重なりそうな面影
永遠に終わらない夜など、この世界上には存在しない。いつの時代だって当然のように夜は明けて、巡り巡って新しい朝が訪れる。夜の闇をかき消すが如く昇る、目映いまでの朝日。照らされる光の世界をもって、一日の幕開けとする。
そのことのなんと気持ちのよいことだろうか。オレは胸一杯に新鮮な空気を取り込み、新たな一日の始まりに心踊らせる。
開口一番。オレは朝日にも劣らぬ満面の笑みで朝の挨拶を口にした。
「おはよう、昨日はよく眠れたか?」
開口一番に挨拶をした対象。それは現在、剣術の修行のために居候させてもらっている家庭の人物。更に詳しく言うならば、那月という名の少女である。
清涼感漂う出で立ちは女の子には失礼な表現かもしれないが、爽やかな格好良さを生み、多少の冗談を言い合える器量には親しみやすさが湧いてくる。それがオレの持つ、彼女への印象だ。
………もっとも、昨日の夜に苦手だとか、大嫌いだとか、SM女王様なども加わった要素もあるのだが。それは言わぬが花だろう。わざわざ地雷原に飛び込むようなマゾ的な趣味もないことだし。
そんなプラスとマイナスの面を持ち合わせる少女こと那月は、溌剌とした気分のオレとは対称的に不機嫌そうに睨み据え、ひどく低く唸るように口を開いてみせた。
「………えぇ、貴方が姉さんを呼んでくれたお陰できちんと布団で寝れましたよ、腹黒エセ紳士さん」
質問に対しての返答。一見、肯定とも受け取れる返答ではあった。しかし、目の下にはくっきりと隈が浮いていた。
それに加えての毒霧にも等しい罵倒の言葉まで飛び出てきた。さてはて、なぜなのだろうか。最後まで昨日の彼女を見届けてなかったオレには想像もつかないことである。
不思議に首を傾げるオレを尻目に、わなわなと震える那月は名状し難い感情を内包しているように見えていた。
「よくも昨晩は姉さんに妙な嘘を吹き込んでくれやがりましたね! 可哀想なモノを見る目を向けられたり、説得するのに私がどれだけの時間を費やしたことか……!」
どうやら隈の原因はそういうことらしい。どうも昨日、那月を道場に放置したアフターケアを村雨先輩に頼んだことがお気に召さなかったらしい。
まぁ、原因を知ったからどうという訳ではないし、オレ小さくは肩を竦めるだけにとどめた訳だが。
「おいおい、嘘だなんて人聞きが悪いな。オレはただ『那月が人気の無い場所で無抵抗なオレを散々蹂躙した挙げ句、手足に手錠をはめてロープで縛り上げた。更には折檻に次ぐ、罵倒の嵐。オレはなんとか魔の手から逃げ出すことができたが、たぶん那月は今、自分の所有物である手錠を弄びながら、切ない声で悶えるようにして声高く啼いているだろう』と村雨先輩に伝えただけだぞ」
オレは脳裏で昨日の光景を思い起こす。
たしか昨日はオレが剣術の鍛練をしていたら、那月が道場に訪れたんだった。それでオレを咎めるばかりに鬼と化し、とてもではないが口には出せないようなことをしてきて、なんとか脱出したあとは逆に手錠を手足にかけて、その場を後にしたのである。
那月の登場から、道場を去るまで。一連の場景を浮かべ、何処にも間違いはないはずだと確信した。よって責められるのはおかしいだろう。
「いやいや、それですよ、それ! その悪意にまみれた伝え方が問題なんです! なんで私が変態みたいな扱いされてるんですか!」
「えっ、まさか自覚がないのか!? あんなにもノリノリで『ロープにします?鞭にします?それともロ・ウ・ソ・ク?』なんて言ってたのに……」
「それこそ捏造じゃないですか! 恭弥さんはどれだけ私を女王様にしたいんですか! いいかげんにして下さい!」
怒り成分浸透の那月は激しく息を荒げ、握られた両の拳を振り乱しだした。
見たところ相当に頭にきてるらしい。今にも襲いかかってきそうな雰囲気である。
だけども、常識のある手前そうするわけにもいかず、結局は険しく睨み付けるだけに終わっている。
二人の間に流れる険悪な空気。だが、それでもオレだけは変わらず朗らかな気持ちのままでいられた。
「あははっ、やっぱりこっちに残って良かったかもな。なんせ、こうして楽しい日々を過ごすことが出来るんだからさ」
