59 ホワイトエクスプレス(ⅲ)
まぶたの裏を刺激する明るい光に、違和感を覚え、意識を浮上させる。―――私、確か標的を見張ってたはずじゃなかったっけ……?
「あ、起きた」
不意に頭上から降ってきた優しい声。寝惚け眼で上を見ると、そこには栗山さんの顔があった。というか、なんで栗山さんがここに……?
その顔をぼんやり眺めていると、徐々に昨日の記憶が蘇ってくる。
確か昨晩は、標的が突然消えて、でも突然現れて、それで安心して、そして……
―――そうか、私、寝ちゃったのか……!なんて失態!恥ずかしすぎる……!
「ごめんなさい、栗山さん……ッ」
「いや、そんなに勢いよく起き上がったら……!」
あまりの恥ずかしさに、栗山さんの声も聞かずに勢いよく上半身を起こす。
ゴツンッ―――比喩ではなく、本当にそんな音が聞こえた。
「いっ……!」
「ッ……!」
突然訪れた痛み。100パーセント自分のせいなので、誰も恨むことは出来ない。
痛みに悶絶しながらうっすら目を開けると、目の前には同じく痛みに悶える栗山さん。
失態に失態を重ねるなんて、申し訳なさと恥ずかしさで顔が熱くなる。
寝起きのまだ働かない頭を必死にフル稼働させ、どうすればこの状況を打開できるか考える。しかし、考えれば考えるほど、余計に事態が分からなくなる一方。
そんな私に追い打ちをかけるように、栗山さんは何故か可笑しそうに声を出して笑った。
「へ……?」
「ははっ、面白いな、本当に」
「そ、そんなことないです……!っていうか、あの、すいません……!」
「ん?あぁ、俺の方は大したことない。それより、君の方は……」
「えっ、あの……!」
柔らかく細められていた彼の瞳が、突然真剣な光を帯びる。そして、その綺麗な顔がぐんぐん近づいてくる。
「く、栗山さん……あの……!」
「んー…怪我はしてないようだ」
その距離5センチ。恥ずかしさでさらに顔が熱を帯び始めた。
―――やばい。このままでは本当に、恥ずかしくて死んでしまいそう。
河原や財前の顔がこの距離にあろうが、極論キスされようが、きっと素面を保てる。2人とも整った顔だけど、慣れというのは恐ろしく、12年間も見続けた顔には、流石に私の心臓も敏感に反応しない。
―――どうやら私は、自分で思っているよりもずっと初心らしい。いや、こういう状況に慣れていると思ったこともないけど。
思い出してみても、私にはそういう経験はない。思い出す、というと少し語弊があるか。そもそも経験がないのだから、思い出すもクソもない。しかし、それは私だけではない。そう、決して私だけではないはずだ。
一番、というか唯一の理由は、実践の存在。夜桜学園の生徒は、実践の存在のせいで恋人や特別な人を作るのにかなりの抵抗がある。
片や栗山さんは情報科の一員。
聖菜さんや渡辺さんもだけど、彼女らの雰囲気からはその経験の豊富さが滲み出ている。キザなことを平気な顔をしてやってのける上に、それがよく似合ってしまう。経験の乏しい学生とは大違い。
要するに、そんな人の感覚で接されると、慣れていないこちらはたまったものでは無いのだ。
自分の心臓が止まる前にどうにかしなくては。本気でそう考えて、なんとか声を絞り出す。
「あの……っ」
「ん……?」
「栗山さん、その……顔、近くない、ですか……?」
「え……?」
パチリ、と視線がかち合う。
―――あ、少し慣れてきたかもしれない。前々から思ってたけど、綺麗な瞳だな……。
ぼんやりそんなことを考え始めた私を、彼はしばらくそのまま見つめ続け、そして―――さらに近付いた。
「へっ……!」
「ふふっ、やっぱり面白い」
「ちょっと……!からかうの、やめてください……!」
「いいでしょ。俺の顔も君の顔も、見られて減るものじゃない」
「そうですけど……!」
完全に栗山さんのペース。彼は完全に私のことを面白がっている。
「……余裕ですね」
それが悔しくて、少し拗ねたような声が出てしまう。耳聡くそれを聞いた栗山さんは、また少し笑う。
「うん?まあ、そうだね」
突然、変わらず至近距離にある彼の瞳の奥がギラリと光った。
「だって、それが仕事だから」
私の大きく息を呑む音が、静かな部屋に反響した。
「仕事……情報科の?」
「もちろん。今、本部隊がやっているような大掛かりな情報収集もするけど、1人に付け入って情報をかき集めるのが基本だからね。いかに上手く標的の懐に入り込めるかがカギだ」
