夜の狼さん、大逆襲する
さてさて、今の時刻としては体感だが、おそらく夜の十一時を過ぎた頃あいだろうか。暑さの代名詞たる夏がそろりそろりと近づいてきているとはいえ、さすがに月明かりの満ちた闇夜はかすかに冷える。
そんな中でとりあえず言えることを言いたいと思う。
「痛い、冷たい、硬い」
思ったことを簡潔に羅列してみた。たったそれだけの言葉数。この三つのヒントでオレがどんな状態なのかお分かりいただけただろうか?
おそらく普通はこれだけでは分からないだろう。なんたって日常でこんなシチュエーションに陥ることは絶対にないだろうから想像もつかないに違いない。
そんな諸君に今のオレの状態を教えるぞ?
一度しか言わないから聞き逃さないでほしい。
「なぁ、なんでオレは手足に手錠をはめられた状態でロープをグルグル巻きにされて床に転がられてるんだ? あまつさえ身動きの取れないオレの背中の上に当たり前のように腰を下ろしてるお前は何様のつもりだよ」
分かっていただけただろうか。これが今のオレの惨状だ。散々、とっても素敵な拷問をされたあと、この有り様である。目も当てられない現状とはこの事を示すに違いない。
もっとも、一部の人にはご褒美かもしれないが。これで蝋燭なんて垂らされたら完璧だね、悪い意味で。ムチなんてモノもアリかもな。間違いなく寸分違わぬ女王様の出来上がりだ。
なんてことを考えていると、那月はオレの問いに答えた。
「さぁ? 何様なんでしょうね?」
ありえない。もう一度繰り返すがありえない。こんな変態の上流階級者がたしなみそうなアブノーマルなプレイをしておいて、とぼけてみせる那月には心底引かせられた。
よってこう毒づくのも仕方ないだろう。
「はっ、素っとぼけやがって。女王様しかないだろ。オレを散々なぶっておいて、今はこの様なんだ。SMは大の得意分野です、ってか? このむっつり乙女め」
サクッ。
「ちょおっ!? 無言でつむじ押さないで! 爪が当たってるから! それマジで痛いから!」
「当ててるんですよ」
そんな気持ちよくない「当ててるんですよ」は嬉しくない。やはり故意に当てるのなら、その母性に溢れた柔らかそうなおっぱ――いや、なんでもないです、嘘です、はい。だから爪を立てたままグリグリしないで下さい。
那月は悶え苦しむオレを見下ろしながらも、憤慨したように言った。ところでオレの苦しみは無視ですか……?
「だいたい恭弥さんには反省の色が見うけられません。私とした約束も守らずに、貴方という人は」
声音は冷たく、平坦なものだが、相当に怒っているらしい。どうも怒っている原因は女王様呼ばわりされたことだけでなく、オレが此処で鍛練をしていたことも要因の一つみたいだ。
さてはて、いったい、どうやり過ごしたものか。すぐにそういった思考に走るのは、きっとオレの悪い面に違いない。
それでも、だ。オレは何も悪いことはしていない。そう言うからには、那月との約束もきちんと守っているということだ。
「一応、誤解の無いように言っとくが、オレは約束を破ってないぞ」
「どの口が下らない嘘をつくんでしょうか。恭弥さんは言いましたよね? 私の監視下以外では、決して刀を振るわない、と」
「あぁ、だけどこうも言ったぞ。期間は怪我の治るまでの間、ってな」
「それが何だと言うんですか。まさか、もう傷が治ったから約束は無効だとかぬかしませんよね?」
「まさか、じゃなくてその通りだ。実際にオレの怪我はもう治ってる。だから、約束も破ってないし、何も問題はないはずだ」
有りのままの現状を報告すれば、突き刺さるのは失望の視線。心の底から見下げ果てた視線は、容赦なくオレを貫いてくる。
「あのさ、嘘だと思うんなら、お前の目で確かめてみればいいだろ。そしたら分かるはずだ。オレの言ってることが嘘なんかじゃないってな」
「……では、そうさせてもらいます」
那月は訝しみながらもオレの上から移動し、拘束していたロープを解く。その後、手のひらを覆っていた包帯をほどいていった。シュルシュルシュル。儚げな音を立てながら白の帯は剥がれていく。
そして、包帯の下から現れるのは―――言葉通り、傷一つないまっさらな手のひらだけである。傷などどこにもない。
「い、いったいどういう事ですか!? 大した怪我ではないとはいえ、たった半日で治るものではないはずなのに!?」
もれるのは驚愕の声。それも当然のことだ。皮膚がズタボロに擦り切れ、また醜いまでに内出血をし、悲惨な状態になっていた手のひら。それが半日も経たずして、傷一つ見当たらない程に回復しているのだ。これで驚かない方がおかしい。
