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53 忙しい1日(ⅲ)

「あら、お話は終わったようね?」


教官と一通り話し終わった時、突然聞こえてきたそんなセリフにハッとして入口の方へ視線を向ける。―――開いたドアの向こうにいたのは、あの渡辺玲子さん。彼女は遠くから見るのと何も違わない美しさと、凛とした雰囲気ををまとって、そこに立っていた。

「渡辺さん!」

「全く、話が終わったら呼べと言ったはずなのだけどね、三坂?」

ふふっ、と笑いながら私たちの元へやってきた玲子さんは、控えめな笑みを浮かべて私のことを見た。

「ふふっ、初めまして、葛西藍さん。…いえ、初めましてではないわね?」

「わ、私のこと、ご存知なのですか?」

「もちろん。久々にここを訪れたとき、目が合ったもの。それに、例の任務のことは聞いているわ」


なんてことだ。驚きで、しばらく思考が止まってしまった。

確かに、当然と言われれば当然なのかもしれない。私は学生でありながら軍の任務に携わったわけだし、顔だって一瞬とはいえ合わせているわけだし。

でも、それでも、彼女が私のことを知ってくれていることが今の私には、ただただ驚きだったのだ。


そんなことを考えていた私は、きっと相当間抜けな表情をしていたのだろう。

「ふふっ、そんな顔をしないで?せっかくの綺麗な顔が台無しよ。ね、そう思うでしょ、三坂?」

クスクスと軽い笑い声を漏らす玲子さんと、その言葉に苦笑しながら頷く教官。

「ええ、全くですよ」

「でもそれすらも可愛いわね?」

からかうような口調に少しとまどいながら玲子さんと教官のことを見ると、2人は優しい表情で笑いあっていた。



―――なんて大人なのだろう、と漠然と思った。そして、なんて綺麗なんだろう、と。

教官も玲子さんも既婚者だ。年齢も随分違う。だけど、なんてお似合いなのだろうと思わずにはいられなかった。それはもちろん恋愛的な意味合いではなく、もっと純粋に、ただ横に並ぶ姿が素敵だと思ったのだ。

聖菜さんや栗山さんにも言えることだが、全員から余裕を感じる。これがいわゆる“大人の余裕”というやつだろうか。


私も河原も富井も財前も、紗也や島田くんたちだってまだまだ子供だ。目の前のことにただ我武者羅に、1つ1つぶつかっていくことしかできない。

―――そう、それはきっと今だって。


「河原……」


今、教室はどうなっているだろう。乱闘騒ぎにはなっていないことを願っているけれど、実際はわからない。もしかしたら、全員が俯いて黙り込んでいるかもしれない。

一度思考がそっちへ行くと、もうほかの事は考えられなかった。

一刻でも早く教室へ帰らなくてはという感情が、義務感が、心の中を占める。富井を理由に河原にその仕事を任せた私には、そんな感情も義務感も抱く権利は無いのは分かっているけれど。