「へぇ……」
時々栗山さんが話してくれる、情報科の仕事内容。それを聞くたびに、私にそれが出来るのか不安がよぎる。
聡い栗山さんが、私のそんな不安を見逃すはずがない。けれど栗山さんはいつも、何も言わずにただ微笑む。
「まあ、君も綺麗な顔しているから大丈夫だよ」
そう言って軽く肩を叩く栗山さんの手つきは、少しだけ教官に似ていて安心する。
「っていうか、やっぱり自分の顔が綺麗、って自覚はあるんですね?」
「あっ」
―――そんなやり取りをしたのが、約2時間前。
一晩中栗山さんだけに見張りをさせてしまったのが申し訳なさすぎるので、彼にはしっかり3時間休んでもらうことになった。というか、私が譲らなかった。
いいよいいよ、と遠慮する栗山さんに半ば強引に自室に戻ってもらい、朝食をとりつつ画面を眺める。
「特に目立った動きはないか……」
標的も朝食をとっている真っ最中。食堂車の美味しそうなパンを頬張っている。
テーブルの上に置きっぱなしにしてあるスケジュール表にざっと目を通す。今日の予定は、昼に小さな催し物があるだけだ。
豪華寝台列車とはいえ、乗っているのは決して大金持ちばかりではない。昨日のパーティーで出会った中には、見るからにボンボンといった感じの人もいたが、老後の楽しみでやってきたという慎ましい老夫婦も数多くいた。そんな人たちのために、ビンゴ大会や軽い立食パーティーが催されるのだ。
ドレスコードはなし。気軽に入って、好きなタイミングで帰ることのできるパーティーなら、標的も少しくらいは顔を出すかもしれない。
スケジュール表を片手に持ったまま、ベッドの上の画面の暗い端末に視線をやる。本部隊からの連絡はまだない。
確か今日が決行日だったはずなので、夕方くらいには証拠が出揃っている可能性もあるだろう。それまでに、私も出来る精一杯の準備をしなくては。
河原だって財前だって富井だって、必死に食らいついている。私だって栗山さんと協力して―――……
「……協力、できるかな……」
忘れようと努力していたのに、ちょっとしたきっかけで数時間前のあの出来事を思い出してしまった。
やはり思い出してもあれは恥ずかしすぎる。というかむしろ、今の方がずっと恥ずかしい。
情報科というのは、あんなキザなことが似合ってしまう人ばかりなんだろうか。今のところ出会っている情報科の人は、確かに皆同じようなタイプだ。聖菜さんも渡辺さんも、自分に自信があってかっこよくて素敵な人。栗山さんは2人に比べると大人しいと思っていたけれど、どうやらそんなことはなかったらしい。
「本当に私、やっていけるのかな……」
今から先が思いやられる。そもそも、情報科に入れるという確証もないんだけど。
まあとりあえず、自分に自信をつけるところから始めてみるか。
ちなみに言っておくと、私は決して自分に自信がないわけではない。あくまで自信が無いのはその容姿と行動だけ。
容姿は栗山さんも褒めてくれたけれど、必要最低限のことしかやってこなかった体はボロボロで、お世辞にもとても綺麗とは言えない。マメだらけの手のひらも傷だらけの背中も勲章だと思えば誇らしいけれど、実際はそうは見えないのだろう。
行動も男勝りだと思ったことはないけれど、上品とは言い難い。最低限、これでも女の子らしくはしているつもりだけど、河原や教官と一緒にいる時はどうしても忘れてしまう。
かと言って、今更富井に聞くのもなんか恥ずかしいし、私が富井のような言動をしたところで可愛らしくはならないだろうし。
その代わりと言っては何だけど、自分の実力には自信がある。細かいことは置いとくとして、先の任務で狙撃の腕前を買われたのは素直に嬉しかった。それに、そのお陰でさらに自信がついたのも事実。
「自信かぁ……難しいな……」
自分に自信を持つことは、決して容易ではない。狙撃の腕前だって、こんな風に思えるようになるまでにはかなり時間がかかった。
それでも、自信を持つことが情報科に入るためには必要ならやってやるしかない。苦手だからといって逃げるわけにはいかないようだ。
コンコン、と軽い音が部屋に響く。次いでドアの向こうから現れたのは、しっかり身支度を整えた栗山さん。
「葛西さん、交代しようか」
「……もう大丈夫ですか?」
