80 独白 -Side.T-
タイムリミット―――聖菜さんからその言葉を聞いた瞬間、もう逃げ場はないのだと悟った。
否、ずっと逃げ続けるつもりは無かった。
けれど、いざその時が目の前に迫ると、身体がすくんでしまうのもまた事実。しかし、もう逃げては駄目だと本能が叫ぶ。
葛西を―――こんな悲しそうな顔をした子を置いて、自分の保身のために逃げては駄目だ、と。
―――例の襲撃の時、最高司令部の監視モニター越しに葛西と敵兵を見つけた瞬間、考えるよりも先に体が動いた。
防弾チョッキも身に付けず、スーツに革靴のまま身一つでシェルターを飛び出してひたすらに走った。
脳裏にちらつくのは、にやけ顔の最高司令部の面々。あの子が絡むと冷静さが欠けてしまうのはいつものことで仕方のないことだが、また呆れて大笑いされると思うと正直面倒だ。
でも、何を差し置いても彼女の命だけは奪われるわけにはいかなかった。
葛西を守るのは、俺が茜さんにできる唯一の贖罪なのだから。
茜さん―――葛西藍の母親である葛西茜のことを、俺は学生時代からそう呼んでいた。
明るく天真爛漫で、俺より年上にはとても見えない人。けれど、とても強くて美しい人。
あの強さと美しさには、多くの人間が憧れを抱いた。当然、俺も例外ではない。
茜さんの娘の葛西は、一見彼女と似ていないようで、実は酷なほどよく似ていた。
身に纏う雰囲気が、笑った時の顔が、学生時代から逸品だったライフルの腕が……その全てが似ていて、葛西が成長する度に胸がズキンと痛んだ。
茜さんと関わった人間は、皆あの人の残像に今も囚われている。
―――葛西茜は18年前、忽然とこの楽園から姿を消した。
一心不乱に走り続け、間一髪で葛西の命は守ることが出来た。
その安堵と同時に襲い掛かってきたのは、筆舌に尽くし難いほどの激痛。しかし、それを顔に出すわけにはいかない。
目の前の葛西を、これ以上泣かせたくなかった。
葛西は強くて優しい人に成長したけれど、泣き虫なのは昔から変わらない。
葛西は、まるで自分が撃たれたかのように苦しそうな顔で俺を見る。そんな彼女の頬に手を伸ばせば、葛西はさらに表情を歪めた。
「……そんな顔……するな……」
分かっている。
彼女にそんな顔をさせているのは俺だ。
今なら分かる。
俺の最後の教え子に、葛西が―――茜さんの娘が選ばれたのは必然だ。
これは上層部の策略。
全てを知っている彼らは、俺と葛西が関わることでどのような化学反応を起こすのか興味があったのだろう。そして実際、その策は期待以上の結果を目に見えて残している。
葛西とその相棒であり、同じく俺の最後の教え子である河原は、俺の予想を軽々と遥かに超えた活躍を見せ、学生としては前例のないほどの活躍ぶりを見せている。
それは教官としては誇らしいことでも、その肩書きを取り払った人間・三坂徹としては素直に喜べないこともまた事実だった。
―――あ、もう無理だな……これは。
また一段階、撃たれた傷の痛みが強まった。
精神力で意識を保つのも、ここらが精一杯だと直感的に悟る。葛西は涙でぐしゃぐしゃの顔をしているのに、今の俺にはもう何も出来ないし、言ってやることも出来ない。
薄れゆく意識の中、浮かんだのは茜さんの顔。
今にも泣き出しそうなほど辛そうな顔をしているのに、その瞳から涙が溢れることは無い。
そういえば、茜さんの泣き顔を見たことはない。少なくとも、俺の前では一度も。
どんな時も……“あの事件”のときですら、あの人は泣いていなかった。泣きそうな顔でずっと笑っていて、それが余計に苦しかった。
葛西はちゃんと、ここで生きている。
