56 ホワイトエクスプレス(ⅱ)
窓から差し込む光も少し赤みを増してきた午後6時。
その後も標的が特に目立った動きをすることはなく。時計を確認すると、初日のパーティーの時間が迫っていた。
鏡の前に立ち、真っ赤なルージュをひく。
普段は化粧なんて全くしないので、チークやアイシャドウをのせたりアイライナーを引くことすら一苦労だったけれど、何とか様にはなっているはずだ。
「……よし」
今一度鏡の中に映る自分の姿を確認して、小さく頷いてから外に出る。
茜色が反射する廊下を歩く。窓の外に目をやると、そこにある空も雲も木々も茜色に染まっていた。当然だけど、楽園の本部から見える景色とそれは全く違う。
「外かぁ……」
もちろん、今私が見ている景色だって広い世界のほんの一部なんだろう。だけどそれでも、私にはすべてが目新しく輝いて見えるのだから不思議だ。
暫しそんな感情に浸った後、パーティー会場へと足を踏み入れる。その瞬間、目の前に広がる光景に思わず声が漏れた。
「わっ……!」
そこにあったのは、豪華絢爛を絵に書いたような空間。眩しいくらいに輝くシャンデリアに、全面ペルシャ絨毯の床。
「すごいな……金のかけ方が違う」
「あっ、栗山さん!」
そんな光景に見とれていると、突然聞こえた彼の声。顔を上げると、栗山さんの優しい瞳と目が合った。
「へぇ、派手なルージュだがよく似合ってる」
「あはは……普段は化粧しないから、かなり苦労しました」
「いいさ、それも経験だ」
昼間とは違ってしっかりセットされた髪型の栗山さんは、普段は掛けていない黒縁メガネを掛けていた。
そのメガネのせいだろうか。彼の横顔が若干教官に似ている気がして、思わず口元が緩みそうになる。
―――結論から言うと、パーティーは何事もなく始まり、何事もなく終わった。
標的は基本的には一人でいたが、誰かに話しかけられれば愛想よく応えていたし、お酒も飲んでいた。
私と栗山さんは基本的には2人で行動していたけれど、血の気の多いセレブの若い女性が、栗山さんほどの美青年を放っておくわけがなく。彼の方も目立った動きはしたくないらしく、渋々彼女たちの相手をしたりしていた。
そのせいで一人になった私も、よく知らない男性数人に囲まれて大変だったわけだが。
「ごめんね、大丈夫だった?葛西さん」
「え?あぁ、はい。河原にこういう時の対処法、教えられましたから」
「対処法……?」
「はい。こうやって腹筋を見せた後、軽く蹴りを見せればみんなドン引きだって」
「ちょっとちょっと、君、女の子だろう!?」
―――なんて、どうでもいいやり取りも交わしつつ。
兎にも角にも、終始穏やかな雰囲気でパーティーは過ぎていった。
だからこの時点の私は、油断していたのだ。
もちろん標的に対する疑いは消さなかったつもりだけど、心のどこかで、彼は本当にただの休暇のためにこの列車に乗っているのではないかと思い始めていた。
その矢先のことだったのだ。
「どういうことだ……!?」
「え……?」
―――監視部屋に戻って画面を見た時、どこにも標的の姿が見えないと気付いたのは。
何も分からない中、下手に列車内を動き回るわけにもいかないのでとりあえず監視部屋で2人で話し合う。
ホワイトエクスプレスは、今はこの列車しか使っていない山奥の専用線路の上をゆっくり走っている。故に、ある程度の自由がきくので、景色が綺麗なところでは線路の上で止まったりはするが、終点までの途中停車駅はたったの2つ。しかし、ここまでの道程ではどこにも停車していない。
つまり、彼がまだこの列車内にいることは間違いないのだ。
車内に置いた9つのカメラは、なるべく死角がないように栗山さんが設置場所を事前に考えた。そのお陰で、たった9つでこの車内のほとんどが見れる。カメラの性能もトップクラスだが、栗山さんの頭脳もトップクラスなのだとしみじみ感じたものだ。
しかし、もちろん私たちも一般人という立ち位置なので、関係者の領域には設置できていない。けれど、立ち入れないのは向こうも同じはず。
―――それならば何故、どこにも姿が見当たらない…?