「な、言ったろ? オレの怪我はもう治ってるってな。だから、いい加減この手錠も取ってくれ。もう何も心配はいらないんだ」
言い聞かせるように、諭すようにそう言う。
本当の夜の時間はこれからだ。まだまだ鍛練に費やせる時間はたくさんある。とは言えども、時間は有限。早く続きをしたい。
「まさか、貴方は光属性の治癒魔法が使えるのですか」
「わざわざ魔法を使わなくたって、この程度の負傷なら身体強化で十分だ。身体の持つ自己治癒能力を活性化させれば、半日もあれば完治する」
「そんな無茶苦茶な………」
那月はオレの言葉に唖然としていた。だが、これも先と同様に仕方ないことかもしれない。なにしろ、彼女は身体強化にこのような使い方があるのを知らないのだから。
しかし、彼女だけでなく、知らないのは他の人間も同じことだ。知っているのは、それを自力で発見した者か、その周囲の近しい者だけ。少なくとも、彼女はそのどちらにも属していない。ただそれだけのことである。
那月は身体を震わせていた。それがどんな感情のものからかは分からない。
それでもそれは今、気にすることではない。今、考えるべきなのは、限られた時間の中でどれだけ多く、自分を研鑽できるかということだけ。それだけでいい。
「無茶苦茶だろうが、何だろうが怪我が治ることには変わりない。オレには時間がないんだ。頼むから、早くこれを解いてくれ」
「……これを解けば、また恭弥さんは鍛練に戻るつもりですよね?」
「あぁ、当然だ」
「……またボロボロになって倒れるまで身体を酷使するんですか?」
「それで前に進めるなら、身体のことなんていちいち気にしてられないんだよ。壊れたのなら、その度に治せばいいだけだ。オレはそうやって前に進んできた」
駿巡なく、偽りなくそう答える。
那月の身体の震えがより大きくなった。
「……に……す……」
「ん? 何か言ったか?」
あまりにも小さすぎて聞き取れなかった。そのため、改めて聞き直す。
「絶対に嫌だと言ったんですっ!」
那月は大きな声で叫ぶ。声音に浮かぶは憤怒。これまで彼女から向けられてきたどの怒りとも比べほどにならない感情の発露に、オレはただただ驚愕していた。
「恭弥さんは馬鹿ですか! いいえ、確実に真性の大馬鹿に違いありません!」
そう力の有らん限りの罵倒をする。何処と無く朝と似たり寄ったりな空気だが、明らかに度合いが違う。今回のは流石に常軌を逸していた。
「貴方は自分がどれだけ傷つこうが構わないかもしれませんが、貴方の身体は貴方だけの身体でないということを分かっているんですか!?」
その言葉が何より心に染み込んでいく。つまり、彼女がオレに言いたいこととは―――
「……そんな。オレの身体はみんなの慰みものだなんて……。なっちゃんのムッツリスケベ……」
「話の腰を折らないで下さい!」
故意に頬を赤に染めながら、ちょっぴり冗談を言っただけなのに、更なる怒りを買ってしまったらしい。こめかみに浮かんでいる青筋が言外に弁舌していた。
なんとなくこめかみの青筋がアルファベットのKに見える。彼女の怒る様子を見て、そのK は『KILL』の頭文字じゃないかと不安になってしまう。そう憶測させるほどに、普段から鋭い目をそれ以上に鋭くして怒鳴り続けた。
「だいたい、貴方は、貴方が傷つくことで、身近な誰かが心を痛めているということを少しは自覚すべきです! 天月先輩が! 天堂さんが! 姉さんが! 私だって友人である貴方の辛そうな姿を見て心を痛めています! それに―――」
烈火のごとき怒りも勢いは何故かそこまでだった。唐突に途切れた那月の言はなんなのだろう。不自然な境目のあまり、気になってしまったオレは先を促してみた。
「それに、なんなんだ?」
那月はわずかに躊躇う。でも、彼女は言いにくそうにしながらも、しっかりとオレの目を見て言いきった。
「……アリスという人も今の恭弥さんを見たら、きっと私と同じように怒るはずです。無理をして手に入れた強さで守ってもらっても嬉しくない、と」
瞬間的に認識している世界の時間が止まった。原因なんて聞くまでもない。那月の発した言葉のせいだ。真っ白な空白に押し潰されるような軋みが、突如、目眩として襲いかかってきた。
アリスという名の少女。
彼女は―――オレに声をかけてくれた人。
彼女は―――オレをよく叱ってくれた人。
