ”だって、まさか、いやでも―――
本当は今すぐ彼女を追いかけてしまいたい。
けれど、自分の考えすぎだった場合、そんな理由で情報科に乗り込む訳にはいかない。茜さんのことは気になるけれど、最高司令部を目指す以上は高実績以外で目立つようなことはしたくないのが本音だ。
大丈夫、きっと俺の考えすぎだろう。
報告が終わって落ち着いたら、あの太陽のような笑顔でまた俺の名を呼んでくれる。今はそう信じるしかない。必死に自分にそう言い聞かせる。
でも、本当は知っていた。
―――今までの人生、俺の外れて欲しい予感は大体当たってしまうのだ。
青い顔をした聖菜さんから“茜と連絡が取れない”という連絡が来たのは、それから3日後のことだった。




