75 峠
そこは、正しく地獄だった。
血の海どころじゃない。負傷者も、すでに手の施しようがない者も、あちらこちらにゴロゴロと転がっている。硝煙の臭いと血の匂いが混ざって、なんとも言えない悪臭も充満していた。
でも、今はそんなことどうでも良かった。
「富井……財前……どこ……ッ」
なんで教官が―――つまり最高司令部の人間がこんな場所にいるのか、とか、なんで教官が財前と富井の現状を知っているのか、とか、何故それを北長瀬先輩が伝えに来たのか、とか疑問はそれなりにある。
でも、そんなことどうでもいい。教官は監視カメラでシェルター外を見ていたんだろうし、財前と富井のことを私に伝言しようと思った時にたまたま近くにいたのが北長瀬先輩だっただけかもしれない。
今は何よりも、富井と財前を一刻も早く見つけ出すことが最優先だ。
しばらく走り続けていると、ふと耳に聞こえてきたすすり泣く声。耳をすませば、その声は私を呼んでいた。
「藍……助けて……藍……大空が……大空が……」
―――間違いない。間違いようがない。これは、富井の泣き声だ……!
「富井……ッ!」
まるで何かに導かれるかのように足が進む。
細い路地をさらに奥に行ったビルの影、こんな場所があるなんて6年間実践をしてきたのに知らなかった。
知らなかったのに、歩みは止まらない。走って、走って、そして見つけた。
「富井ッ!!」
「あ……あ……藍……ッ!!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、真っ赤に染った財前を抱きしめる富井は、ビルの影で泣きじゃくっていた。
6年間一緒に居たのに、こんな2人は見たことがない。ショックで意識が薄らぎかけるけれど、奥歯を噛み締めて堪える。
そうだ、私は彼女たちを助けるためにここに来たのだ。
一緒になって悲しむためにここに来たわけじゃない。
「富井、大丈夫だから!とりあえず、財前を病院に……」
「まりん……大空のこと、おんぶできない……ッ!」
「わかった、私が背負う。じゃあ、富井は応戦を……」
「……ダメ……手が、震えて、銃が持てない……ッ」
……なるほど。自分には何も出来ないと分かっているからこそ、富井は取り乱したのか。
優秀ゆえに、自分の力をちゃんと理解しているがゆえに……。
しかし、そうなると状況は絶望的だ。
自分より重い財前を背負って歩く私は、政府の奴らからすれば格好の標的。守る人がいないと、むしろ重症化させてしまう可能性もある。しかし、ここに居ても迎えるのは最悪の結末のみ。
せめてあと一人、誰でもいいから手を貸してくれる人がいれば……!
そう思ったまさにその時。
「葛西ッ!!富井ッ!!」
―――嗚呼、聞き間違えるわけが無い。
教官よりも、誰よりも聞いてきた、ずっと隣にいる相棒の声だ。
「河原……ッ!」
「葛西ッ!良かった、見つけた!」
「どうして、ここに!?」
「教官が来たんだよ!富井と財前がヤバいって!で、葛西がもう向かってるはずだって!」
「そっか……教官が……」
やっぱり教官はすごい。分かりきっていたことを改めて感じつつ、今は現状を打破しなければ。
河原が来てくれた今、最善策はたった1つだ。疑う余地なんてない。
「……河原、財前を背負ってシェルター内を目指して。富井も一緒に向かって」
「あぁ、分かった。……葛西、お前は……」
「私も応戦しながら、後ろから追いかける」
「……慣れない接近戦だぞ。それを、葛西一人に任せろって言うのかよ」
「そうよ。それが最善策」
「でも……!」
「でも、じゃない!事は一刻を争うんだから!」
……分かっていた。私が危険なこの策に対して、河原はいい顔をしないということくらい。
でも、賢い彼ならこれが最善策だということは分かっているはずだ。
「それに……」
そして、これは完全なる私情。
でも、河原だって痛いほど感じているはずだ。
「……河原、好きな子は守ってあげなきゃ」
「な……!い、今はそんなこと……!」
「関係ある。富井が……好きな子がいれば、あなたはもっと強くなれる。……そうでしょ?」
「葛西……」