「ははっ、徹夜は慣れてるから大丈夫だよ。ちゃんと仮眠もとった」
疲れを感じさせない爽やかな笑みに、こちらの表情が強ばる。―――徹夜慣れって……。
でもそういえば、教官も前に似たようなことを言っていたような気がする。
栗山さんが本当に大丈夫なのかは私には分からないけれど、私も身支度をしなくてはいけないのでここは彼に任せる。
軽く一礼して部屋を出て、自室で素早く身支度を済ませ、再び監視部屋に戻る―――なんてことが出来たら、どれだけよかったか。
「もーっ、どうなってるの、これ!」
鏡の中に映るのは、先程よりもひどい髪型になった自分の姿。コテで綺麗に巻くところまでは何とかなったのだが、その先が壊滅的だった。
何度も結び直したせいで巻きもとれ始め、ぴょんぴょんアホ毛が飛び出す始末。メイクはまだだが、こんな疲れきった顔ではどんなメイクも似合わないだろう。
こんなことならいっそ、いつも通りの髪型にしておけば良かった。せっかく聖菜さんが選んでくれた服まで台無しにしてしまった気分だ。鼻の奥がツンとして、視界が滲む。
「どうしよう……」
小さなつぶやきが虚しく反響する。
こうなったらシャワーを浴びて、一度全部リセットするしかないかもしれない。大変な手間だけど自業自得だ。
はぁ…、と小さくため息をついて椅子から立ち上がったその瞬間、端末がバイブ音を発した。
「ッ!」
本部隊からか、と身構える。しかしディスプレイに表示されている名前は―――
「栗山さん……?」
―――何故?隣の部屋にいるはずの彼が、どうして私に連絡を入れるのだろう?もしかしたら、標的に動きがあったのかも……!
そう思い、急いでメッセージを開く。
しかし、届いたのは決してそんな緊急を要するものではなく。でも、驚きで思わず端末を落としかけた。
「エスパーなの……ッ!?」
届いたメッセージは、たった一文。―――“髪型が上手くできないなら部屋までおいで”
情報科、恐るべし。
コンコン、と小さくノックしてドアを開くと、部屋の中では例の爽やかな笑みを浮かべた栗山さんが遅めの朝食をとっていた。
そんな優雅な彼も、ドアの向こうから覗く私を見るや否や、若干表情をこわばらせて苦笑した。
「これはまた……凄いことになってるな」
「すいません……」
「謝ることはない。巻くところまではうまく出来ているから」
そう言って栗山さんは手招きしながら、小さな子供を呼ぶような優しい声で私を呼ぶ。
「葛西さん、おいで」
「……はい……」
情けなさと恥ずかしさで、また視界が滲む。そんな私を笑うことなく、栗山さんは優しい手つきで髪をとかし始めた。
「楽しいな。女性の髪のアレンジは練習させられてたけど、実際使ったことはなかったんだ。でも、意外といけるもんだな。まるで妹が出来たみたいだ」
優しく、けれど手早く髪を編み込んでいく栗山さんが、楽しそうにそう言って笑う。
「妹かぁ……栗山さんの妹なら、私もなりたいかも」
「そう?……まあでも、実際は三人兄弟の三男坊だから、面倒見はそこまでよくないはずだ」
「そんなことないですよ。本当に、素敵なお兄さんみたい」
「そうかな。ありがとう」
着々と出来上がっていく細かく繊細な編み込みを鏡越しにぼんやり眺める。じわじわと自分の心が穏やかになるを感じた。
真剣な彼の横顔を鏡越しに眺めながら、本当に彼がお兄さんなら楽しい日々を送ることができるだろうなぁ、と思った。
朝の一件のように、唐突にからかわれたり試されたりすることもあるけれど、それを含めても栗山さんは素敵な人だ。彼のようなお兄さんがいたとしたら、私なら絶対に自慢する。
「よし、出来た」
ぼんやりそんなことを考えていた私の肩を、栗山さんがポンと叩いた。
「わ……すごい……!」
鏡の中の自分を見て目を見開く。満足げに微笑む彼の表情が物語るとおり、先程までの爆発が嘘のような素晴らしい編み込みが仕上がっていた。あまりの綺麗さに、一瞬言葉を失う。
「我ながら上出来だと思うんだけど」
「ほ……本当にすごいです……!ありがとうございます……!」
「うん、役に立ててよかった。だから……」
栗山さんが笑みを深める。そのなんとも形容し難い美しい表情にまた少し、心臓が高鳴った。
「そんな悲しそうな顔、もうしないでいいよ」
―――あぁ、本当に私はこの人に敵わない。




