71 フラミンゴ
しばらく海を眺めてから、私と教官は展望台を後にした。
次はいつ、こんな穏やかな気持ちで美しい海を見ることが出来るんだろう。そんな後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、前を歩く教官のあとを追う。
展望台から数分歩いたところにある駐車場では、教官のシルバーの車が太陽を反射してキラキラ輝いていた。朝早いこともあってか車は教官のものしかないけれど、何台あったとしてもこの車は目立つだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、不意に教官に声をかけられた。
「葛西、もうホテルに帰りたいか?」
「いえ、どっちでもいいですけど」
「そうか。なら、少しドライブして帰るか」
「えっ、ドライブですか?」
「何だ、嫌か?」
「いえ……!というかむしろ逆!」
突然の提案に胸が高鳴っている。
びっくりした。私がおこがましくもこのまま帰ってしまうのは勿体ないと、まだもう少しこの心地いい時間を過ごしたいと思っていることがバレたのかと思った。いや、バレている可能性は十分あるけども。
でもそんなのどっちでもいいか。この時間はもう少しだけ続く。それは事実だ。
教官の運転する車に乗るのは今回が2回目。
初めての時はドライブ云々以前に、まず車に乗ること自体が初めてだった。その時も周りの景色に目を輝かせた記憶はあるが、ちゃんと落ち着いて見る余裕なんてなかった。
「あっ、教官!あれなんですか?」
「ん?あぁ、電波塔か」
「へぇ、電波塔……」
「楽園では本部が電波塔の役割も兼ねてるからな。見慣れないのも無理ないか」
「いや、電波塔が珍しいわけじゃなくて、なんか変な形をしてるから」
「あぁ、あの膨らんだ部分か?」
「そうです、それ」
「あれも展望台だな。あれだけ高いと観光名所も兼ねるんだろう」
「へぇ、なるほど。ちゃっかりしてますね」
「ちゃっかりってな……まあ、確かに」
こんなやり取りを何度繰り返しただろう。
一応言っておくと、電波塔だってその他のものだって存在は知っているし、確かに楽園には無いものだけど特別珍しいものでも無い。
でも、ただ単に嬉しかったのだ。教官とこうして一緒に居られることが、気を抜けば泣き出してしまいそうなくらい嬉しかった。傷はズキズキ痛んでも、命は失わずにこうしてここにいられることがとてつもない奇跡のように思えた。
果たして彼が私のそんな気持ちに気付いていたのか否かは分からない。けれども教官は、最初から最後まで、呆れた顔をしつつもちゃんと私の声を聞いてくれた。
その興奮が冷めやまぬままホテルに戻ってきた私たちを出迎えたのは、入口を入ってすぐのエントランスのソファに腰掛けていた河原と栗山さんだった。
「あ、帰ってきた」
「もー、教官も葛西もどこ行ってたんだよ!?」
「ちょっとね。……デート?」
「葛西、大人をからかうのはやめろ」
「とか言って満更でもないくせに?」
「はぁ……勝手にしろ」
はぁ、と呆れたように短く息を吐く教官。そんな彼を見て、いつの間にこんなに軽口を言えるほどの関係になったのだろうと感慨深い気持ちになる。そんなことを思うのは、さっきまで初等部のころのことを思い出していたからだろうか。
しかしそんな私とは裏腹に、河原は私と教官のそのやりとりに面白くない顔をしている。
「えー!!葛西だけずるい!ずるすぎっ!」
口を尖らせて、17歳とは思えない口調で駄々をこねる河原。頭から湯気が出そうなほどカンカンだ。
他の人の前ではクールに振舞おうとする河原のあまりにも子供っぽいその姿。昔はよく見ていたけれど、久々に見た気がする。
そんな彼を揶揄ったら面白いに違いない。でも、もし私が逆の立場なら彼と同じことを言ってしまいそう―――否、確実に言うだろうからそうすることもできない。
言える言葉が何も浮かばず、黙り込むしかない私。しかし教官には、河原がそう言わないわけがないということは想定済みだったらしい。ニヤリと笑ったかと思えば、唐突に河原の髪をわしゃわしゃと激しく掻き回した。
「ちょっと、教官!?」
「河原……お前可愛いな」
「はぁ!?機嫌いい教官とか、ちょっと気持ち悪……いや、慣れないんだけど!?」
「そうかそうか。それなら、そんな相手とこれからデートには行きたくねぇよな?」
「えっ!!」
教官のその言葉に、河原の表情は一変する。瞳を輝かせて教官を見つめるその姿に、幻覚の耳としっぽが見えた気がして思わず笑いそうになる。ただ、今笑うとめんどくさいから堪えたけど。