彼女は―――様々なことを教えてくれた人。
彼女は―――些細なことでよく喧嘩をした人。
彼女は―――本当に下らないことで競う人。
彼女は―――オレに笑顔を向けてくれた人。
たぶん、どれも、誰にでもできることだった。それでもアリスは本当のオレと向き合い、本音を包み隠さずに接してくれた。
オレが居て、姉さんが居て、アリスが居て、彼女の兄のアルヴィンが居て。それだけで一つの世界として完結し、なおかつ満足していた。
だけど、その世界はとうの昔に終えている。二人はもう居ない。半分になった世界にあるのは、喪失感などの負の感情だけだ。
だからオレは最強になることにしたんだ。もうこれ以上、何も失わないように。手の内の世界だけでも全部守りきれるように、と。オレは変わるために確かな『願い』を胸に立て、休むことなく前に進み続けてきた。
そして、今に至り、オレは壁に立ち塞がれている。他の誰でもない、この村雨那月という少女に。
刹那の拍を以て、思考の迷宮から引き上げられた。通常通りに戻る思考。いっそうクリアになる視界。
この時、一番最初に込み上げてきた感情は怒りではなく、悲しみでもない。一重に愉快さから生じる、純粋な笑いだけだった。
「く、くく、くははっ、あはははははっ! あー、なるほど。いやー、そういうことか。あははははっ!」
「な、なんで急に笑い出すんですか!?」
怒ったような、それでいて戸惑っている表情。那月には非常に申し訳ないのだが、それがまた笑みを誘う。
「なぁ、那月。今ふと感じたんだが、お前のこと、めちゃくちゃ苦手で大嫌いみたいだ。なのに、その苦手で大嫌いな奴と自分から仲良くなろうとしてたんだぜ? 可笑しすぎて笑いが止まんねぇよ」
「んなっ!?」
「だってさ、口調は丁寧なのに毒舌だし、すぐに怒るし、おまけに手も出る。怒った顔も凄く恐いし、人の痛いとこ突いた説教までしてくるときた。これで苦手で大嫌いにならない方がおかしいと思わないか?」
「―――っっ」
歯に衣着せぬ物言いに那月は唇を噛む。
言い返そうにも言い返せない。理由は単純。オレの言葉は全て的を射ているからだ。これで反論が出来ればなかなかのものである。
「でもさ、なんでだろうな……。お前のこと苦手で大嫌いなのに、近くに居ると温かく感じるんだ。本当に不思議だよな、最悪なくらい苦手で大嫌いなのに」
「ず、随分な物言いですね」
「そうか? ただ事実を言っただけなんだけどな。ま、なんにせよ、とりあえずこれを取ってくれ。身体が不自由で不自由で仕方ないんだ」
手足にはめられた手錠をジャラリと鳴らす。なぜ那月はこんなモノを持っているのか甚だ疑問が残るところだが、それは置いとくことにしよう。なんでかって? それは「女王様だから」の一言で説明がつくからだ。
女王様こと那月は、無情にも首を横に振った。
「駄目です。今、ここで恭弥さんを解放すれば、また無茶をするに決まってます」
それは至極真っ当な判断。昨日の今日で同じことを繰り返そうとしている故に、反論の余地もない。
しかし、
「今日はもう仕舞いにするよ」
「……え? 今、なんと?」
「だから、今日はもう仕舞いだ。どこぞのSM女王様のせいで一気に萎えた。今更、鍛練の続きなんてする気にならねぇよ」
「何故、私だけが悪いような物言いなんですか!?」
那月が納得のいかなそうな声をもらす。
「……まったく、恭弥さんといい、父さんといい、なんで強い剣士はみんな……」
それでもやる気の無くなった顔を見て信じてくれたのか、ぶつぶつ恨めしそうに呟きながら、ガチャガチャと手足の手錠を解く。
そこでようやく自由になる肢体。
「くぅー、やっと女王様のSMプレイから解放されたぁー」
解放された喜びを表す、力の抜けた伸び。ずっと拘束されて床に転がされていただけに、ひどく心地よい。
「あ、貴方という人は、反省の色一つもなしですか………」
「反省はしてるぞ。女王様さえからかわなければ、こんな状況にならなかっただろうになって」
「反省の方向が全然違うじゃないですか!」
ドスドスと乱暴な足音を立てながら、こちらなか詰め寄ってくる那月。彼女はすぐ間近まで来て、憤怒に染まった美貌でオレの顔を覗きこんでくる。
一つ間違ってしまえば、口と口さえもくっつきかねない距離感。オレは改めてあることを感じながら、気が付けば彼女を抱き締めてしまっていた。
「ちょ、なにするんですかっ!? 叫びますよっ!?」
「やっぱり、那月は温かいな」
「そのようなことどうでもいいです! 早く離して下さい!」
