64 ホワイトエクスプレス(ⅶ)
朝日の差しこむ真っ赤な廊下は幻想的で、少し不気味だ。えんじ色の絨毯と相成って、まるで血の海の中にいるような感じがする。
その海の中を歩くたびにフレアスカートの裾がゆらゆら揺れるのを、ただぼんやりと眺めていた。
標的の部屋は、私たちと同じ一番下のランクの部屋。もちろん、私たちの部屋と同じように一番下と言ってもかなりの豪華さだけど。
監視カメラを設置するために一度入ったことがあるし、そもそもこの2日間ずっと監視していたので内装はわかる。どうやら車両ごとに内装の雰囲気を変えているらしく、私たちの部屋とは間取りやインテリアの色合いなどが若干異なっているのだ。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。お邪魔しまーす―――」
そう言いながら部屋に足を踏み入れた瞬間、勢いよく閉められた扉。―――大丈夫、ここまでは予想通り。
そんな事を考えながらも、彼が望んでいるであろう通りに突然の大きな音に驚いて怯えるふりをする。そんな私の顔を見た目の前の彼は案の定、満足気な表情を浮かべた。
その瞬間、その顔を見て悟った。
―――なるほど、彼はさっき私と会った時から既に“佐伯”ではなかったのだ。彼は偽りの人物を演じるのをやめていた。彼は既に、私たちが追っている標的として、私たちの目の前に現れていたのだ。
「……どういうつもりですか、佐伯さん?」
「もういい。そんな芝居は」
「芝居って?」
「そういう態度だ、茜さん。……いや、それも偽名なんだろう?」
どうやら向こうは穏便にすませるつもりはないらしい。
日本軍としても、証拠が出た今、彼をみすみす見逃すわけはないが、静かに確保するつもりだったし、標的にもできれば大人しく確保されてほしかった。
だが、向こうにはこちらの状況は分からない。さらに、私に双子の片割れの存在も知られてしまった。故に、ここで行動するしかなかったのだろう。相手の状況が分からないことはかなりの恐怖だ。無理もない。
しかし、それならばこちらも優しく穏便にすませることはできない。
『葛西さん、彼を逃がすなよ』
「……はい。もちろんです」
『……そうか。なら、任せたよ』
耳の中で響いた力強い声。
標的が目の前に居るが、ここまであからさまに疑われてしまっては関係ない。
彼の目をしっかり見つめたまま、はっきりと栗山さんの声に返事をしてやった。
この行動で、標的も私が万が一、本当にただの一般客であったらという疑いを完全に捨て去ったらしい。
意地の悪い笑みを浮かべたその表情は、教官や七瀬さんや亀山大将があの任務の時によく見せた表情にそっくりで、確かにある意味では軍人らしかった。
「……流石ですね。中佐の位は伊達ではない」
「なんとでも言えばいいさ。でも、こちらからも質問させてもらう。一見したところ、君は私より位は高くないようだ……上司の命令には従ってもらおう」
「上司命令なら仕方ありません。でも、あなたが知りたいような情報なんて、私は多分持ってませんよ」
「さあな。それを判断するのは私だ」
彼は顎でベッドを指す。座れ、という意味だろう。彼の神経を逆なでしても何の得もないので、ここは大人しく従う。
ベッドに座らされた私と、ドアに鍵をかけて窓際に腰掛けた標的。今の私には、不意をつけるような逃げ道はない。
「それじゃあまず、君の本名と位から教えてもらおうか」
「……葛西藍。位は伍長」
「なに……伍長だと?ふざけてるのか?」
「ふざけてなんかないですよ。だって私、まだ夜桜学園の生徒ですから」
「な……っ!?生徒だと……!?」
目を見開き、信じられないものを見る目で私のことを見下ろす標的。自分より下だということは分かっていても、さすがにまだ生徒だとは思っていなかったのだろう。
夜桜学園の生徒が任務―――それも極秘任務に駆り出されるのは異例中の異例。予想外なのは当然と言われれば当然だろうが、その現実は思いのほか彼のことを傷つけたらしい。