それなら、茜さんが泣くことはない。
でも目の前にいる彼女の娘は、俺のせいで酷い顔で泣いている。
泣くな、と言ってもこの子は泣くんだろう。
葛西といい、河原といい、実は泣き虫なのは俺にそっくりだ。そんなところが実は好きだなんて、多分一生言わないけれど。
思わず“茜さん”と呟いてしまったのは、果たして夢か現実か。
そこで意識を失った俺は、今この瞬間、その答えを知ってしまった。
あれは、現実だったのだ。
―――幸那が今朝飾ってくれたスプレーマムとカーネーションはまだ瑞々しい。そういえば、花言葉に詳しくなったのは茜さん影響だった。それまでは、花に言葉があることすら知らなかった。
「……顔も見れたし、私は帰るわね。また来るわ」
「はい……ありがとうございます、聖菜さん」
「ううん。……ごめんね、徹くん」
葛西の肩を抱いてこちらまで歩いてきた聖菜さんは、ベッドの傍の椅子に葛西を座らせると、こちらを一瞥してそのまま部屋を出ていった。
彼女もまた、茜さんの残像に囚われている一人だ。
俺よりも茜さんと親しかった彼女は、一体どんな気持ちで葛西のことを見守ってきたのだろうか。
……どんな気持ちで、俺と葛西を2人きりにしてくれたのだろうか。
椅子に座った葛西は、怯えるように縮こまっている。
“茜さん”という言葉を聞いただけなら、ここまで怯えることはないはず。つまり、聖菜さんに何か言われたのだろう。
「……何か、聞きたいことがあるんだろ?」
「……教官が、気を失う前に私の顔を見て、“あかねさん”って言ったんです」
「あぁ……覚えている」
「教官の言う“あかねさん”は……私のお母さんの葛西茜のことですか?」
「……そうだ。俺は、お前の母親と知り合いだった」
……知り合い、か。
自分で言っておきながら、その薄っぺらい関係の名前が苦しい。
いっそ、ただの知り合いなら、こんなに残像に囚われることもなかったのだろうか。
葛西は僅かに顔を上げ、俺の顔を見つめた。
「お母さんは……何なんですか……?」
葛西の瞳が動揺で激しく揺れる様は、見ていて痛々しい。けれど、葛西は逃げずに向かってくる。なら、俺が逃げるわけにはいかない。
「……聖菜さんになんて言われた」
「……葛西茜という名前は、パンドラの箱だって。そして、それを開けられるのは、教官だけだって」
「なるほどな……」
パンドラの箱―――
箱の中身は災い。開けた瞬間、それらが襲いかかって来て、最後に箱の中に残ったのは希望だけ。……確か、そういう逸話だったはず。
“葛西茜”というパンドラの箱を俺が開けて、その災いを一心に受けて苦しむのは葛西だ。その箱の中に希望が残る保証もない。けれど……
―――なるほど、これが潮時というやつか。
パンドラの箱は、俺にとっては宝石箱でもある。
苦しくて苦しくて、でもとても輝いていた日々を永遠に押し込めておくのは、あまりに勿体ない話かもしれない。
「……聞いて、後悔するかもしれない話だぞ」
俺のその問いに、葛西は視線を逸らす。
「確かに、そうかもしれません……」
でも、それは一瞬の出来事で。
再び俺を見据えたその瞳の奥に見えたのは、言葉で表すまでもないほどの強い覚悟だった。
「でも、ここまで来て、引き返すわけにはいきませんから」
―――嗚呼、本当にこの子は茜さんそっくりだ。
それが微笑ましくも、やはり苦しくて。
でも、彼女がここまで来たのだ。俺も、ちゃんと覚悟を決めなくてはならない。
「……あれは、20年以上も前の冬のことだ」
―――閉じた瞼の向こう、浮かぶのはとある冬の日の寂しい藍色の海と、それを眺める一人の少年の背中だった。