「一つ言っとくがな……河原お前、実は早起き、苦手だろう」
「えっ!いや、その……」
教官に突然指摘されてしどろもどろになる河原。予想外の指摘だったのだろう。
そういえば、河原が朝に弱いのは私たちの間では周知の事実だけど、教官にだけはそれを知られたくなくて頑張って早起きしてたっけ。別にいいじゃないと言ったら、せめた教官の前だけでは完璧でいたいと返された。そんな憧れの張本人に指摘されるなんて、まあ予想できるわけがない。
「……実は」
気まずげな顔で教官を見る河原。
今や2人の間に身長差はないけれど、こうして見ると河原が小さな子供に見えるのだから不思議だ。
教官は、そんな河原の肩を軽く叩く。
「そうだろう。逆に葛西はそれはそんなに苦ではないみたいだしな。だから最初に葛西を連れて出たわけだ」
「あー、なるほどなるほど!そっか、そういうことかー……」
教官の言葉に、安心したように何度も何度も頷く河原。そんな河原を見て、教官はまた彼の頭を撫でた。河原も今度は大人しくそれを受け入れる。
「バカか、お前は。俺は頑張ったやつを褒めないほど薄情ではないはずだがな?」
「教官……」
「俺にとっては葛西も河原も大切な教え子だ。ちゃんと、1人1人褒めてやりたかった。それだけだ」
―――教官、やっぱりずるい人ですよ、あなたは。
普段通りの顔で河原と話し続ける教官。その耳が一瞬、真っ赤に染まったのを私は見逃さない。
やっぱり彼に心がないなんて真っ赤な嘘でしかない。だって彼は、照れてしまうほど慣れないことでも、私たちのためにしてくれるような人なんだから。
「じゃ、行ってくる!」
「うん、行ってらっしゃい」
そういうわけで意気揚々とホテルから出ていった河原と教官。
その場に残っているのは、当然ながら私と栗山さんだけだ。
「行っちゃったな」
「はい。でも、なんか嬉しいです」
「だろうね。そういう顔してる。珍しい」
「別に今くらい、ポーカーフェイスじゃなくてもいいでしょう?」
「あぁ、もちろん」
そう言って笑う栗山さんを見ながら、これからどうしようかと考える。まだまだ外を見たい気持ちもあるけれど、見知らぬ土地を一人で出歩くのは少し怖い部分もある。一体どうしたものか。
「とりあえず座ろうか」
「そうですね」
栗山さんにそう言われて、とりあえずソファに腰掛ける。フカフカのソファ。ピンと張っていた緊張の糸が緩むのを感じながら、目を閉じて息を吐く。
すっかり脱力しきっていると、上から聞こえてきた控えめな笑い声。目を開けると、真上から覗き込んでいた栗山さんと目が合った。
「はい。オレンジジュース」
「え……?」
「何がいいかわからなかったから。まあでも、オレンジジュースには疲労回復の効果があるしね」
「あ……わざわざありがとうございます、栗山さん」
「こんなのお易い御用だって」
しまった。栗山さんに気を遣わせてしまった。そんな後悔を感じつつも、ありがたくオレンジジュースをもらってストローで吸い上げる。ほどよい酸味がたまらない。
私の真ん前に腰掛けた栗山さんは、同じサイズのグラスのアイスコーヒーを飲んでいる。それですら絵になるのだから美形は得だ。
「葛西さん、楽園の外は何回目?」
そんな栗山さんが、窓の外を眺めながらおもむろに私に聞く。その質問に、私は自分の記憶を辿りながら指を折る。
―――外に出たのは、中等部を卒業したあの冬の日と、聖菜さんと実家で会ったあの夏の日と、教官の誕生日を祝った夏の日と、そして今回だから……
「えっと……多分4回目です」
「なるほど。じゃあ当然、外のことは全然知らないんだな」
「それはもちろん。お恥ずかしい話、車に乗ったのも去年が初めてで……」
「そんなに初心だったの、葛西さん?」
「はい、実は……」
「へぇ……まあでも、俺も似たようなものだったか」
なるほどなるほど、と頷く栗山さん。彼の考えは全く読めない。河原なら簡単に読めてしまうのに。
「よし、じゃあ……」
そして栗山さんは、ご自慢の綺麗な顔に笑みを浮かべた。
「デート、第二弾といこうか」
―――この人も、相当ずるい大人だ。
そんなわけで外に出た私たち。
彼に促されるまま車に乗り込み、向かった先は―――
「動物園……?」
獣特有の臭いが鼻の奥を刺激する。
平日の昼間ということもあるのだろう。人はあまり多くない。しかし、その少ない客はほとんどが小さい子供連れの家族で、私と栗山さんはかなり浮いた存在のように思えた。
