54 忙しい1日(ⅳ)
携帯端末片手に部屋を飛び出し、非常用階段で男子寮まで駆け下りる。
かつて適当な説明、と北長瀬先輩に言われてしまった河原の部屋への道のりは、今ではもちろんバッチリ覚えている。まあ、当時も覚えてはいたんだけど。
部屋の前で軽く呼吸を整えて、ドアを2、3回ノックする。一瞬の間の後、中から聞こえてきた間延びした河原の声。
「はーい、どちら様……ってなんだ、葛西かよ。どうした?」
火照った顔がドアの向こうから覗く。どうやらシャワーの後だったらしい。
「メールが届いたの。一緒に来てって」
「はあ?メール?何の?……てか、俺のとこには何も来なかったけど」
コテン、と何故か可愛らしく首をかしげた河原に、私の端末に送られてきたメールを見せる。すると、みるみる河原の表情が真面目なものになっていく。
「……本当だ」
「そういうこと」
「なるほどな。……わかった。ちょっと待って、すぐ着替えるから」
「えぇ、わかった」
そう言い残して部屋に戻った河原が再び出てきたのは、ピッタリ1分半後。
「ていうかそもそも渡辺信二さんって、誰なんだよ?」
―――エレベーターの中にて。私から転送された例のメールを自分の端末で眺めながら、河原は再び首をかしげた。そんな彼に、玲子さんのことも含め、大切なことだけをかいつまんで話す。もっとも、信二さんのことは私も全くと言っていいほど知らないんだけど。
「なるほどなぁ……」
話を聞いた河原は腕を組み俯き、低い声を漏らした。
「……すげぇ人達だな、その渡辺さんって人も、その奥さんも」
「本当よね。私もびっくりした」
「あぁ。でもだからこそ……」
河原の瞳が、一瞬獲物を狙う獣のようにギラギラと光った。
「そんな人たちからの呼び出しには、かなり興味があるよな」
彼の口元がにんまりとした弧を描く。
ここ最近、河原のこんなに無邪気な、心の底からの笑顔を見ていなかったような気がする。
だからだろうか。今、目の前にあるこの笑顔がとても眩しくて尊いもののような気がして、とても嬉しくなった。
本日二度目の上層部。100階に来るのは慣れたものだけど、普段そこで待っている人物は絶対と言っていいほど教官。彼と会う時に緊張するかと言われると、100階という場所のせいで緊張はするけれど、彼と会うこと自体に緊張することはない。
しかし、今日は違う。まだ会ったことも話したことも、見たことすらもないすごい人がそこにはいるはずなのだ。心臓が、いつもと比べ物にならないくらい早いペースで脈打つ。
下層部にあるフードコートと同じくらいの広さのオープンスペース。人はそれなりにいたけれど、奥の方、人のいないスペースに1人だけ腰掛けて端末を眺めている、刈り込まれたグレーがかった髪の男性が渡辺信二さんであろうということは、私も河原も一瞬で理解できた。
―――オーラが違う。違いすぎる。
これほどのオーラを感じたのは初めて玲子さんを見た時以来だ。首筋を汗が伝った。
恐る恐る、けれど確実に一歩ずつ歩みを進める。いつもは気にならない足音が、耳の中で大きく響く。
その足音に気付いたのだろう。端末に落としていた視線をふっと上げた彼が、私と河原の存在を視界に捉えた。決して若いわけではないけれど、その瞳は無邪気な少年のように輝いていた。
「初めましてだな、河原一也くん、葛西藍さん。俺は情報科総主任の渡辺だ。よろしくな」
軽く片手をあげながら私たちの方へ歩み寄った渡辺さんは、私たちに手を差し出しながらニカッと笑った。魅力的な笑顔だった。
豪快に見えるのに目尻のしわは優しげで、ふと玲子さんのことを思い出す。やはり2人は夫婦なのだと、知ってはいたけれど改めて感じた。
「初めまして。ご連絡、ありがとうございます。高等部3年の葛西藍です」
「同じく高等部3年の河原一也です。よろしくお願いします」
骨ばったしっかりとした手を握り返す。マメの数なら私や河原の方が多いだろうけど、私たちよりもずっと、比べ物にならないほど“強い手”だ。
「おう、よろしくな。話は聞いている。勝手に連絡先を調べてすまんなあ、葛西さん」
「いえ、構いません」
「そうか、ならよかった。……実はな、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
「頼みたいこと……?」
「あぁ。君たちの力を借りたいのと……あと、ちょっと試してみたくてな」
そう言って笑った渡辺さんの瞳が鋭く光る。その妖しげな笑みに、私と河原が息を飲んだのは同時だった。
とりあえず席に座って紅茶を飲む。いつの間にか喉がカラカラだったらしく、潤す水分がありがたい。
横目で河原を伺うと、彼はチラチラと渡辺さんを伺っていた。その渡辺さんはというと、端末を眺めるだけで本題を切り出す様子ではない。
正直なところ、かなり気まずい。
