81 Euphoria(ⅰ) -Side.T-
―――2020年、冬。
中等部卒業を明日に控えた今日。
中等部最後の実践の終わった俺はシェルターの外で一人、楽園の寂しい海を眺めていた。
どんよりとした灰色の空に、底なしなのではと思うほど深い色をした海。決して綺麗な光景とは言えないけれど、見慣れた光景は心を落ち着かせるには一番効果的だった。
「どうすればいいんだよ……」
小さなつぶやきは、風の音に掻き消された。
悩みの種はバディのこと。
俺のバディの川上幸那は、名前の通り女子生徒だ。当然、男子である俺との間には実力差が生まれる。けれどそれは自然な事だし、彼女を守ることは義務だとすら思っている。
けれど、川上はそれに納得していない。
直接言われた訳では無いけれど、ここ最近の様子を見ていれば分からないわけがなかった。
今日だって、中等部最後の実践が終わって喜び合えると思っていたのに、彼女は一人でぽろぽろと泣き出した。
ぎょっとする俺に、ごめんねとだけ言い残した川上は足早にシェルターの中の本部に戻ってしまい、俺はこうして一人、ここに取り残されたのだった。
「……どうすれば、いいんだよ……」
穏やかに揺れる水面が憎いが、海に八つ当たりするわけにもいかない。
ここでこうしていても時間の無駄だと思い、立ち上がろうとして思わず間抜けな声が出た。
「うわっ!?」
何がどうなったのかは分からない。分からないが、何故か足がもつれ、気付いた時にはそのまま前のめりに倒れ込んでいた。
―――瞬間、辺りに鳴り響くブザー音。
次に聞こえたのは、実践が行われていない今は聞こえるはずがない銃声。
まるで全てがスローモーションのようで、銃弾が飛んでくるのがはっきりと見えた。
それなのに、どうやっても身体が動かない。
―――こんなところで俺は死ぬのか……?
信じたくない、けれど他に策はない。
俺は川上の泣いていた理由も分からないまま、彼女は俺に泣いていた理由を言えないまま、永遠に別れることになるのか。
そんなのは嫌だ、でも、もう―――…
真っ白な脳内。そこに響いたのは、凛とした女の声だった。
「右に避けて!」
鈴の鳴るようなその声が聞こえた瞬間、弾かれたように身体が動いた。
倒れ込んでいた俺が動けたのはたった数十センチ。でも、瞑っていた目を開いてさっきまで自分がいた場所を見て、息が止まるかと思った。
俺がついさっきまで倒れ込んでいた場所には、銃弾がめり込んでいたのだ。
荒い呼吸を繰り返す。
めり込んでいる位置からして、もし当たっていたら俺は死んでいた。脳天直撃だ。
恐怖で身体が震える。立ち上がることすら出来ない。
そんな俺の前に伸びてきた手は、華奢で、けれどマメだらけの手。
見上げた視界に真っ先に飛び込んできたのは、青地に映える金色のクロス―――高等部のネクタイだった。
「君、大丈夫!?」
「あ……えっと……」
「はぁ……良かったぁ、間に合って」
えへへ、と笑う彼女が抱えていたのはライフル。後方に見えるのはライフルのケースだろうか。
「あなたは……何を……」
「いやー、何とか間に合ってよかったよ!弾も無事、弾き返せたしね!」
「弾き返す……!?」
「そう!当たるかどうか、賭けではあったんだ」
―――弾を弾き返す……?
この人は何を言っているのだろう。まさか、俺に向かって撃ち放たれた弾を、自分のライフルの弾で弾き返したのだろうか。
そんなの、ただの学生に……というか、人間に出来る業なのか?