「そう。ゾウとかキリンとか、見たことある?」
「ないですけど……でもなんで動物園なんですか?」
「ん?水族館の方が良かった?」
「いや、そういう話じゃなくて!」
誤解がないように言っておくと、もちろん普通に楽しい。楽園には動物園も、ついでに水族館もないので、本物の動物をこの目で見ることが出来るのはなかなかないことだ。
普通に楽しく、普通に感動しているが、しかし彼の意図はいまいちよく分からない。
「俺、フラミンゴが好きなんだ」
戸惑いを抱えつつ、栗山さんの隣を歩いていると、唐突に彼はそう言った。
「え、フラミンゴですか?」
「そう。分かる?フラミンゴ」
「多分……ピンクの鳥ですよね」
「正解。華やかな鳥だよね」
そういう栗山さんの指さす先には、そのフラミンゴがいた。
ピンク色が鮮やかな美しい鳥。一度見たら、このピンク色の鳥の存在は忘れられない気がする。
「フラミンゴって、ラテン語で炎を意味する言葉が語源なんだけどね」
鮮やかなピンクの大群を眺める栗山さん。
その眼差しは優しいのに、どこか寂しげで。
「炎か……確かに納得出来ますね」
「うん。炎みたいに激しくて華やかなんだよ、野生のフラミンゴは。ここにいるやつよりもずっとピンクが濃くて、力強く飛べる。その大群は、空を真っ赤に染めるくらいなんだ」
その眼差しの中に、同情の色が見えた瞬間、彼の意図が何となく分かったような気がした。
「……でも、ここのフラミンゴは淡いピンク色で、外で飼育されてるのに飛ばない」
「そうだね……実際、フラミンゴは飛ぶのに25メートルほどの助走を必要とするから、この広さじゃ飛べないらしいし、野生のピンク色も食べる藻の色素が原因だから、ここのは人工的に餌に色素を混ぜてるらしいし」
「でも……それでも華やかです。とっても綺麗です」
「うん。だから好きなんだよ、フラミンゴ」
変なことを言おう。
彼はきっと、ここのフラミンゴになりたいのだ。飼われてもなお、美しいと人々に思ってもらえるような、そんな存在に。
飼い主は日本軍。飛ぶことを阻む狭い飼育環境は楽園というあの島。
ほとんどが予期せずあの環境に放り込まれ、その多くが散っていく。そこで生き残っても、美しく生きることは半ば諦めている。それはまるで、飼育されてる動物のようだ。
しかし、その環境でも美しくあることはできる。情報科は美しくなくてはならないのだろう。
自分も目指す場所だが、決して楽な環境ではない。自らを騙し騙しやらなくてはならない、過酷な環境なのだろう。
今回の任務で、彼は一度、美しくあることをやめた。
もしかすると栗山さんは、動物園のフラミンゴを見て、自分を戒めているのかもしれない。美しくない自分を見せてしまった私に対して、その決意を表したいのかもしれない。
私は、ちゃんと彼の意図を読み取れただろうか。
結局、私が栗山さんとその答え合わせをすることはなかった。
「あ、葛西!それに栗山さんも!どこ行ってたんだよ?」
「あ、河原。教官も。おかえりなさい」
―――日が傾いた頃。
もう一泊する予定のホテルに戻れば、先に戻っていたらしい河原と教官がロビーで待ち構えていた。
「河原、楽しかった?」
「あぁ、もちろん!最高のデートだったよ。なあ、教官?」
「おい、気持ち悪いこというな、河原」
「ひどい!デートって言ったのはそっちなのに!」
オーバーリアクションで落ち込む河原。しかしその表情は明るいもので、すっかりご機嫌なその様子に安心する。
しかし、さすがは相棒。私の心がいまいち晴れないことには、目ざとく気付いてしまうらしい。
「で、葛西はなんでそんなに硬い顔してんだ?」
「えっと……そうね……うん……」
動物園に行った後は、本当になんてことないドライブだった。
普通に色々なことを話したし、休憩がてら食事もした。気になるところがあれば車を停めて降りて、散策したりもした。本当にこれこそ、まさにただのデートだ。
とても楽しかったし、栗山さんの表情も明るかった。私も心の底からあの時間を楽しんだ。
でも、やっぱりあの一瞬が脳裏から離れない。
「……私、フラミンゴになりたいなって」
「はあ?フラミンゴって、あのフラミンゴ……?なんで?」
「だって、綺麗でしょ?とっても」
私もフラミンゴに憧れたい。
疲れているせいだろうか。はたまた正気だったのだろうか。そんなことは分からないし、どうでもいい。
ただ、あのピンク色の美しい鳥が、大空に羽ばたいていく姿に強く思い焦がれた。




