66 ホワイトエクスプレス(ⅷ)
初秋の風はまだまだ熱を持っているけれど、思っていたより弱い。
若干乱れる髪を抑えながら、これくらいなら部屋の中で窓から吹く風を楽しむには丁度いいだろうな、なんて独りごちる。
しかし生憎、私が今立っているのはホワイトエクスプレスの屋根の上。周りは緑の映える山々で囲まれているが、残念ながら私には、こちらを向いて薄気味悪い笑みを浮かべている標的しか目に入らない。
「まさか本当に追ってくるとは思ってなかったな」
「生憎、ここであなたを逃がすわけにはいかないので」
「ほう。結構な執念だな」
「本当はその脳天を今すぐ射抜いてしまいたいけれど、事情聴取したいというのが上の要求で。だから、あなたを生け捕りにしないと意味が無いんです」
「へぇ。それは何とも物騒な話だ」
徐々に間合いを詰める。
顔を見れば一目でわかる。今の彼はおそらく死ぬことを厭わない。死を恐れていない。
故に、下手に動けば彼はここから飛び降りて自殺しかねない。
徐々に詰めた距離は残り3メートル。互いに手を伸ばせば届く距離。
しかし直感的に、これ以上近付いてはダメだと悟った。今の私は彼をパーソナルスペースに入れたら何をするか分からないし、逆もまた然りだろう。
さて、ここからどうするべきか。
―――不思議なものだ。少し前まであんなに死ぬのが怖かったのに、今は少しも恐怖を感じない。むしろ栗山さんや教官たちに貢献できると思うと、死ぬのが誇らしくすらなってきた。
「そんな怖い顔をしないでください」
「ほう?そんな顔をしていたか?」
「えぇ。そうですね……お話しましょう。話を聞いてもいいですか」
「あぁ、構わん。互いにここで死ぬ身だ」
私と標的の間に静かな時間が流れる。
時が止まったかのような静けさは、行ったことなんてないけれど死後の世界のようだと感じた。
自分でも驚くほど今の自分は冷静だ。
罵倒だろうが侮辱だろうが、どんなことを言われてもきっと何の感情も湧いてこない。ここにあるのはただの“無”だ。
その代わり、周りがやけに鮮明にくっきりと見える。それこそ、目の前の彼の心すら見えそうなくらいに。
「あなたにスパイになるよう指示したのは誰ですか?」
「あいつ―――俺の片割れだ。君たちは既に知っているだろうが、あいつは政府の人間でな。今の生活にうんざりしていた俺はその提案を呑み、政府にも籍を置くようになった」
「彼は特別養子縁組に出されたんですよね?」
「あぁ。再会したのはたまたまだよ。それがまさか、こんな結末だなんてな」
自嘲気味な乾いた笑い声が響く。
それを聞いて胸の中に広がったのは、なんとも形容し難い虚無感。
話を聞いて分かったのは、彼も片割れも利用されたということだけ。本人たちは自分の意思で動いたと思っているが、それは傍から見ればただの駒だ。―――そう、私たちと同じ。
彼の片割れに指示したのは、おそらくかなり上の人間。しかし、日本軍はその人間を捕らえることはできないだろう。
政府が軍に手出しできないように、軍も政府に下手に手出しはできない。例えば、有名な大臣が唐突に世間から消えたとしたら、人々は一瞬でもその謎に食いつく。そこから芋づる式に楽園の正体がバレるということも否定はできない。
沈黙は続く。
ここまで来てもなお、まだ彼が大人しく捕らわれてくれる可能性を祈っている自分がいることに驚く。理想はそう簡単には捨てきれないものだ。
けれど、このまま何もしないわけにもいかない。
たった3メートルが遠い。
やっと回り始めた頭を回転させる。