わなわなと肩を震わせながら私のことを睨みつける標的に、背筋がぞくりとした。
「あいつらにとって……俺の相手は生徒で足るってことか……?」
「あいつら……?」
「最高司令部の奴らだ!君の偽名だって、三坂徹から取ったんだろ!?」
くそッ、と毒づく彼を見ながら、やっぱり、と思う。―――やっぱり、あの時の“三坂”は教官のことだったのか。
こんな圧倒的に不利な状況なのに、あの時の彼は確かに教官のことを尊敬する口調だったのを思い出し、唐突に嬉しくなってしまう。もちろん顔や態度には出さないけれど。
その後も、私に言われてもどうしようもない愚痴と暴言を吐き続ける標的。彼の怒りがそれでおさまるならと耐えていたが、彼の怒りは一向におさまる気配がない。
どうやら彼は、最高司令部に対して強い憧れと嫉妬を感じているらしい。彼の位は中佐だから決して低くないけれど、彼の年齢は50歳の少し手前。
いつだったか、50歳が最高司令部に行けるか否かのリミットだと聞いたことがある。教官は恐ろしすぎるスピード出世だから例外だが、基本的には50歳までに最高司令部に配属されなければ、その後最高司令部に配属される可能性は極めて低いらしい。
彼の人生において、きっと日本軍に入軍したのは予期せぬ出来事だっただろう。それは、私だって河原だって、他の人たちだって教官たちだって同じだ。誰一人として夜桜学園が軍事学校と知って入学していない。
それでも、ここに来てしまったからにはその現実を受け入れるしかない。偽りの楽園での洗礼を受け、生き残った時には既に軍への―――特に最高司令部への憧れを募らせるのはほとんど自然なことだ。
彼が政府の誰に、どんな条件を提示されてスパイになったのかは知らない。けれど、1年前に撃ち抜いた彼らも、目の前にいる彼も、心の奥隅に隠している劣等感に付け込まれたのだろうということは容易に想像がつく。
まだ世の中のことを何も知らない生徒が何を偉そうなことを、と言われるかもしれない。だけど、心の底から憎く悔しく辛そうな顔をする彼を目の前にしたら、そんな姑息な手を使う奴らを絶対に許さないと思わずにはいられなかった。
そんな暑苦しいことを考えていた時だった。
「……勘弁してくれ……」
突然聞こえた弱々しい声にハッとして顔を上げる。
「え……」
目の前の彼は、先程とは打って変わった哀しげな眼差しで私のことを見下ろしていた。その瞳にドキリとする。
―――さっきと同じだ。体の芯がすっと冷たくなっていく。恐怖は全く感じていないのに、嫌な予感だけが重くのしかかってくるような感覚。額に嫌な汗が滲み始める。
しかし標的にそれを悟られてはいけない。大丈夫、ポーカーフェイスは得意な方だ。
そう自分を鼓舞してなんとか顔を上げる。そこにあったのは虚ろな瞳。それに既視感を覚える。私はこの瞳をどこかで……
―――あの時だ。赤羽根教官に任務を頼んだ時だ。あの時の彼の瞳も今の標的のように、虚ろの中にただどうしようもない怒りだけが漂っていた。
―――声をかけるべき?けれど、どういう言葉を……?
今の彼や、あの時の赤羽根教官の気持ちをわかった気になっているが、実際は何一つ分かっていないのだろうということは自覚済みだ。物わかりのいい子を演じていても実際、私も今のところは彼の言う“教官側”の人間だ。
「……君には分からんだろう、私の気持ちなんて……!」
他人の気持ちなんて分からない。分かるはずがない。―――だけど、ものすごく分かる。
いくら教官側の人間だからと言っても、悔しい思いをしなかったわけじゃない。今だって、学年順位が3位であることを気にしなかった日はない。
―――富井や河原と私の差は何?頭脳?身体能力?技術?
たった1つ。たった2つ。されど、その差が大きく、ひどく遠い。
本当に、この任務に携わるのが私でよかったの……?