感じたままの心情を包み隠さず口にし、それに合わせて笑みがこぼれ落ちてしまう。どうしてこんなにも楽しいと感じているのか。それは至極簡単なことである。
アメリカに居た頃が決して楽しくなかった訳ではない。ただ、それよりもこちらの方が気を抜いている分、余計に楽しめている。たったそれだけの違いである。
「そうでしょうね! 貶める側の貴方は楽しいでしょうね! だいたい、貴方という人はですね……」
怒りを羽衣のように纏い、足を踏み鳴らしながら詰め寄ってくる那月。
でも、その姿にはもう恐怖などは抱けそうもなかった。昨日と同様に詰め寄ってくる彼女の言葉を遮るように、オレは思わずムギュリと抱き寄せてしまう。
「だ、だから何故急に抱きしめるんですか!?」
「ん~? そりゃ、こうしたいからだな」
「意味が、わかり、ませんよ……っ!」
グッグッとこちらの胸に手を当て、少しでも距離をとろうと試みる那月。
昨日も言ったが、やはり男と女。地力の差は歴然である。性別から生じる膂力で劣る彼女では、振りほどけそうにもない。
つまりのところ、出来る反抗と言えば口によるものだけであった。
「離して、下さい! セクハラで訴えますよっ……!」
そう訴える那月の顔は先程の怒りの色とは違い、また別の朱に染まっていた。本当にウブなんだなと感じてしまうのは仕方のないことなのだろう。
だからなのだろうか。オレの身体は己が欲望のままに動き出し、気がつけばウブな彼女の耳元で妖しく囁いていた。
「じゃあ、こう言えば分かってくれるのか? ―――オレはもう我慢が出来そうにない。お前が欲しいんだ。身体も、心も、全部含めてお前を愛し尽くしたい」
ありったけの想いが乗った言葉。
しかし、熱い心の波紋とは裏腹に、瞬間的に時間が凍結していた。変化といえば、那月の顔色くらいだろうか。顔はもちろんのこと、首筋、耳の方まで朱に侵食されていく。
そして、
「な、ななな、なにい、言っててるですか!? じょ、じょじょ冗談は、やめて下、ださいっ!」
わたわたとしながら噛み噛みな叫びを上げた。いったい細腕のどこに拘束を振りほどく力だけのがあったのか不思議なところだが、那月はオレの腕を振り払い距離をとってしまう。
彼女が顔に称えるは、混乱と動揺のブレンド。ほどよい塩梅で混じり合うそれは、やがて理解というプロセスを経て羞恥に変わりゆく。
「やっぱり、これだけじゃ伝わんねぇよな」
どうやら那月は言葉程度では本気で捉えてくれないらしい。それならば、あとは更なるアクションを起こして、オレの溢れる想いの丈をぶつけるだけ。
オレは彼女の澄んだ瞳を見据え、距離を縮めていった。
後ずさるのは那月。それでも距離をつめていくオレ。先より後ずさる那月。またまた距離をつめるオレ。
最終的には那月は壁が背に当たり、これ以上は下がることができなくなっていた。
右へ移動しようとする。彼女の右背面の壁に手を突き、進路を断った。
左へ移動しようとする。彼女の左背面の壁に手を突き、進路を断った。
結果、彼女は正面を向くしかなくなっていた。
「冗談? 冗談でこんな事が言えるわけないだろ。昨日は途中で恥ずかしくなって冗談とか言って誤魔化しちまったけどさ、本当に本気なんだよ。オレは初めて会ったときから、お前のことが―――」
と、続きを囁こうとした時のことだった。
「なっちゃんの純情を弄ぶシロちゃんは悪い子だっ!」
妙なシャウトと共に、頭をカツンと叩かれた。
地味な鈍痛に苛立ちを覚え、原因であろう背後に視線を当てると、そこにはお玉を携えた稀代の馬鹿が仁王立ちしていた。
………うん、オレは何も見ていない。
どこかの馬鹿を見て見ぬふりをしつつ、視線を戻し、那月の瞳をもう一度覗き込む。
「オレは那月のことが好きだよ。だから聞かせてくれないか? お前のこの愛らしい唇で、オレのことが好きだって」
壁に掛けていた右手をはずし、那月に目掛けて伸ばしてゆく。彼女の頭を優しく撫で、そのまま下に下に。頭から降りてきた手のひらは、柔らかく頬を包み込む。
やがて、指先は桜色の唇に向かって伸びていく。触れる指先と唇。交錯する瞳と体温。その甘美さが故に、このまま那月を征服してしまおうかとさえ思ってしまう。