―――突進すれば彼を捕らえられるだろうか。その前に自分がバランスを崩して落ちるだろうか。
やっぱり死ぬのは怖くない。けれど河原や教官のことを思い浮かべると不安はとめどなく湧いてくる。
私が彼らを大切に思っているように、自分も大切に思われているということは知っている。私を大切にしてくれる人たちの悲しい顔なんて、できれば一生見たくない。でも、ここでウジウジ悩み続けていても仕方がない。
タイミングを図る。
一度口火を切ったら止まらなくなったのだろう。聞いてもいないのに標的は話を続ける。適当に相槌は打っているが、正直どうでもいい。私が知りたい情報は既に得た。
負の感情は、一度せき止めていたものがなくなるととめどなくこぼれ落ちる。
こぼれ落ちて、こぼれ落ちて、こぼれ落ちて―――今だ。
3メートルの距離を一気に詰め、そのまま彼にぶつかる。全体重をかければ、わずかだが時間稼ぎにはなる。
「ッ!?」
「動かないで」
急いで揺れるフレアスカートを捲り上げてレッグホルスターから拳銃を取り出し、標的の額に押し付ける。実践でも使っているシルバーの拳銃はよく手に馴染む。
トリガーに指をかけ、真っ直ぐ標的の目を見る。動向の奥まで開ききった標的の瞳。突然の出来事にまだ思考が追いついていないことが、表情にわかりやすく表れている。
「……私を殺すのは上の命令に背くんじゃないか?」
「えぇ。でも、その責任を負う覚悟くらいはあります」
「何を生徒が偉そうに……」
「生徒だからですよ。私には、立場とか部下とかキャリアとか、背負うものが一切ないから」
無計画でも無鉄砲でもなんとでも言えばいい。
河原たちを思うと心は痛むけれど、でも今の私の役割は栗山さんのボディガードみたいなもの。私の命は今、彼のものだ。
命を預けてもいいと思えた彼のために、必ずこの任務を成功させなくては。
拳銃を額に当てたまま、標的の手に手錠をかける。屋根の上にロープはないので、仕方がないけれど馬乗り状態は継続する。女といえどもそれなりに筋肉があると自負しているので、簡単に跳ね除けられるつもりはない。
「……私を捕らえてどうするんだ」
「そうですね……とりあえず上に引き渡します。あなたが言うように、私はただの生徒ですからね。その後のことはわかりません」
「ふん……所詮、私も君も駒ってことだな」
「それは否定しません。でも、私はただの駒で終わるつもりはありませんから」
「……君のような人が私の周りにいれば、私はこんなことをしなくて済んだかもしれんな……」
「……どうですかね。どんな状況であれ、最終決定は自分ですよ」
「ははっ……まさか生徒に諭される日が来るとはな……」
穏やかな声色。諦めとはまた違う、終わりの気配。
私が彼のことを諭せたのかは分からない。でも1つ確かなのは、この長い旅の終わりはすぐそこまで来ているということ。
「このまま終点まで行くしかないですけど……その、大丈夫ですか?」
「ははっ、まさか心配までしてくれるなんてな。私は大丈夫だ」
「そうですか。なら、このままで―――」
刹那、響き渡った轟音。車体が激しく揺れ、私も標的もバランスを崩す。
幸い、間一髪で2人揃って落ちることはなかった。標的に夢中で気付かなかったが、どうやらここは橋の上らしい。落ちてたら、と思うと今更ながら震えが止まらない。
「何事だ……!?」
「ば……爆発……!?」
標的の驚きは演技ではない。つまり、彼はこの爆発にはなんの関与もしていないということ。しかし、それなら一体誰が……?