そもそも、初対面のオーラのすごい上級軍人が目の前にいて落ち着いていられるわけがないのだ。それに加えて、歳こそ50代くらいだろうが渡辺さんはかなり整った顔立ちをしている。
聖菜さんといい、栗山さんといい、情報科の人たちは綺麗な顔の人が多いから、総主任である彼もまた整った顔なのは当然と言われれば当然なのかもしれないけど。
もう一度河原を伺う。すると、今度は視線がぴったりと合った。どうやら彼も、この雰囲気が落ち着かないらしい。気まずそうな瞳の奥がそう語っている。
出会って12年目、視線で会話をするくらいのことは容易い。渡辺さんの様子も見ながら、視線での会話を進めていく。
“どうすんだよ、この状況”
“それはこっちのセリフよ。でも実際、彼が話してくれないことには始まらないから……”
“あぁ。……仕方がねぇか。俺が尋ねてみる”
“そうね、それが手っ取り早くて一番いいかも。お願い、河原”
“よし、任せとけ”
河原は少し眉を釣り上げ、力強く頷く。
河原と頷き合って再び渡辺さんに視線を戻すと、彼はやはり端末を眺めていて私たちには注意を向けていないように見えた。
しかし、はっきりとわかった。―――彼は今、間違いなく私たちを試している。
出会って数分しか経っていないけれど、彼は頼みたいことがあると言っていたのにそれを忘れるような人ではないということは分かる。それに、本来なら頼む方から話題を切り出すのが普通だ。それなのにそうしないのには、絶対に理由がある。
「……あの、渡辺さん」
「ん?あぁ、ごめんごめん」
緊張を押し殺した声色の河原の呼びかけに対して、にっこりと普通に、嫌味のない笑みを浮かべる渡辺さん。
その普通があまりに普通で少し怖くなる。―――どこにでもいそうな人間の、どこにでもありそうな笑顔。どんな所にでも違和感なく溶け込んでしまいそうなその笑顔は、きっと彼の武器なのだろうと瞬間的に思った。
河原もその笑顔に何か感じるものがあったらしく、居心地の悪そうな顔で一瞬黙り込んだ。しかしそれは本当に一瞬のことで、河原はすぐに何事も無かったように話を続ける。
「えっと……そろそろ、本題を聞いてもいいですか」
「うん、そうだな」
そう言って頷いた渡辺さんは、私たちの顔を見て可笑しそうに笑った。それは、初めて見た時と同じ、強く印象に残るけれど不気味さは感じない自然な笑みだった。
「それにしても驚いたもんだ。……君たちは、俺のことを待つかと思ったんだけどなあ」
カップの残りのコーヒーを飲み干した渡辺さんは、開口一番そう言ってにんまりとした笑みを浮かべた。
そんな楽しそうな彼とは対照的に、私と河原の表情はかすかに曇る。
「待つのが、期待してた答えでしたか?」
河原が気まずそうな顔で尋ねる。しかし渡辺さんがそれを気にする様子はない。
「うーん、そうだなあ」
短めのあごひげを触りながら、渡辺さんは私たちを見た。ギラギラ光る瞳がこちらを向くだけで、心臓がより一層早く脈打ち始める。
その瞳に見つめられて硬直しかけていた私と河原を見て、渡辺さんはまた可笑しそうに笑った。
自分たちのペースで話が出来るとははなから思っていなかったけれど、ここまで掌の上で転がされるとは。尊敬と悔しさが入り混じってなんとも言えない気持ちになっていると、渡辺さんが唐突に私を指さした。
「え……?」
「いやあ、悔しそうだなあと思って。そんな怖い顔したら。可愛い顔が台無しだなあ?」
「えっ、いや、その……!」
「ははっ、いい反応。若いねえ」
また遊ばれてしまった。決まりが悪くて、思わず顔をしかめてしまう。
いつまで遊ばれるのだろう。そろそろ本題が聞きたいんだけど……。そう思いながら小さくため息をつく。
この調子じゃ、いつまで経っても本題に行き着かないかも。―――そんな不安すら抱き始めていたのに、その瞬間は唐突に訪れた。
―――突然、その場の空気が変わったのだ。
一瞬で全身に電流のように緊張感がほとばしる。
ビクリと肩を震わせた私と河原が恐る恐る前を向くと、渡辺さんが挑戦的な眼差しでこちらを見つめていた。
「さて、そろそろ本題といこうか、少年少女」
教官が本気でキレた時の視線は、それだけで人を殺せそうなほど恐ろしい。
だけど彼の視線は、恐ろしいけれどどこか魅力的にすら感じられた。不思議な視線に戸惑いながら、それでも必死に渡辺さんにくらいつく。
「「はい、宜しくお願いします……!」」
今の私たちには、そう返事をするだけで精一杯だった。
「まず、ちゃんと試していることは分かったわけだな?」
「あ……はい、それは分かりました」
「ほう。流石だなあ?」
「そんなことは……」
「いやいや、謙遜はいいから」
な?、と私たちに呼びかけた渡辺さんは、テーブルに肘をついて、手のひらの上に笑顔を浮かべた顔を乗せて首を傾げた。