「ほら、言ってみな? 上手に言えたら、ご褒美にお前がして欲しいことを全部叶えてやる。お前が満足するまで、ずっと可愛がってやるからさ」
「……あっ」
指の腹で優しく唇をなぞると、小さな声がもれる。恥じらうような、それでいて何かを期待するような甘い声。
どうやらこの路線が意外と効果があるようだ。そう確信したオレは続けた。
「いいよ、那月がしたいこと全部しよう。オレはそれを叶えてやれる。だから、ほら、言ってごら―――」
「だから、なっちゃんを虐めちゃダメなんだよっ。それに私のことも無視しないでよっ! これ以上無視されたら、私、泣いちゃうよ!?」
この先、一生しないかもしれない一世一代の愛の囁きは、後ろで馬鹿による馬鹿な叫びによって遮られてしまう。少しは黙っていて欲しいものだ。
ふと、そう思いながら意識を後方の馬鹿に向けた時だった。
那月はオレの包囲を掻い潜り、部屋の襖へと一目散に走っていく。身体強化まで使っているのか、直ぐ様に反応することが出来なかった。
ダダダダッと強い足音と共に消えて見えなくなる彼女の背中。
………でも、それを追おうとは思えなかった。
「あーあ、シロちゃんがからかい過ぎるから、なっちゃんが拗ねちゃったんだよ」
オレを咎める馬鹿が一人いた。
「うるさい、馬鹿は馬鹿らしく黙ってて下さい。馬鹿が伝染ったりしたら、どうしてくれるつもりですか。慰謝料払ってもらいますよ」
「シロちゃんの言葉が辛辣過ぎる!?」
驚愕の声をもらす馬鹿。何が辛辣だ。あんたのせいで那月に逃げられたんだから、然るべき対応じゃないか。
「それは何処かの馬鹿が邪魔したからに決まってるじゃないですか」
「むぅ~、何でシロちゃんがなっちゃんに対して怒ってるのかは知らないけど、あーゆー風に仕返しするのはダメなんだよっ!」
唇を尖らせ、プンプンと擬音のつきそうな馬鹿はそう宣う。それは迫力の無ささえ除けば、妹を守ろうと奮闘する姉の姿そのものである。
だが、意味のわからないことが一つ生まれた。
「はい? オレが怒ってる?」
「うん、間違いなく怒ってるね。昨日、なっちゃんに虐められたからなの?」
「いやいや、オレは怒ってないですって。怒るような心当たりもありませんし」
「だって、なんかさっきのシロちゃんらしくなかったもん。こう、分かりやすいくらいにムキになって、なっちゃんを言い負かしてやろう的な感じでさ」
本当に心当たりがなくて困惑してしまう。
指摘される自分からは見えない自分を視点に入れて目を閉じてみる。自己解析と自己受容。彼女に言われた『怒り』という要素を取り入れ、自分を第三者視点で見つめ直してみた。
オレが怒るような原因となる要素は何があるだろうか。
可能性として思い当たるのは唯一、村雨先輩が言ったように昨日の夜に行われたやり取りだけ。
会話中にあった言葉の数々。そこで生まれた感情の有無。一つ一つ、要素という名の網を思考の湖に投じ、同時に底にある真実だけを繊細にさらい上げてみる。
そして、しばらく時をおいて、改めて自分とは異なる目線で見つめ直すことで分かったことが一つ増えてしまう。
それは、今しがた指摘されたことが事実であったということ。どうやらオレは、昨日のことを僅かながらに根にもっていたらしい。
もちろん、那月の言葉が間違っているなどとは思ってはいない。誰かに心配をかけるというのは、ある意味、傷付けているのと一緒のことだ。あまり誉められる行動ではない。はっきり言ってしまえば、最低とも言える場合もあるだろう。
ただ、それを伝えるためにアリスの名前を引き合いに出され、あまつさえ自分の考えが他とはズレていることを悟らされたが故の、子供の癇癪染みた無自覚な反抗。それが不透明だった怒りの原因であったようだ。
無意識下での感情のうねり。それを不思議なことに目の前にいる馬鹿こと村雨先輩は、如実に見抜いていたわけである。
………やはり、那月すら比にならない。
オレはこの人が今身近に居る人間の中で、最も苦手で恐い人物だと感じさせられた。できることならば、あまり親密な間柄になりたくないとさえ考えてしまう。
大雑把な解釈だと、一種の防衛反応とも言えよう。
「……言われてみれば、そう、ですね」
