78 必要不可欠
気付いたら、手術室の前にいた。
ぼんやりとした頭で記憶を辿る。
……確か、雨に打たれて血を流す教官を抱えて呆然としていた私の元に突然七瀬さんが現れて、彼が教官はここまで運んでくれて……正直なところ、よく覚えていない。
今朝と変わらず病院内は騒がしいのに、まるで別世界にいるみたいに何も入ってこない。
ここにいても聞こえるはずのない雨音だけが耳の奥に残って嫌に頭に響く。
視線を落とせば、嫌でも目に入る赤黒い染み。彼の血で作られたそれを見る度に、胸が鷲掴みにされたかのような苦しさを感じる。
彼のおかげで私は、今日は擦り傷ひとつ負っていない。強くなるために彼から色々学んできたのに、結局完璧に守られた。皮肉な話だ。
「教官……」
赤く光るランプを見つめる。
……私は、幸那さんや健太くんや駿くんにどんな顔をすればいいんだろう。
彼女たちのかけがえのない家族が、私のせいで命の危機に瀕している。連絡が行っていないことはないだろうが幸那さんの姿はまだ見ていない。
何も考えられない。……何も考えたくない。
それなのに、頭の中をぐるぐるしているのはただ1つの言葉。
“あかねさん”
―――そう、あの時教官は確かに“あかねさん”と言った。聞き間違えなんかじゃない。
私の顔を見て、その名前を呟いたのだ。
私の母親―――葛西茜のことで間違いないだろう。
私が夜桜学園に入学してすぐ、行方をくらました彼女。今となっては、生きているのかすら分からない。
でも教官は出会ってから今日まで、私のお母さんのことを知っているなんて一言も言わなかった。
教官とお母さんは知り合いだったのだろうか。でも、一体どこで……?
「まさか……」
―――お母さんはまさか、楽園の人だった……?
そんなこと、考えたこともなかった。けれどそう考えればすんなりと腑に落ちる。
教官と関係のある軍人ということは、それなりの立場の軍人ということ。上級軍人なら、一身上の都合でしばらく仕事を休むことだって出来るだろう。それなら、私と一緒に暮らしていた時に何をして生計を立てていたのか説明がつく。
何より、幼児でも分かるあの聡明な美しさは一般人が持ち得るようなものではない。
今ならわかる。あれは、教官と同じ種類の強さの美しさだ。
―――なんて。
そんなこと、今考えても仕方が無い。
例えばお母さんと教官が知り合いだったなら、その事実には驚くけれど、そういう偶然がない訳では無い。
……真実を知るのは教官だけ。今はただ、彼の無事を祈るだけだ。
薄暗い廊下の奥から、パタパタと走る足音が聞こえた。
顔を上げてそっちを見れば、そこは息せき切って走ってくる幸那さんがいた。彼女の姿を視界にとらえた瞬間、目頭が急激に熱くなる。
「藍ちゃん!」
「幸那、さん……ッ」
幸那さんは私の名前を呼びながら駆け寄り、そして私を抱きしめた。その温もりが心地よくて、それなのにどうしようもなく悲しくて。私の涙腺はあっという間に決壊した。
「幸那さん……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「藍ちゃん……大丈夫だから。徹くん、怪我なんてしょっちゅうだから……ね?」
「でも……でも……」
「大丈夫。藍ちゃんが傷つくことじゃないわ」
「幸那、さん……」
彼女には私を責める権利がある。自分の愛する人を、子供にとって大切な父親を私は傷付けたのだ。彼女は私を憎んでもいいのに……それなのに、彼女はむしろ私を優しく抱きしめる。
「……健太と駿には言ってないの」
「そう、ですか……」
「大丈夫。……あの人は死なないから」
「……はい」
優しくて優しくて、とても強い人。
そんなこと、とうの昔から知っていたはずなのに改めてそれを知った。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
不意にランプが消え、生真面目そうな医者が手術室から出てきた。
反射的に椅子から立ち上がって、自分に駆け寄ってきた私を見た彼は、大きく目を見開いた。
