90 Euphoria(ⅹ) -Side.T-
真夏の生暖かい風が頬をかすめる。
昼休み、影の下にあるベンチに腰掛けて目を閉じればそれすらも心地よいと感じた。
100階のフロアを囲むドーナツ状のテラスには俺と同様、貴重な休憩時間を過ごす人々がまばらに居る。
高層階では唯一外に出ることが出来るここは本部内でも人気の高い場所で、多くの軍人たちの憩いの場となっている。久々に立ち寄ったけれど、どうやら真夏でもその人気が衰えることはないらしい。
ガチガチに緊張しつつも何とか乗り切った例の会議は1ヶ月前。 念の為の休みという聖菜さんの言葉を信じた俺は結局、茜さんのお見舞いには行かなかった。否、行けなかったと言う方が正しいかもしれない。
自分の意気地の無さに嫌気がさすけれど、今更そんなことを思ったって後の祭り。何より、今もまだ会う勇気が出ない俺にそんなことを思う資格はない。
「お待たせ」
頭上から聞こえた馴染みのある柔らかい声にゆるゆるとまぶたを上げる。目の前に立っている川上は両手にドリンクを持ち、可笑しそうにくすくす笑っていた。
「珍しいね。眠いの?」
「いや。というか、ありがとう」
「ううん、全然。はい、コーヒー。ブラックでいいんだっけ?」
「あぁ、助かる」
同じく指導科に所属している川上とは、元バディということもあって今でも頻繁に行動を共にすることが多い。
彼女も茜さんとは面識があるので、俺と茜さんの間に何かしらがあったことは察しているのだろう。実際、あれだけ頻繁に会っていた2人が忙しさを理由に会わない期間にしては3ヶ月は長すぎる。けれど、気遣いのできる彼女が自分からその話を持ち出すことはない。実際、この気遣いはとてもありがたいし、この優しさには学生時代から何度も助けられてきた。
「やっぱりちょっと暑いね」
「確かに。でも、思っていたよりは気持ちがいい」
「だねー。フラペチーノが美味しいや」
座るね、と言って隣に腰かけた川上は、そんなことを言いながら太めのストローでフラペチーノを飲む。その視線の先では大きな鳥がのんびりと空を飛んでいて、彼女は穏やかな顔で平和だねぇ、なんて呟いた。もっとも、俺からすればそんな彼女の存在の方がよっぽど平和に思えるわけで、思わず笑みがこぼれてしまう。
「ごめんね、じゃあ!」
「慌てるなよ」
「ありがとう!」
休憩時間も残り20分を切った頃、川上は空になった自分と俺の分のカップを持って指導科へと戻って行った。なんでも急を要する仕事を思い出したらしい。
見送る背中ではハーフアップの毛先が激しく揺れている。彼女にしては珍しくバタバタしていたけれど、そんな中でも俺のカップが既に空であることには気付くのだから流石としか言いようがない。
川上の姿も消え、俺は一人、テラスに取り残される。
この時間にオフィスに戻ると、川上と違って遠慮も容赦もない同期や上司から仕事を押し付けられて面倒なのは目に見えている。しかし、残念ながら特に行きたいところもない。
結局何も思いつかなくて、そのままベンチに座ったままぼんやりと前方を眺めてみる。とは言っても見えるのは自分より前にいる人と、彼方先まで広がる空と海だけ。テラスの際まで行けば本土も見えるのかもしれないけれどそんな気分でもなかった。
一人は好きだった。けれど、この3ヶ月で少し、苦手になってしまった。
理由は言わずもがな。一人だとどうしても彼女のことを考えてしまうから。
茜さんの顔すら見れなくて徹底的に避けているのに、会えないとせめて顔だけでも見たいと思う。矛盾しすぎている感情に自分自身も戸惑っていて、結局今でも避けることを選んでしまっているのだった。
茜さんが潜っていた期間を考えれば3ヶ月なんてあっという間で、彼女からすればたかが3ヶ月俺に会わないなんてどうでもいいことなのかもしれない。自分で勝手にそんなことを考えておいて、虚しくなって鼻の奥がツンとする。自分があまりにも情緒不安定すぎて呆れてしまう。
それでも永遠に避け続けるわけにもいかないし、何より彼女と前のように話をしたいという気持ちは大きい。もちろん元通り、なんて都合のいいことは言わないけれど。
その為には、まずは顔を合わせるところから始めなくては。