それに気づいてしまったオレは、その場から逃げる他なかった。
これ以上、内側に入り込まれないように。この人と『あいつ』を重ねて見てしまわない内に。早々にそれらしき理由をつけて場から離れることにした。
「あれれ? どこか行くの、シロちゃん?」
「すいません、少し頭を冷やしてきます」
「りょーかいっ。道場には新しい胴着を用意してあるから、それを使ってね。それと朝ごはんはシロちゃんの分も残しておくから、気持ちが落ち着いたら、ちゃんと食べるんだよ?」
……まただ。また内側を見透かされてしまった。オレがこの後、気分転換に道場に向かおうとしていることがバレている。その上、内心が掻き乱されていることさえも。
やはり、この人は苦手だ。親しくなればなるほど、心の境界線が踏み荒らされるような恐怖に襲われる。
それでも唯一の救いがあるとするならば、村雨先輩が『あいつ』とは性質が異なっているという一点。その一点があるからこそ、オレは未だ平静を装っていられる。
「わかりました、色々とありがとうございます」
「どーいたしましてだよっ」
礼に対し、屈託のない輝く笑顔で応じてくる。その笑顔に裏表なんてものは存在しない。あくまで、素の村雨六花という存在そのままに接してきてくれているに違いない。
それでも今となっては、この人と必要以上に親しい関係にはなりたくなかった。
オレは彼女に背を向け、今しがた那月が消えていった部屋の襖をくぐった。それから後ろを向かず、後ろ手に閉めた。
「……あぁ、くそ、どうかしてるな、オレは。一瞬でもアリスと村雨先輩を重ねて見るなんて」
一人小さな声で呟く。気分は稀にみないほどの悪さ。ここが他人の家でなければ、所構わなく八つ当たりで暴れていたところだ。
「ほんと、どうかしてる。日本に帰ってきてから、感傷的になりすぎだろ」
原因がなんなのかは分からない。だが、普段よりも『芯』が揺れ、崩れてしまいそうなほどに脆くなっているのは確かだ。確証は無いが、帰国してからの自身を省みれば、そうとしか言えない。
だが、それでもだ。
「グチグチ考えても仕方ないか。オレはもう最強なんだ。それに、この程度のことでいちいち動じてたら―――それこそ最強に笑われるだろうしな」
オレにとっての比類なき最強は、他の誰でもないアリス一択だ。彼女は常に強者として君臨し、常に勝者として万物を踏破し、常に絶対者として存在していた。
と言っても、彼女はもう存在しない。それは紛れもない事実だ。つまり、それは最強の座は空席だということ。アリス以外の誰かがその座に居座るかもしれないということ。
そのようなことを認めてなるものか。オレはアリス以外が最強を名乗ることを認めたくはない。ならば、その空席は埋めなくてはならないのは必須であるだろう。
他の誰でもないこの最弱の手によって。最弱を最強と改めて名乗り、揺るぎない矜持や不文律とともに頂きに座す。それが最低限の贖罪だと戒めてきた。
「って、また感傷的になってるな。これだから、アリスに馬鹿にされるわけだ」
そう思うとちょっぴり怒りが鎮まり、苦笑いが込み上げてくる。
三年前の別れの日までの、始めて出会ってからの半年間。一日足りともアリスと喧嘩しなかった日はない。その度にオレはよく馬鹿にされたものだ。何度も喧嘩して、それと同じ数だけ仲直りもして、毎日笑い会えていた。
今ならではの温かな思い出に身を浸している内に、目的地である道場に到着していた。
入る前に一つ深呼吸する。それで陰鬱とした気分を全部切り替える。敷居を跨いだ先には雑念は一切持ち込まない。
そう自分に区切りをつけることで、完全とは言えないが渦巻く感情を鎮静化させることに成功した。
自らの精神の扱いに慣れたことを実感しながら、これまでと同じように道場の扉に手を掛けたときのこと。耳障りな金属音が道場内からつんざいた。
「何の音だ?」
オレは首を傾げながら扉を開いた。
その先で見た光景は、きっと二度と忘れることはないだろう。
視界に映るのは、ある種の絶望の色でありながら、オレにとって一番関わりが深い色。瞳や髪の本来の色。
道場に佇む那月を中心に広がっていたのは、彼女から流れ落ちる純粋な紅蓮だった。