やはり年の割にかなり綺麗な顔だ。むしろ歳を重ねたことにより魅力が増している気がする。彼のやること全てが様になっていて、こっちがドキドキしてくるのだ。
どうやらその不思議な魅力は同性の河原にも伝わるらしく、河原は平静を装ってはいるもののその視線を激しく泳がせていた。
雰囲気が変わっても、渡辺さんのペースは崩れない。むしろどんどん引き込まれていくような気がしてならない。
「まあ、試すと最初に言ったにしろ、いつ試すかは言ってなかったしな。ちゃんと気付けたのは上出来だろ」
そう言う渡辺さんの瞳がこちらを見据える。
「それじゃあ、本題だな」
ドクンとまた一つ、大きく心臓が脈打った。何を言われるのか体を硬くして身構える。
―――また突然、雰囲気が少しだけ軽くなった。
驚いて顔を上げると、渡辺さんは優しい眼差しでこちらを見ていた。当然だけど、挑戦的なものよりずっと安心できる。
その眼差しおかげか、早いペースで脈打つ心臓は変わらないけれど、息苦しさのようなものは幾分か和らいだ気がした。
そんな私たちの様子を見計らって、渡辺さんは先程よりも優しい口調で私たちに語りかけた。
「君たちの活躍は、最高司令部の方からよく聞いている。学生の身で任務に携わるだけでも凄いのに、ちゃんと任務を成し遂げるなんて、さすが三坂の教え子で推薦した子なだけあるなあ。……なんてのが俺たちの感想だ」
「はは……ありがとうございます」
「なあに、あれだけの結果を残したのは事実だからな」
そう言って渡辺さんは破顔した。
数分ぶりの彼の自然な笑顔。たった数分のはずなのに、何年も経った後のような気がした。
渡辺さんのそんな笑顔に安心する。けれど同時に胸が締め付けられたように苦しくなる。
こっそり横を伺うと、案の定河原の顔には若干影が落ちていた。
理由はおそらく、その任務の時のことだ。―――話すことに辛さを感じることは少なくなったし、気持ちの整理も着いたはずだ。けれど、それは決して克服したというわけではない。苦痛が和らぐことはあっても、それを忘れることは決してない。―――否、出来ない。私も河原も、きっと一生あの任務のことを引きずって生きていくのだろう。
「まあ僕は、何もしてないんですけどね……」
弱々しい河原の自嘲気味の声が辛くて、思わず下を向く。
「でも、葛西さんが冷静でいられたのは、河原くんが一緒にその場にいたからだろ?なら大手柄じゃねえか」
そんな河原に渡辺さんが掛けた言葉は、今まで彼を励ますために色んな人が何度も言ってきたであろう人並みな言葉―――そのはずなのに。
「そう、なんですかね……」
「当たり前だ。なあ、葛西さん?」
「も、もちろんです!もちろんよ、河原!」
「そっか……そっか……」
―――人の持つ力というのは本当にすごい。
他の誰に言われても完全に晴れきらなかった河原の心の霧が、みるみる晴れてゆくのが私でもわかった。そうしてくれたのは目の前にいる渡辺さんだ。
河原が心に抱える霧の存在を、きっと渡辺さんは知っていた。だから彼は、本題に入る前にそちらを解決したのだろう。
先程よりもずっと良い顔をした河原と、その隣の私を何度か交互に見つめ、やがて満足したように一回大きく頷いた渡辺さんは、ようやく本題を語り出した。
「さて、君たちはまだ日本軍内に政府のスパイがいるかもしれない、という話は知っているか?」
「はい。……というか、確か指摘したの河原だったような気がします」
「あぁ、そういえば……」
「へえ、そうだったのか。そういや、亀山さんがそんなことを言っていた気もするなあ。……実はな、そのスパイの目星が着いたんだ」
「「えっ……!!」」
「情報科の仕事を舐めてもらっちゃあ困るからな?まあ、時間はかなり掛かっちまったけどな」
「それでも流石です……!」
「ははっ、ありがとな。でも、自慢話をするために2人を呼び出した訳じゃなくてなあ」
ガサガサ、と音を立てながら渡辺さんが鞄から取り出したのは、1枚の白紙。何やら文字が書いてあり、印鑑も押してある。
渡辺さんが私たちの前に差し出したその紙に書かれていることを読んだ瞬間、私と河原は顔を見合わせて絶句した。
「「………ッ!?!?」」
―――本当にこれは現実なのだろうか……!?
漫画のごとくお互いの肌をつねる。当然痛い。
そんな動揺しまくっている私たちに、渡辺さんはとどめを刺すように告げた。
「2人には、情報科として任務に参加してもらいたい。……例え先の任務の成功がまぐれだったとしても、推薦されたのが三坂の色眼鏡だったとしても、君たちは結果を残した。それは事実だ。―――もちろん遊ぶつもりは無いし、本気の本気でスパイの尻尾を掴むつもりだが、でも……あぁ、そうだなあ。俺が少しだけ、前途有望な若者を見てみたくなったんだよ」
こうして、私と河原の人生二度目の軍人としての任務は、思っていた何倍も早く訪れたのだった。