河原が富井に恋していることくらい、相棒であれば分からないはずがない。
いつも私を守ってくれるように、今の富井のことも守ってあげて欲しい。財前を運びながら、富井も守ることが河原なら出来る。
「……俺にとっては、葛西だって好きな奴だよ……ッ」
「ふふっ……ありがとう。その告白、ちゃんと受け取った。これで私はまだ、戦えるわ」
「葛西……ッ」
河原の瞳が激しく揺れる。
彼が私の言葉に納得していないことくらい分かっている。だから、私は―――
「河原」
抱き寄せた河原の身体から香る硝煙の臭いはいつもと変わらない。
強ばった河原に触れたのは初めての任務ぶりだろうか。あの時も河原は呆然とした顔をしていて、私はこうやって微笑んでいた。
「……絶対、死ぬんじゃねぇぞ」
「もちろん。私を誰のバディだと思ってるの、河原?」
「あぁ……そうだな。……待ってる」
「ありがとう……待ってて」
河原は最後の最後まで、苦しげな表情で私のことを見ていたけれど。最終的には腹を決めてくれたらしい。財前を抱えて富井と走り出したら一度も振り返らずにこの場から去っていった。
―――私は、なんて矛盾しているんだろう。自分から自信満々に突き放したくせに、いざ一人になると怖くて仕方がない。
でも、財前を見殺しにしていたかもしれないあの瞬間と比べれば全く怖くないのだから、つくづく不思議なものだ。
「さてと……それじゃあ、私も行かないとね」
河原たちの後ろを守るのが私の仕事。
そう言っているそばから、後方から現れる政府の兵。
慣れない接近戦、か。残念ながら間違いない。富井や財前と比べれば、私の接近戦の腕なんて素人レベルなのかもしれない。でも、ここまで来たら……
「やるしか、ないっての……!」
放った銃弾は、真っ直ぐ相手の脳天に向かっていった。
「ふぅ……何とか、ここまで帰ってこれたなぁ……」
河原に大口を叩いた手前、怪我をするわけにはいかなかったわけだけど。
「まあ、これくらいなら許容でしょ……」
そう言いながら拭った頬からは、血が滲んでいた気がする。
まあ、これは見なかったことにしよう。切り傷、かすり傷くらい許して欲しい。
病棟に駆け込むと、そこにも戦場が広がっていた。負傷者が所狭しとひしめき、看護師や医者が忙しなく動き回っている。
「財前……ッ」
どうやら他人に聞くことは出来なさそうだ。
ならば自力で、と思ったその刹那、腕を強く掴まれた。
「河原……!」
「葛西ッ!」
今にも泣き出しそうな表情の河原。その手は震えていた。
心配を掛けたこと、かすり傷程度とはいえ怪我をしたこと。お叱りなら、後でいくらでも享受する。でも、今はそれどころではない。
「財前は!?」
「……手術中。教官のツテで優先的に手術してもらえたんだよ」
「そっか……教官が……」
危険なことには変わりないけれど、この状況で手当を受けることが出来ていることにひとまず安堵する。
この負傷者の数だ。ただの学生の優先順位は限りなく低いだろう。私と河原を財前と富井の元に行かせ、病院への手回しも完璧にこなしていた教官にはやはり頭が上がらない。
手術室の前に行くと、小さな体を小刻みに震わせる富井が一人で座っていた。
いつもはその小さな体で学園1位を背負っている。その姿は、ライバルとしても友人としても正直立派だと思う。
でも、今の富井はまるで消えてしまいそうで。スっと体の芯が冷たくなるのを感じる。
「富井……大丈夫だから」
「藍……藍……ッ」
「私も河原もいるから。私たちは、ずっとここに居るから」
「大空……死んじゃったり、しないよね……?」
「大丈夫……大丈夫だよ……」
大丈夫だよ、なんて無責任な言葉は本当は言うべきではないのだろう。むしろ、あの時点での出血量を考えれば、現実的には助かる可能性の方が低いはず。
でも、気休めでも、最悪の事態が起こったときに恨まれたとしても、今の富井に“大丈夫”以外の言葉なんて言えない。
財前の手術が終わったのは、それから更に3時間後。汗を拭いながら手術室から出てきた医者は、私たちのことを見据えて、はっきりと言い放った。
「今夜が峠です」