(……明日、昼ごはんにでも誘おう)
ようやく腹を括り、天を仰ぐ。
自分の弱さを痛感した3ヶ月だった、と根本は解決していないのに既に感慨深さを感じ始める。
腹を括った記念にもう少し前で景色を見てみるか、なんてらしくないことを考えて強化ガラスでできた塀の近くに向かう。真昼の眩しい太陽に目を細めれば、世界が爽やかに輝いて見えた。
ゆっくりと歩みを進め、塀のすぐ近くまで来て辺りを見渡したその時、視界に飛び込んできた予想外の光景に思わず声が漏れた。
「茜、さん……」
色の抜けた明るい茶髪を風に揺らす美しい横顔に目を奪われる。
突然名前を呼ばれた彼女はゆっくりとこちらを振り向き、目玉が落ちてしまいそうなほど目を見開いた。
「三坂くん……」
なんてタイミング。そこにいたのは一番会いたくなくて、一番会いたい人だった。
濃い藍色のワンピースに白いサマーカーディガンを羽織った茜さんは、最後に会った時よりも何となく小さく見える。
相当仕事が忙しいのだろうか。それとも、と考えかけてやめた。他に原因があるような気がしてならないけれど、それを聞いたところでどうすることもできない。
「……久しぶり。元気?」
「あ、はい。その……茜さんは?」
「ふふ、私は元気だよ」
体調はもういいんですか、仕事は大丈夫ですか、この3ヶ月何してましたか―――話したいことはたくさんあるのに、最初の言葉が出てこない。優しく微笑むその姿を見てしまうと、心は落ち着くどころかさらにごちゃまぜにされてしまう。
「……何してるんですか」
やっとの思いで絞り出したのはそんな曖昧な言葉。大きな目が不思議そうにこちらを見つめている。
「何って……海を見てる、かな」
「海、ですか?」
「そう。……決して綺麗とは言えないけど、ここの人たちの思いや決意の深さを感じる色だなぁ、って」
眼科に広がる海はエメラルドブルーからは程遠い深い青色。太陽の光のお陰でわずかに明るく見えるその色は、彼女が身に纏うワンピースと同じ色に見えた。
「藍色ですね」
「藍色かぁ……確かに」
「……俺は、好きです」
藍色を纏う貴方が、とはもう言えない。
それでも心の中で思うことくらい許して欲しい。
茜さんと2人きりで話している。
いつの間にか当たり前になっていたことが、今では夢や奇跡のようだった。
幸せな夢を見ている時のようにふわふわとした感覚。覚めなければいいのにと願う心とは裏腹に、急に騒がしくなった周りの音のせいで現実に引き戻されてしまう。
ふと我に返って辺りを見渡せば、皆同じようにパタパタと小走りで本部に戻っていくところだった。慌てて腕時計を見れば、休憩時間はあと10分もない。
彼女とこのまま別れたくない。けれど当然、仕事をサボるわけにもいかない。
冷静にならなくとも分かる。俺が選ぶべきは後者一択。しかし、数ヶ月ぶりの彼女を目の前にしてしまうと心が激しく揺さぶられる。
判断力が著しく低下していることも分かっていたけれど、それでも選びきれない。呆れてしまうけれど、冗談みたいな事実だった。
そんな俺のことを、茜さんは少し不安げな顔で下から伺うように見つめる。
「……三坂くん、休憩終わるよ?」
「あ、はい……茜さんも終わりですか?」
「ううん、私はあと30分くらいあるかな。情報科はフレックスだから特に時間は決まってなくて」
その答えを聞いて、仕事と茜さんを乗せた俺の心の中の天秤がまた少し茜さんの方へと傾いた。
(……全然、捨てきれていないな)
改めて自分の抱く想いの大きさを痛感する。一生捨てられないかもしれないと思っていたけれど、まさかここまでとは。
あと1分。1分だけこの幸せを噛み締めたら仕事に戻ろう。ようやく決心し、こちらを覗き込む彼女を見つめ返す。
「……ふふ、」
視線がかち合ったあと、小さな笑い声を漏らしたのは茜さんだった。
突然笑われて戸惑う俺をよそに、彼女は眉尻を下げて困ったように笑い続ける。
「もう、三坂くん……君、得意のポーカーフェイスはどうしたの?」
「え……?」
「そんな顔されても、私、どうすることもできないんだけど」
見透かされてる。それを理解した瞬間、猛烈な恥ずかしさに襲われて一気に顔が熱を孕む。まるで火が出そうだ。