先刻とは逆にこんどは那月がオレの支配下にてジタバタともがきだした。だが、しょせんは男と女。どちらの方が拘束力が強いかなど問うまでもない。
薫る香り、触れ合う感触、伝わる体温。彼女のことを苦手で大嫌いだと評したが、どれ一つとってもひどく安心させられる。
「那月にはさ、一つだけ言っときたいことがあるんだ」
「なんでもいいので離して下さいっ!」
きっと、これがごく普通の反応なのだろうが、ここまで拒絶されると逆に清々しいものである。
でもそれとこれからやることは別問題。オレは那月が身動き出来ないよう抱き締めたまま足払いをかけ、彼女を無理やり道場の床に押し倒してやった。
「なぁ、知ってるか? 男ってさ、夜になるとそれはそれは怖い狼になっちまうんだぜ。特にイイ女の前だと尚更な。こんな人気のない暗がりの中で、散々、オレのこと可愛がってくれたんだ。朝まで寝かせるつもりねぇから、そのつもりでいてくれよ」
「え……!? は……!? ちょっ、突然、何言って……ッ!?」
狂言とも取れる言葉に慌て出す那月。それを正面から見据えながら言う。
「だからペロリと食べちゃうんだよ。もちろん、いい歳した男が組み敷いた女を食うって言ったら意味は一つしかないってのは分かるだろ? オレはもう自分の欲求を我慢出来そうにないんだ。仕返しついでにオレは迷わずそれに従う」
途端にその意味について脳内にて映像を再生したのか、那月は暗闇でも分かるほどに顔全体を赤く染めていた。彼女はこっちの方面ではどうもウブなようだ。さっきまでと比べて、心なしか抵抗が弱くなってきている。どうも強い押しにはめっぽう耐性がないらしい。
これはこれでとてもソソられるものがあるが、ここまで初々しいほどに反応されては、逆に仕掛けたこちらまでなんだか顔が熱くなってしまいそうだ。模擬戦からカウントし、二度目の敗北をした気がして苦笑いがこぼれた。
「なんてな、冗談だ。前に言ったろ? オレが振り向かせたいのは、オレだけを見てくれるような奴一人だけだって。それに例え那月がその一人に当てはまったとしても、さすがに無理やり襲ったりはしねぇよ」
そう言葉を改めてから那月の耳元に顔を寄せ、転がすようにそっと囁いた。
「Thank you Natsuki.I'm glad l met you.Please stay by my side forever.」
それだけ伝えて、直ぐさま拘束を解いて離れる。
「……今、ありがとうの後は何と言ったんですか?」
押し倒されてからかわれたことより、自分の理解できない言葉をかけられたことの方が意識が大きかったらしい。赤い顔のまま、感じた疑問をそのままぶつけてきた。
しかし、その言葉には答えを返すつもりなどない。かなり性質の悪いオブラートで包んだからこそ言えた言葉を、何度も言うのは精神的に不可能に近かった。彼女にもきちんと理解できるように日本語で言ったのなら、間違いなく顔から火を吹いてしまう自信がある。
「さぁて、な。なんか特別な魔法でも使ったら分かるんじゃないか?」
問いかけにはぐらかすように答え、那月に背を向けて歩き出す。
「あ、こら、待って下さいっ、まだ答えをきいて―――きゃあっ、なんですかこれは!?」
慌てて身体を起こして追い縋る那月は再び床へと吸い込まれ、自身が転けた原因に目を丸くしていた。
それは必至。なにしろ、自分が転んだ原因は、先程までオレを拘束していた手錠が手足にはめられたからだ。当たり前のことだが、その状態で歩けるわけもなく。一歩目を踏み出そうとした時点で転倒してしまっていたのだ。
ちなみに「きゃあっ」がやたらと可愛く聞こえたのは彼女には秘密だ。蹂躙されるのはもう勘弁被る。
「い、いつの間に!?」
あがる驚愕の声をよそに、道場の扉へ向かっていく。折檻の嵐とSMチックなプレイを受けたんだ。これくらいの仕返しには目を瞑って欲しいものである。
「えっ、ちょ、恭弥さん!? ま、まさか、からかったあげく、このまま放置するなんてありませんよね!?」
必死な声音が背に突き刺さる。オレは歩きながら背中越しに手を振るった。
「Good evening~♪(いい夜を~♪)」
「こ、これもさっきと同じ、性質の悪いだけの冗談ですよね……? あ、い、いや、ま、待って下さい、行かないで、恭弥さんっ、恭弥さぁぁぁぁんっ!」
月夜に残るのは一人の少女の切実な叫び。それとガチャガチャとなる耳障りな金属音だけだったそうな。




