84 Euphoria(ⅳ) -Side.T-
初めてだった。
女の人のことを‘’可愛い”なんて思ってしまったのは、俺の人生で彼女が初めてだったのだ。
―――2020年、夏。
あの一件から約4ヶ月後。
あの後、彼女と会ったの片手で足るほどの回数だけ。約束をして会ったのは、“お詫び”と称して牧瀬さん―――今は聖菜さんと呼んでいる―――と3人でご飯を食べに行ったときだけで、あとは全部、たまたま射撃場で、たまたま下層部で…と、全部偶然でしかない。
会う度に胸が高鳴り、締め付けられる。
今まで経験したことは無かったけれど、この感情を何というのかは知っていた。けれど未熟な俺は一度芽生えてしまったこの淡い想いをどうすればいいのか分からず、ひたすら頭を悩ませていた。
流石に今すぐ気持ちを告げる、という選択肢はなかったけれど、茜さん相手に上手く隠し通せる自信もない。
例の“お詫び”が開催されるまで、俺はそれはそれは悩んだ。終いには、川上に体調が悪いのかと心配までされてしまうほどに。
でもいざ茜さんを目の前にしてしまえば、悩むより先に染み付いたポーカーフェイスが勝手に作動してしまい。そんなわけで、俺の目先の悩みはあっけなく解消された。
そのおかげでとりあえず取り繕うのは上手くいったわけだが、当然根本は何も解決していない。
夏休み終盤。この頃になると、3年生の中には卒業後の進路が正式に決まる人がちらほら現れ出す。
3年生も実践の授業は存在するけれど、ここまで来ると射撃場での自主練習などに切り替わるらしい。つまり、実質的な生き残りのボーダーラインは3年生の夏休み前まで、ということだ。
(茜さんはどこに行くんだろう……)
彼女の争奪戦の噂は本当らしく、夏休み前に1年生の教室でもその話を聞いた。
彼女の実力を疑ったことなどなかったけれど、彼女が優秀であることは疑いようのない事実なのだと改めて痛感させられる。
(聖菜さんもだけど……やっぱり、最高司令部目指すんだろうな)
優秀な生徒の歩むルートの終着点は、必ずと言っていいほど最高司令部だ。
その名の通り、軍の最高機関である最高司令部は選りすぐりのエリートしか所属できない部署であり、大半の人が一生かかっても行き着くことが出来ないと聞く。
でも、茜さんならいつかは辿り着くだろうし、あれだけ名が知られていれば助っ人としてすぐにでも駆り出される可能性もゼロではないはずだ。
もちろん俺も最高司令部を目指している。これでも中等部の頃からずっと学年1位をキープし続けているのだ。俺にだってプライドはある。
でもそんなプライドは、茜さんや聖菜さんの前ではとても小さなもので。普段はそんなこと全く思わないのに、あの人たちの圧倒的な実力を目の当たりにしてしまえば、きっとほとんどの人が同じように思ってしまうはずだ。
そんなことを思っていたのが1週間前。
例によってたまたま下層部で遭遇した俺と茜さんは、近くのカフェに入ってその話をした。
「最高司令部かぁ……もちろん、それも考えたんだけどね?」
そして返ってきた答えは、全く想像もしていなかった―――というか出来なかったものだった。
「え、じゃあ、どこに行くんですか?……まさか、広報部とか?」
「まさか、って何よ?私には似合わない?」
「いや、そうじゃなくて……ただ、もしそうなら勿体ないな、と」
「あははっ、大丈夫!自分の受けてる評価はちゃんと理解してるつもりだから」
窓越しに見える入道雲から俺に視線を移した茜さんは、そう言って微笑んだ。
「私ね、情報科に行くことにしたの」
“情報科に行く”という彼女の返答を聞き、思ったことはただ1つ。
(……それは、どこの部署だ?)