狙撃任務を任された時も、栗山さんと組んで任務を与えられた時も、その言葉だけが浮かんで脳裏から離れない。
僅かなミスをするたびに、その割れ目から呪いの言葉は垂れ込んでくる。気付かないふりをしても、それは決して幻覚なんかではない。
―――どんなに小さな亀裂でも、放置すればそれは巨大化する。
「分からないわよ……」
「は……?」
「分からないけど……でも、あなたのやり方は間違ってる……!それだけは確かよ!」
え……?私、今何を―――
ハッと気付いた時には、目を見開いて私を呆然と見る標的がその場に佇んでいた。
脳内が混乱し始める。けれど分かるのは、掛ける言葉を完全に間違えたこと。
『か、葛西さん……?』
「あ……」
インカムの向こうから、戸惑う栗山さんの声が聞こえる。しかし、申し訳ないことに一番戸惑っているのは自分自身だ。
なんで私、あんな身勝手な発言をしてしまったのだろう。
これでも教官の教え子で、私自身、自信満々とは言わないけれどちゃんと自分に誇りは持っているつもりだ。故に彼同様、“私なんか……”という人間にイラつくことも無きにしも非ず。
しかし、教官と違ってまだ身分も実力もないので、誰彼構わずキレるなんてことはないように気を遣っていたのに。
いよいよ本当に分からなくなってきた。すごい勢いで脳内を掻き回されているような心地がする。
―――人の劣等感を見て、自分の劣等感を爆発させてどうするの……!
怖い、怖い、怖い。気が遠のきかけたその時。
『葛西さん!!』
「ッ!」
キーンという耳鳴りと共に聞こえた栗山さんの声。それは確実に緊張と怒りを孕んでいた。
そうだ、このままでは彼の顔にも泥を塗ってしまう。私のことを信じてくれる彼だけでも、なんとしても守らなくては。
その気持ちだけを支えに気持ちを保ち、ぐっと標的を睨みつける。一瞬怯んだ今の彼には、優しい“佐伯”の面影なんて微塵も感じられない。
「結局、私も彼も、ダブルフェイスを使い分けられる力はないってことか……」
今の私は落ちるところまで落ちた。栗山さんからの評価も、最高司令部からの評価もガタ落ちは免れないだろう。
でもそれはつまり、失うものは何も無いということ。
―――あぁ、こんなに開放的な気持ち、いつぶりだろうか。
だけど、それはおそらく向こうも同じ。そう思い、身構えた瞬間だった。
「何をぶつぶつ言ってるのか知らんがな!……クソッ!!」
「な……ッ!?」
「ふん、命が惜しければ諦めるんだな!」
いつの間にか窓側へ移動していた彼は、勢いよく列車の窓を開けたかと思えば、そのまま上へと吸い込まれるように消えた。
突然のことに、一瞬思考が止まる。けれど、彼が既にこの部屋にいないことは間違いない。そして、おそらく彼が今いるのは―――
「待って……ッ!」
―――この列車の屋根の上だ。
「葛西さん!?どうした!?」
耳の中と外から同時に聞こえてきた栗山さんの声。ドンッ、という派手な音と共に現れた栗山さんと視線が合う。
この人、こんな分厚い扉を押し破ったのか、なんて頭のどこかで冷静にそう思いつつ、突然登場した彼に唖然とする。
「く……栗山さん!?」
「何があった!?」
「標的が消えました!多分、屋根の上に……!」
「屋根の上……!?」
さすがの栗山さんでも、この展開は予想外だったらしい。
標的が屋根の上に逃げた理由は分からない。本気で逃げ切れると思っているのかもしれないし、自ら命を絶つつもりなのかもしれない。
けれど、今の私に出来ることは1つだけ。
「私が彼を追います!栗山さんは片割れをお願いします!」
「無茶言うな!俺が行くから、君が片割れを頼む!」
「いいえ!私が行きます!だって―――」
次々と浮かんでくるのは、この3日間の記憶。俗に言う走馬灯というやつだろうか。
そういえば彼の綺麗な顔と瞳に慣れずにドキドキしたのはたった数日前か、としみじみ感る。
不思議なものだ。その栗山さんの瞳を私は今、自分の意志で見つめているのだから。
「私は、標的を追うためだけじゃなく、あなたを守るためにここにいるんですから!」
―――分かった。渡辺さんが栗山さんの言うことを聞いて、彼と私を組ませた理由がやっと分かった。
今の私の存在価値は、彼を守ること。情報科のホープである彼だけでも、生きて日本軍に返すことだ。
そのためなら、この命だって賭せる。
―――否、賭さなくてはならないのだ。