「まさか、あいつか……?」
「あいつ、って……まさか、あなたの片割れ……!?」
「あぁ……」
「何か、心当たりがあるんですか?」
「……あいつが特別養子縁組に出されたのは、単にうちが貧乏だったからでな……親の愛情を一心に受けて育った私を憎んでいるのでは、と少し危惧していたんだが……まさか……」
大いにありえる話だろう。
私にはもう親と呼べる人はいないのだろうけど、もしその人たちが2人で別の子供と仲睦まじく暮らしていたなら、嫉妬せずにはいられないだろう。
子供の頃のそういう心の問題は、大人になってもなかなか消えることは無いと聞く。
技術の発展によって爆発直後に橋が崩壊することは滅多にない。しかし、それは決して崩壊しないという意味ではない。状況が分からないからか、列車も急停車したきり動く様子もない。
「なんてことをしてくれたんだ……!」
「今それを言ってもどうしようもありません!とりあえず、あなたの片割れに連絡を取ってください。私は、上司に……」
「上司……あぁ、フィアンセか」
「あぁ……えぇ……ていうか今はそんなこと、どうでもいいですから!」
焦りが止められない。
軍人としては標的の方がずっと上だからだろう。彼の方がまだ落ち着いているように見える。
―――どうする?どうすればいい?
考えても答えは出ない。当たり前だ。私は爆発を止められるわけではない。けれど、何も出来ないという事実がもどかしかった。
下から悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
彼らの救助もしないといけない。私も彼も直接手を下していなくても、大いに関係がある。というかこの爆発のそもそもの原因だ。
よく見てみると、爆発したのは最後尾の車両のようだ。そこに栗山さんがいないことをただただ願う。片割れと無理心中、なんてことは考えないようにしているけれど、先程から指先の震えが止まらない。
せっかく標的を確保しても、彼が生きていないと意味が無い。
「クソ……!連絡がつかない……!」
「そんな……!こっちもなんです……!」
「どうなってるんだ……!?」
連絡がとれない。
その事実が余計に心を焦らせる。
永遠に思える時間が続く。
風に乗って鉄骨が軋む音が聞こえてきた。このままでは全員奈落の底は免れられない。
「……私たちのせいだな」
「えぇ。乗客には何の罪もないのに……」
―――なんて今更、後悔しても遅い。
乗客には申し訳ないけれど、もう諦めるしか手はないだろう。
自分のことを駒と言いつつ、今まで散々人の命を駒のように扱い、消してきたのだ。バチが当たったのだろう。そして、そう自分に都合のいいように考えてしまう私は、本当に最期まで自分本位な人間だ。
「あーあ、私は最低な人間だけど、でも最期の瞬間くらい大切な人と過ごしたかったなあ」
「私じゃ不満か?」
「えぇ。でもまあ、お互い様でしょう?」
「まあな。……君の大切な人は、例のフィアンセか?」
「いいえ。彼は本当にただの上司ですよ」
「そうなのか?でも、よく似合いの2人だった」
「それは彼が美形だからで……あと彼、童顔ってわけじゃないですけど、あれで私より5つ年上ですからね。子供に興味はないでしょう」
「まあ、確かにな。今の君に手を出せば、彼はロリコンだ」
「ロリコンって……」
こうやって軽口を言い合っていると、彼は根からの悪人ではないということを痛感する。
屋根の上に行かれた時は正気かと思ったけれど、今の彼からはそんな狂気は感じられない。ただ穏やかな上司が1人、そこにいるだけだ。
口ではああ言ったけれど、最期の瞬間に一緒にいる人が見ず知らずの他人じゃなくて彼でよかった、なんて思い始めたその時。
―――遠くで何か、音がする。
この音は、プロペラ……?どこから……?
というか私、この音をどこかで―――……
ハッとして顔を上げる。
徐々に大きくなる轟音とともに現れたのは、黒光りする体の巨大なヘリコプター。そこから聞こえてくる大声に耳を疑い、米粒くらいの大きさに見えるその声の主に目を疑う。
「か―――さ―――い―――ッ!!!」
「か……河原……!?」
何度も何度も目をこする。けれどその風景は変わらない。
これが、会いたくて仕方がなかった相棒との2日ぶりの再会の瞬間だった。