そう、俺は情報科という機関を知らなかったのだ。
情報科。別名“最高司令部の片腕”。
通常、夜桜学園の卒業生は全員指導科に配属され、その後10年前後の経験を積んだ後に様々な部署に配属される。もちろん10年というのは一般的な話で、成績上位者は5年ほどで他部署に配属になることもあるらしいし、指導科を経たあとの部署が卒業時に決定している人もいるらしい。
ちなみに茜さんや聖菜さんの争奪戦というのは、この指導科の後に配属される部署のことである。
そう、指導科の後の部署のことだと決めつけていた。
軍の人間には、そのまま指導科に自分の意思で残留する人もいれば、広報部、総務部、人事部、経理部など様々な部署を渡り歩く人もいる。けれど、どんな部署のどんな人も必ず指導科出身であることには変わりない。
―――ただ1つ、情報科を除いては。
情報科は特殊な部署である。
まず、配属されるのは卒業と同時。そして、情報科の人は基本的に退職までずっとそこで働き続ける。
一体何故なのか。それは、情報科が何よりも勘と経験を重視するからである。
アメリカのFBI、CIA、イギリスのMI5、MI6、ロシアのFSB、GRU。
世界には多くの情報機関がある。日本でいうなら公安だろうか。情報科はそれらの仲間である、いわば日本軍の情報機関なのだ。
茜さんからざっくりとそんな説明を受けた俺は、きっとさぞかし間抜けな顔をしていただろう。
「それが、情報科……」
「そう。情報科」
それは俺の全く知らない世界。
世の中の大半が俺の知らない世界だと理解はしていても、いざその世界に触れると様々な感情が一気に押し寄せてきて、何とも言えない気持ちになる。
「おーい、三坂くーん?」
「え……あ、はい」
「大丈夫ー?体調悪いの?」
「いや、ただその、驚いたというか……俺、無知だなって」
「無知って……もしかして情報科のこと?」
「……そうです」
「やだなぁ、そんなの当たり前じゃんー?むしろ、知ってる方がびっくりしちゃうよ」
(いや、無知というか、これは……)
分かっている。これは単なる幼稚な嫉妬心だ。
たった2歳の差がとてつもなく大きく感じる。たった2歳年上の彼女は、これから俺の全く知らない世界に飛び込んでいくのだ。
飛び込みたくても、今の俺にはそんな実力も名声もない。その事が今はひたすらに悔しくて、目の前の彼女から視線を逸らしてしまう。
「……ねえ、三坂くん」
「え……はい?」
不意に名前を呼ばれたのは、コーヒーを飲み干してカップをソーサーに置いた時。ゆっくり顔を上げると、目の前の茜さんはさっきまであっけらかんと笑っていたのに、今は優しい笑みを湛えていた。想い人の笑顔に胸が高鳴るのは仕方がないことだろう。
「何、ですか?」
「ううん、別に。ただ―――」
そのことを悟られまいと必死にポーカーフェイスを繕う。しかし茜さんはそれすら見透かすかのように笑みを深くし、唐突に柔らかな手つきで俺の頭を撫でた。
(え……)
突然の出来事に一瞬フリーズする。
頭を撫でられるなんていつぶりだろう。細められた瞳をぼんやりと見つめながらそんなことを考え、徐々に意識が現実へと戻るのを感じる。そうだ、今はそんなことを思っている場合ではない。
「な……!な、何、するんですか……!?」
勢いのままに掴んでしまったその腕は思っていた以上にか細くて。彼女の実力とのギャップに少し驚いたけれど、そんなことにいちいちドギマギしている場合でもない。
「んー?いや、なんか難しいこと考えてそうだったから、つい」
「つい、って……!」
「ふふっ、だってさ―――」
目の前でにっこり笑っているこの人は果たして天使か、はたまた小悪魔か。
真っ直ぐこちらに伸びてくるのは、掴まれたのとは反対の手。線の細い柔らかい人差し指が、優しく俺の鼻頭をついた。
「―――私、君を信頼してて、だから情報科に行くんだよ?」
えへへ、と笑う彼女に向けた顔はきっと、川上が見れば腰を抜かしそうな程の間抜け面。トントンとつつかれた鼻頭が熱を帯びるのを感じたけれど、そんなことはもうどうでもいい。
「信頼、って……」
「信頼は信頼だよ。だって三坂くん、絶対最高司令部に来るでしょ?」
「確かに目標にはしてます、けど、行けるかは……」
「なら大丈夫だよ。君は絶対に最高司令部に来るし、私はそんな君の右腕として最高のパフォーマンスをするから」
さっきまで嫉妬で沈んでいた心がみるみる浮上する。まるで羽でも生えたかのような心地だ。
(ああもう、本当にこの人は……!)
彼女かどういうつもりでこんなことを言っているのかなんて分からない。もしかしたら目に見えて落ち込んでいた俺を励ますための嘘かもしれない。
でも、俺は知っている。この人は―――葛西茜という人は、思ってもいないことを言うような人ではない。つまり、少なからず俺を認めて、信頼してくれているのは本当だということ。
「だからさ、あんまり待たせないでね?」
気付いていた。知っていた。けれど、見ないふりをしようと必死だった。でももう無理だ。
俺は、この人のことがどうしようもなく好きだ。
強くて、かっこよくて、けれど可愛らしい面もあって。彼女と過ごす日々はびっくり箱のような驚きの連続で自分の小ささを痛感することもあるけれど、けれどそれが俺はちっとも嫌じゃない。
だけど、同時にこの思いを一生告げないことを決めた。
この人は俺を信頼してくれている。でもそれは同士としてであって、決して恋愛的なことでは無い。それを勘違いした瞬間、この心地良い関係は崩壊する。それだけは絶対に嫌だと直感的に思った。
「……分かりました。待っててください。すぐに行きますから」
「お!頼もしーい!ありがとね、三坂くん?」
「それはこっちのセリフですよ……茜さん」
今の俺は上手に笑えているだろうか。
ポーカーフェイスか得意で良かった。大丈夫、まだ俺はこの人の信頼する後輩でいることができる。
だから、この胸の痛みには慣れなくてはいけない。消えることはきっと一生、ないのだから。