トイレかとも思ったが、それにしては長すぎる。
トイレ内には流石に他の客のプライバシーもあるので設置していない。そもそも人通りの多い廊下に面しているし、目の前には必ず警備員が立っているので、人に聞かれたくない話などはしないだろう。長く居座ればその警備員に不審に思われるだろうし。
腕時計を見る。異変に気付いて、そろそろ30分といったところか。
根本的な問題だが、そもそも私たちは彼が本当にスパイであるという証拠を握っている訳では無い。その証拠を探りに行っているのが河原たち本部隊なのだ。
故に、今彼を見つけて拘束したとしても、向こうはいくらでも言い訳できてしまうわけで。
もちろん情報科の判断を疑っている訳では無い。あの渡辺さんが下した判断だ。彼がスパイとみて間違いないのだろう。
しかし、決定的な証拠の存在はあまりにも大きすぎる。
極端な話、証拠があるだけで迷宮入り寸前の難事件だって解決できてしまうのだから。
「仕方がない。俺たちも疲れを取らないわけにはいかないから、予定通り交互に監視を続けよう」
表情に影を落とした栗山さんが、そう言いながら私の肩を叩いた。
長い付き合いではないけれど、彼が河原以上に飄々としていて余裕のある大人だということはよく知っている。だからこそ、今の彼の苦しげな表情に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……はい、わかりました」
「あぁ」
―――そんな彼をこれ以上困らせないよう、私もしっかりしないと。
その後の話し合いで2時間で監視を交代することを決め、最初は栗山さんが監視をすることに、私はしばしの休息を取ることになった。
私は自室に戻り、シャワーを浴びてクールダウンをする。正直なところ、身体は興奮していてとても落ち着きそうにはないけれど。
髪をふいてからガウンを羽織る。その柔らかさに少しだけ心も和らぐような気がした。
眺める窓の外は静寂そのもので、満月になりかけの月と無数の星々が輝いていた。
「まるでさっきまでのパーティーが、夢のようね……」
自分でそう呟いた途端、体の奥からなんとも言えない悔しさがこみ上げてきた。目頭が熱い。
栗山さんはともかく、私は確実に油断していた。これは完全に私の落ち度だ。
―――なんて言っても、きっと彼は自分も悪いと言って認めないんだろうけど。
きっと1年前の私だったら、ここで自分の落ち度と実力の無さに絶望して諦めていただろう。
でも、私はあの任務を通して成長したし、この任務を通してさらに成長するつもりなのだ。そう河原と2人、それぞれの場所に向かう前に誓い合った。
その誓いを破るわけにはいかない。
今一度端末を見る。交代まであと1時間以上。
ずっとここにいてもいいけれど、車内を回ってみるのも悪い判断ではないだろう。
まだ何もわかっていないことに変わりはないが、何も決まっていなかった先程とは違い、今は役割分担は済んだ。自分の頭もなんとか少しずつ冷静さを取り戻してきたし、車内を回る方がここにいるよりずっといいはずだ。
そうと決めたあとの行動の早さには、それなりに自信がある。
勢いよく立ち上がってガウンを脱ぎ捨て、部屋着用のドレスを着て、髪を乾かして軽くまとめる。
私が着ているこれはネグリジェという外国のパジャマらしい。他の服と同様に聖菜さんから貰ったのだが、かなり洒落たデザインで正直なところパジャマには全く見えない。
私自身、そういうセンスは全く自信はないけれど、これを着て外に出ても大丈夫なことは栗山さんのお墨付きだし、ネグリジェでの外出は、車内の夜間のドレスコードにも引っかからないはずだ。
もちろん思いつきだけで勝手な行動をするわけにはいかないので、栗山さんにもちゃんと連絡を入れる。
電話とメールで悩み、結局電話をかけた。
メールでも良かったと思うけど、自分の意思をちゃんと言葉にして伝えたかった。
声は聞こえるのに顔が見えない分、いつも話す時よりもずっと緊張した。けれど、最後の栗山さんの言葉でその嫌な緊張感はすっと消えていった。
『ありがとう。やっぱり君を選んで正解だったよ』
―――まだ何も始まってないし、まだ何も終わってないけれど、嬉し涙が一筋、頬を伝った。
正直に言うと、河原や教官がそばにいないだけでかなり不安だった。
特に河原とは、相棒としてずっとそばにいるので離れている方が珍しい。だから、連絡すら取れないこの状況をものすごく恐ろしく感じていた。
だけどそんな不安を取り除いて、安心を与えてくれたのは栗山さんだ。あの優しい眼差しと声に、たった1日でどれだけ救われたか。
そんな彼が期待してくれているのだ。ならば、絶対に応えるしかない。