「君は、昨日の……」
「え……」
声をかけられてようやく気付く。この医者は昨日、財前の手術をしてくれた医者だ。
昨日の彼のことはあまり覚えていないが、今日の彼はとても酷い顔をしている。昨日から今日まで、一体何人の手術をしたのだろうか。何人の命が彼によって救われたのだろうか。
「……酷い顔をしている。休めているか?」
「……いえ。でも、そんな暇は……」
「こんな時だからこそ、ちゃんと休むんだ。昨日の彼も、今日の三坂さんも大丈夫だから」
さりげなく伝えられたその言葉。ハッとして顔をあげれば、彼は爽やかな表情で微笑んでいた。
「じゃあ……!」
「手術は成功だ。……さすが、三坂中将だな。弾は見事に急所に当っていたが、もう心配はいらない」
脚が、手が、身体が震える。
教官はちゃんと生きている。死んでいない。
ちゃんと、生きているのだ。
「幸那さん……ッ」
「ほらね……言ったでしょ?徹くんは、死なないの」
そう言って微笑む幸那さんの瞳から零れ落ちた一筋の涙に、思わずはっと息を呑む。
その姿がとても綺麗で、こんな時なのに見惚れてしまう。そして、教官にはこの人が必要不可欠なのだとつくづく痛感した。
見上げた空は既に暗くなっていた。
医者はああ言ってくれたけれど、自室に戻って休む気分にもなれない。先程までは気持ち悪かった雨音が、今は妙に心地いい。
さてどうしたものか、と目を閉じた時だった。
「あれ、葛西?」
「あ……河原……」
本部前の広場、ベンチに座ってぼんやりしていた私の前に現れたのは河原だった。
一人でいたい気分だったけれど、河原が現れても気持ちは荒れない。常日頃から一緒に居るからだろうか。
「財前のとこ行かねぇの?」
「いや、行く……行く、けど……」
「……何かあった?」
そういえば、頭が混乱していて河原に連絡をするのを忘れていた。河原にもちゃんと、教官が私を庇って撃たれて入院したことを伝えないと。
それなのに、口から出てきたのは全く違う言葉で。
「……教官って、何なのかな」
―――教官は、お母さんとどういう関係なんだろう。教官は、今まで私のことをどんな気持ちで見守っていたのだろう。
「何って、何が?」
「……教官が、私を庇って撃たれたの」
「はあ!?な、なんだよそれ!?」
「本当に、なんで彼はあんな所に居たんだろう……」
「大丈夫なのかよ!?てか、見舞いに……!」
「……手術は成功。ただ、今日は幸那さんがついてるから、もう……」
「そっか……ならいいんだ。また、改めて行くことにする」
すとん、と隣に座った河原が私の頭を撫でる。その手つきが教官そっくりで目の奥がツンとした。
「うん……ごめんね」
「葛西が無理強いしたわけじゃねえだろ。きっと、教官はそんな葛西を見たくはないと思うけど?」
「それは分かってるんだけどね……なんか、どうにも上手くいかなくて」
「まあ、俺もいるし大丈夫だって」
「もう……なにその自信?」
「えー、俺はいつもこういう人間だろー?」
「わっ、ちょっと……!」
優しく撫でてたと思えば、今度は私は犬か、と突っ込みたくなるほど豪快に撫で回される。でも、それが河原の優しさだとわからないわけが無い。
「……ありがとう、相棒」
「お?やっと俺のありがたみに気付いたのかな、葛西さん?」
「もー、茶化さないでよ!」
季節は晩秋。11月の終わり。
彼とバディでいられるのは、卒業までの2ヶ月。面白いなあ、と言いながら笑う河原の横顔を眺めながら、ふとそれを感じた。
12年前の春、出会ったときはこんなに大切な存在になるなんて思っていなかった。
一緒に教官に師事して、たくさん泣いて辛いことを乗り越えて、バディになってからも空回りしつつも信頼を深めあった。
バディが―――相棒が河原で本当に良かった。
「……あとちょっとだ。頑張ろう。葛西」
「えぇ、もちろんよ、河原」
楽園に本物の平和が戻る日はすぐそこまで来ている。
こんなところで弱音を吐いて、泣いている場合ではない。あと少し、歯を食いしばって戦い抜いてやろうじゃないか。