反射的に落としてしまった視線を少しだけ上げ、相変わらず俺をからかうのが好きらしい茜さんを盗み見る。彼女はゆでダコのような俺のことは全く気にせず、端末を取り出して何かを見ていた。
「あの……」
「……よしっ」
何をしているのか聞こうとした時、端末から視線を上げた茜さんが何故か満足気に大きく頷いた。状況が理解出来ずに豆鉄砲を食らったような顔をしていると、彼女の優しいソプラノが俺の名前を呼んだ。
「三坂くん」
「は、はい」
「今日、いつものレストランでご飯、食べよっか」
いつものレストランに18時―――それは、以前の俺と茜さんの間で頻繁に交わされていた約束。
茜さんが、俺を誘ってくれた。つまり、また茜さんに会える。
じわじわと実感を持ち始めた言葉が嬉しくて、 気付いた時には自分でもびっくりするほど大きな声で返事をしていた。
「はっ、はい!18時には意地でも終わらせます!」
「あはは、無理はしないでね?……先輩として、後輩のことは心配だから」
“先輩として”。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がチクリと痛む。それでも、彼女とまた一緒に過ごす約束が出来て嬉しいことには変わりない。
2人でよく足を運んでいたイタリアンのレストランに最後に行ったのはいつだっただろう。1人や他の人とは行きたくなくて、彼女が潜ってからは一度も訪れていなかった。
(1年以上ぶり、か……)
担当生徒たちが勉学に励む姿を眺めながら、ぼんやりと月日の流れの早さを感じる。
自分ではそのつもりは全くないけれど、俺はどうやら浮かれているらしい。
あの約束をした後に立ち寄った指導科で、上司や友人にこぞっていいことがあったか聞かれた。面倒なので適当にはぐらかしたが、いいことがあったことは間違いない。いいことなんて言葉じゃ表しきれないほど素敵なことだ。
挙句の果てには、子供たちからも教官の機嫌がいい、なんで、と追及されかけた。こちらも適当にはぐらかしたけれど、子供にまで見抜かれるなんて相当重症だと思う。
早く、一秒でも早く18時になって欲しい。
変わることのない時の流れるスピードが焦れったくて、何度も何度も時計を盗み見る。あと2時間、あと1時間半、あと1時間―――
そして、授業も雑務も終えた17時半。
多くの人々の視線を浴びながら俺は足早に指導科のオフィスを出た。最近は意味もなく夜遅くまで残業していたので、まだ空が明るい時間に俺が退勤することは同じオフィスの彼らにとってはおそらく天と地がひっくり返るくらいの衝撃なのだろう。
エレベーターから飛び降りて、懐かしいレストランへの道のりを歩く。
この1年間は指導科からレストランへ行くこの道すら避けていたので懐かしい心地がした。
ほとんど変わらない面々の店を眺めながら目的地を目指す。
ゆっくりと歩みを進めていると、ふと前方に見慣れた人影を見つけた。もしかして、と自然と足取りが軽くなる。早足でレストランまで向かうと、その入口前のベンチに茜さんが腰掛けていた。
「すいません、お待たせしました!」
「ううん、全然。じゃあ、行こっか」
「はい」
すっと立ち上がり、俺の横に並んだ茜さんと共にレストランに入る。
何の変哲もない普通のイタリアンレストランなのに、たわいのない話をした懐かしい日々が思い出されて目頭が熱くなる。悟られないようにぎゅっと目を瞑った。
「久しぶりだねー、ここ」
「……はい」
「懐かしいかも」
つまり、懐かしさを感じるくらいには彼女にとってもここでの食事は大切な思い出だと思ってもいいだろうか。嬉しさが込み上げてきて、せっかく堪えた涙がまた溢れそうになる。
感動して泣くなんて歳だな、なんて思いながら席につき、まずは未成年の俺に合わせてソフトドリンクで乾杯。その後に注文した前菜のサラダやカプレーゼも、トマトソースが美味しいピザも、爽やかなオイル味のパスタも美味しく、今日は全てが特別に感じられた。
ただただ幸せな時間だった。
目の前の幸せに夢中になっていた俺は知らない。
これが、茜さんとの“最後の晩餐”になるなんて。そんなこと、これっぽっちも考えていなかった。