そんな俺の考えていることなどつゆも知らない彼女は、手慣れた様子でライフルを片付けながら話を続ける。
「君、このラインを超えちゃったの?」
「え、ライン……ですか?」
「そう。ほら、これこれ」
そういう彼女が指差すのは、目がチカチカするほど鮮やかな黄色の線。こんなに目立つのに、今まで気にしたことすらなかった。
「これを超えたら、侵入者が来たってみなされちゃうの。で、その侵入者に向けて、銃弾が発射されるって仕組み」
「あぁ、なるほど。つまり、俺は侵入者だと思われたわけか……」
「そう。まあ、普段の実践じゃこんな所まで来ないし、楽園の外に出ても、クルーザーが着くのは限られた場所だもんね。知らなくて当たり前かも」
確かに、実践でこんな海岸沿いに来ることは無い。こんなだだっ広い場所で戦闘しようなんてバカは、少なくとも中等部の実践をくぐり抜けた人間の中にはいないだろう。
ようやく呼吸が落ち着いてきた頃、俺は彼女に大切なことを言い忘れていたことを思い出す。
「あの!助けていただいて、ありがとうございました……!」
彼女は紛うことなき命の恩人だ。どんな面倒な恩を売られても買うつもりでいた。
それなのに、彼女はただ笑って俺にピースサインを向けた。
「いいのいいの!後輩を守るのも先輩の役目、ってね!」
その姿は輝いていて眩しくて、正しく太陽のようだった。
もっと、もっと彼女について知りたい、話を聞きたい、話を知りたい。そう思うのに、思いが強すぎて上手く言葉にできない。
やっとの思いで言葉を紡ごうとしたその瞬間、鳴り響いたのは聞き慣れた音。
「あー、授業スタートしちゃったかあ」
これは次の授業の始まりを告げるチャイムの音。つまり、いまだにここにいる俺は授業をサボっていることになる。本来は焦るべきなのだろうが、別に今日初めてサボったわけでもないので特に思うところもなく。むしろ、話の出鼻を挫かれて機嫌が悪いくらいだ。
一方の彼女は参ったなあ、と呟きながら俺を見ている。
自分の実践が始まったのに、まだ中等部の生徒がいるのだ。その反応は至極当然だ。
「すいません。俺、さすがに自分で帰れますから」
「え、ちょっと……」
話を聞けなかったのは残念だけど、彼女の邪魔はしたくない。
顔はしっかり覚えた。それなら後で探せばいいだけの話だ。そう思い、踵を返してシェルターを目指そうとした時だった。
「ダメ!言ったでしょ、後輩を守るのも先輩の役目だって!」
そう言いながら彼女は俺の手を取り、一目散に走り出す。それがまた女子とは思えない速さで、咄嗟の事だったとはいえ出遅れてしまった。
「ちょっと、あの……!」
「静かに。うるさくすると、バレちゃうから」
そう言って微笑む姿はまるで月。先程までとは正反対なのに、どちらも目が離せない。
シェルターの入口までの道中、幸い俺たちを狙う人はいなかった。
無事に俺を送り届けたからなのか、目の前の彼女はやけに達成感に満ちた顔をしている。
「良かった良かった!それじゃ、気をつけて帰るんだよ!」
「いや、もう帰ってきたというか……」
「えー、よく言うじゃん?家に帰るまでが遠足です、って!まあ、遠足行ったことないけど」
「あ、それは俺もです」
「やっぱり?初等部からここだとそうなるよね。……まあとにかく、君が無事でよかった」
―――あ、戻った。
今の彼女は太陽だ。万人を惹き付けてやまない、不滅の太陽。その笑顔に見惚れているうちに、彼女はひらひらと手を振って実践へと戻っていく。
そして、俺は何よりもまず聞きたかったことを、ここに来てようやく思い出した。
軽やかに去っていく背中に、精一杯の思いを乗せて叫ぶ。
「あのっ、名前を……!!」
俺の声に反応して、彼女はくるりと振り返る。
その表情は何故か驚きを含んでいたけれど、それは一瞬のこと。すぐにあの笑顔を浮かべて、彼女は大きな声で叫ぶのだった。
「茜!葛西茜っ!茜でいいよーっ!」
大きくて真っ赤な、燃えるような茜色の夕日を彷彿とさせる人―――葛西茜さんと俺の出会いは、そんな冬の日のことだった。
―――この時の俺はまだ知らない。
この人との出会いが、俺のこの先の人生を大きく変えるということを。
この人の存在が、俺の中で何物にも変えがたい宝石箱になり、一生俺を縛り続けるパンドラの箱にもなるということを。