私の小さなつぶやきを耳ざとく拾った2人は、会話を中断して私のことを見た。

「河原がどうかしたのか?」

「あ……いえ、その……」

「三坂と貴方は仲がいいようだけど、言わなきゃ分からないこともあるのよ」

「玲子さん……」

―――言ったとことできっとどうにもならない。でも目の前にいる2人は、日本軍のトップだ。もしかしたら……。

そんな淡い期待を抱きながら、私は今の河原に対する心配を―――私が会議中に共感に叱られた理由を2人に話した。



「なるほど……つまり、河原くんは嘘つきのレッテルを貼られたわけね」

「確かにあの場ではお前らの判断が一番正しかった。しかし、そんな事があったとはな……」

私の話を聞いた2人は、考え込むように少し視線を落とす。

「はい。……私は怖くて逃げてしまったから、本当は心配なんてする筋合いないんですけど……」

はは…、と乾いた笑い声を漏らした私の顔を見た教官は、目を細めて私の頭を優しい手つきで撫でなでた。

「馬鹿か。そんなの全員怖い。軍の実態がわかっていない学生なら、機密を話した罰を恐れるのは当たり前だろ」

教官に続くように玲子さんも大きく頷く。

「河原くんだってそれが怖いから言えなかったわけでしょう?そしてそれは、今この瞬間も……」

「……はい」

なんとも言えない沈黙が私たちを包む。



しばらく沈黙が続く。誰かが何か言わないと、このままでは雰囲気が気まずくなる一方だ。しかし、私がこの場で話せることなんてない。

そしてそれは教官も同じらしく、教官のことを見ると、彼は困った顔で首を横に振った。


しかし、そんな重苦しい沈黙は突然破られた。

「よし、わかったわ」

突然、玲子さんが勢いよく顔を上げて私と教官を見据えたのだ。2人して肩を震わせる。

「今の状況では私が軍の事実上のトップ。私の独断だけど、でもいいでしょう。……今回の会議に参加していた生徒にのみ、事実を伝えていいこととするわ」

「玲子さん……!」

ひゅ、っと自分の喉がなった。

―――それは、淡い期待が現実のものになった瞬間だった。



急いで頭を下げ、コケそうになりながらエレベーターに乗り込んだ私は、とにかく急いで教室へ向かう。


「……三坂」

「はい?」

「あの子、来年が楽しみね」

「……まあ、私の自慢の教え子ですからね」

「あら、それはなかなかね?貴方、他の教え子とは初等部以来連絡すら取ってないと聞いているのに、あの2人のことは相当大事に思ってるのね。……それには、やっぱり“例のこと”は関係している?」

「……そうですね。関係ないとは言いません。……でも、どっちも自分に自信が無いところがありますけど、でもあいつらが強いのは事実です。それに、無邪気に私を慕ってくれるのも……。だから、やっぱり純粋に可愛いのかもしれません」