部屋の外は思っていたよりも賑やかだった。
廊下はオレンジ系の電灯と僅かな月明かりのみの薄暗く、けれどどこか幻想的な雰囲気。けれど流石に人はいなかった。
右と左、どちらに行くか考えていると、ふと右手から賑やかな声が聞こえてきた。どうやら、先程までいたパーティールームにはまだ人が残っているらしい。
「パーティールームの奥には、たしかバーとクラブがあったはず……」
パーティールームの横の廊下を通り、その奥へと向かう。
そこにある娯楽施設も外から見ただけだが、漏れ聞こえてくる音を聞けばたくさんの人がいることは容易にわかった。
もちろん娯楽施設の入口も見張っているけれど、彼が出入りしているところは映っていなかったので、標的がここにいないことは確認済み。
しかし、万が一ということもあるかもしれない。
「ちょっとだけなら……」
―――大丈夫、お酒さえ飲まなければ何とかなる。
“Club While Express”と書かれたドアを三度見上げてから、意を決して扉を開いた。
瞬間、飛び込んできたのは眩しすぎる光と、耳の奥をつんざくような激しい音楽。
「本当にここ、車内なの……!?」
たくさんの人がお酒を飲み歩き、好きな時に踊っているこの空間は、看板に書いてあったとおり、一般的に“クラブ”と呼ばれているらしい。
楽園にもあるのでもちろん存在は知っているけれど、普段は縁遠い場所なので詳しいことは全く知らない。
客たちは各々自分の世界に浸っているので、静かに扉を開いた私の存在には誰も気付いていない。
「や……やめよう……」
これでもか、というほど派手なメイクと衣装に身を包んだ彼ら。対して一方、メイクも落とし、服もネグリジェの私が、その場においていかに場違いかということは考えるまでもない。
―――ごめんなさい、栗山さん。私にはまだ、大人すぎる世界でした。
「はぁ……なんか疲れたなぁ……」
―――少し離れた前から2番目の車両と廊下にて。ここも客車なので、先ほどとは打って変わってとても静かだ。
この先にあるのは関係者しか立ち入れない1両車のみ。ここに標的がいないのだとすれば、後は後ろへ向かうしかない。
本当に一体どこにいるのだろうか。
頭を悩ませ下を向きながら歩いていると、突然前方に人の気配を感じた。すっかり気を抜いていたので、突然のことに驚きすぎて大きく肩がはねた。
まさか標的か―――と身構えこそしたが、残念ながら前からやってくるのは乗務員だった。まあ、前にあるのは1両車だけなんだから当然といわれたらそうなんだけど。
この状況ではむしろ、ネグリジェのままふらふらしている私の方が怪くなってしまう。声をかけられるのも面倒なので、再び俯いて歩き出す。
そのまま向かってくる乗務員とすれ違ったその瞬間、ふわりと匂ったその匂いに思わず顔を上げ、彼の後ろ姿を凝視してしまった。
―――あれは、アルコールの匂い……?
酔っている様子ではなかったけれど、確かに匂ったアルコールの匂い。でも、勤務中の乗務員がお酒を飲むなんてありえるのか。
軍なら絶対にありえない、と考えかけて、とある光景を思い出して一人首を横に振った。
そういえば、下級軍人の一部が真昼間からお酒を飲んでふらふら下層を歩いているのを見たことがあった。しかも一度ではない。彼らの上司らしい人から怒られているところも見たことがある。
「……まあ、みんなパーティーしてるのに、自分だけ仕事なんてやってられないよね」
要するに、どこの世界でもそういう人はいるということだ。
名前も知らない彼にだってきっと、飲まなきゃやってられない理由があるのだろう。そう考えて、想像の中で勝手に彼に同情してしまって苦笑する。
なんだか大人の世界を垣間見た気分だ。
そんなことを考えつつ、その後も車内をまわり、気付けば交代の10分前となっていた。
結局標的が見つかることは無かったけれど、車内の構造を把握することは出来たし、結果的にはよかっただろう。
そう考えて満足して、軽い足取りで栗山さんの待つ監視部屋へと足を運ぶ。
「栗山さん、そろそろ……」
「あぁ、葛西さん。ちょうど良かった」
ベッドに腰掛けて画面を眺めていた栗山さんは、私の顔を見て優しく微笑んだ。
「標的が現れたんだ。唐突に」
「え……!?いつですか?」
「そこは分からないんだけど……ほら、ここ。彼は自室にいるだろう?」
「ほ、本当だ……」
標的が見つかったので、とりあえず安堵する。だから栗山さんの表情も和らいでいたのか。
しかし、だからこそ、心の中で引っ掛かりが大きくなる。―――彼は本当に、30分以上もどこに身を隠していたのだろう……?