「……そうね。私も期待しておくわ、貴方の可愛い教え子たちに」


―――だから私は、教官と玲子さんがそんな会話をしていたことを知らない。



そんなことは知らない私は、息も絶え絶え、やっとのことで教室へたどり着いた。静かに中に入ると、そこには予想通り、暗い顔で俯く河原たちがいた。

「どうしたの、そんな顔をして」

場違いな明るい声に一斉に顔を上げた面々は、私のことを視界に捉えたらしい。なんとも言えないような戸惑いの表情を浮かべた。


ガタッという音を立てて立ち上がったのは河原。誰よりも困ったような顔をしている彼は、苦しそうな声で私の名前を呼んだ。

「葛西……」

「河原……言ったの?」

「いや……」

河原は俯き、視線をそらす。

彼らの間でどんな会話が繰り広げられたのか、私にはわからない。だけど彼のその態度と、教室の隅で嗚咽を漏らす富井を見れば良くないことがあったことだけは分かる。


今一度教室をぐるりと見渡す。誰とも視線が合うことはない。財前や紗也ですら気まずげに視線をそらしている。

何があったかは分からないけれど、1つだけ分かるのはこのままでは埒が明かないということ。

―――そうだ、私は“許可”を貰ったのだ。この状況を打開出来るのは私だけだ。


ふぅ…、と息を吐く私を、河原が不安げな眼差しで見つめている。そんな彼に向かって僅かに微笑み、そして前を見据えた。


「……私と河原は、去年一度だけ、軍の任務に携わったの。だから、亀山大将のことを知っていた」



世界が一瞬にして止まってしまったかのような静寂がその場を包む。

河原は口と目を大きく見開いて私を見て、富井は真っ赤に泣き腫らした目をこちらに向けて、財前や紗也たちはさらに戸惑いを深めたように互いに顔を見合わせた。

「おい、葛西!お前、それ言ったらダメだろ……!」

「大丈夫だから。……詳しいことは後で」

「あ、あぁ……」

河原は現状がいまいち理解できていないらしい。突然のことだったし当然だ。

しかし、どんな状況にも順応しようとするのが河原の凄いところなのだ。今回も例外ではなく、彼は戸惑いながらも私の言葉に頷いてくれた。


その代わりにこちらへやって来たのは富井。赤い目で私のことを睨む小さな身体は、いつもは頼もしく見えるのに、今は随分弱々しく見える。

「……どういうこと、藍」

「どうもこうも、そのままの意味よ」

「じゃなくて!だから……なんで、藍と一也が、ってこと」

「教官―――三坂中将からの指示よ。……その任務で、私は3人殺した」

「さ、3人って……軍人を?」

「……えぇ。もちろん罪のない人間を殺した訳では無い。でも、今でもそれが正しかったのかは、分からない」

「藍……」


―――今でも思い出すだけで、まだ呼吸が苦しくなる。決していい記憶ではない。だけど、逃げる訳にはいかない。

私だって現状を、現実を見据えなくてはいけないのだ。



刹那、ふっと香った甘い柔軟剤の香り。

「え…」

驚いて横を見ると、間近に富井の顔。つまり、私は今、富井に抱きしめられているということだ。

「藍」

凛とした響きの声が、私の名前を呼んだ。

「な、何…?」

「……頑張ったね。まりん、何も知らなくて、酷い態度とっちゃって、ごめんね」

「富井……」


―――泣きそうになった。

富井は何も悪くない。私たちも、機密をばらす訳にはいかなかったから、無言を貫くのも仕方が無い判断だったのだろうと思う。

だけど、辛かったのはきっと富井の方だ。私たちは2人で辛さを分け合ったけれど、彼女は1人で色々、他の人の分も考えてくれたのだろう。

「こちらこそごめん。……ありがとう」

だからこそ私は、強く優しい彼女に向かって心の底からその言葉を紡いだ。


その後、富井は河原にも同じようにハグをして謝罪の言葉を述べた。

「一也、ごめんね。まりん、一生恨まれても仕方がないよ」

「何でそうなるんだよ。絶対、恨まねぇから安心しろよ。な?」

「一也……っ!」

しかし、2人とも真面目だから仕方がないのかもしれないけれど、両思いの男女がこんなに強く抱き合っているのに、2人の間には驚くほど何も起こらない。

お互い本当に反省しきった表情をするだけで、頬すら赤くなっていない。


「流石だわ、まりんちゃんと河原……」

「あそこまで来るといっそ、付き合ってないのが謎よね……」

そんな何かの戦いの後のような熱い抱擁を交わす2人を見ていると、こんな時なのに私も紗也も呆れを通り越して笑ってしまった。



もちろんそれで話が終わるわけがなく。

全ての謝罪が終わった瞬間、私と河原は他の面々に取り囲まれ、そしてあの任務のことを詳しく聞かれる羽目になる。


―――しかし不思議なものだ。

もちろん今でも辛くなる時はあるけれど、でも前よりはずっと落ち着いてあの時のことを振り返ることが出来る。

それは河原も同じらしく、ちらりと盗み見た隣の河原の表情は、さっきまでとは比べ物にならないほど優しくて穏やかなものだった。



絶対にこの場にいない人には他言しないよう何度と何度も頼み、真面目な顔で大きく頷く皆と別れ、私たちは各々の部屋へと戻った。

「はぁ……疲れた……」

バフっ、と盛大な音を立ててベッドへダイブする。

本当に目まぐるしい数時間だった。こんなに忙しいのは久しぶりだった気がする。


「……亀山大将、大丈夫かな」


上半身を起こして窓の外を眺める。眼前に見えるのは、大きくそびえ立つ白い巨塔。

あそこで彼は、今この瞬間も戦っているのだ。私たちに出来るのは、無事を祈ることしかない。

「……あんな強い人が、簡単に亡くなるわけないよね……」

目を瞑ると、不意に亀山大将と教官のぎこちないやり取りがまぶたの裏に浮かんできた。その光景は、悲しいくらい懐かしかった。



再びベッドに横になったその瞬間、鳴り響く携帯端末のバイブ音。

端末のディスプレイを確認するも、そこに書いてあるのは見慣れないアドレス。

「誰……?」

正直かなり戸惑っているが、怖がってメールを見ないわけにもいかない。楽園外からの電波の受信は学生は禁止されているので、おそらくウイルス感染の可能性はないだろう。意を決してメールを開く。


「え、この人って……」


―――差出人は渡辺信二。

直接話したことはもちろん、顔も名前も聞いたことも見たこともないけれど、苗字で判断するにきっと彼は玲子さんの親族。おそらく旦那さんだろう。

栗山さんの話では、たしか彼は情報科のトップを任されている人だったはずだ。

「でも、そんな人がなんで私に……?」

メールはたった1行、“100階に君のバディと来てくれ”という簡潔なもの。


正直なところ怪しすぎるけれど、でも無視する訳にはいかない。向こうは名前まで明かしてくれているのだ。

―――仕方がない。帰ってきたばかりだけど、まだまだ忙しい1日は終わらないらしい。

ここまで来たのだ。ならば、とことん巻き込まれてやろうじゃないか。



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