『青・黄・赤』の恐怖
薫る爽やかな柔風が戯れ、脇を通り抜けていく。
五月から六月へと変わりゆく時節。この頃、心なしか緑の香りが強まってきた気がする。その小さな変化は、もうじき夏が訪れることを報せているかのよう。
ほのかな夏の匂う風に頬を撫でられるようにして、オレは閉ざされていた瞼をゆっくりと開けた。
目に映る風景。そこは先程まで居た道場ではない場所。午前中にリクや那月と一緒に遊んだ、日本庭園が見える縁側に移動していた。
赤く射し込む陽の光に目を細める。
何となくだが、自分の状況を理解してきた。どうやらオレは床に直接横たわっているようで、独特の冷たさと堅さを感じている。しかし、何故か頭部だけは心地よい柔らかさと温もりを兼ね備えたものに包まれていた。
実に不思議な目覚めであった。
「目が覚めましたか?」
視界の端から、ひょこっと那月が顔をのぞかせてきた。いきなり視界に映るものだから、内心でちょっとだけ驚かされてしまう。
が、オレはそれを表に出さず、誤魔化すように穏やかに笑った。
「おはよう、那月――って挨拶するのも今で三回目か。なんか変な感じがするな」
「残念ながら今はおはようではなくて、既にこんばんはの時間帯ですよ、恭弥さん」
「そっか。じゃあ、こんばんは、だな」
「ふふっ、寝起きの人にこんばんはと挨拶されると妙な違和感を感じますね」
そう言って那月はオレの頭の上に手を乗せ、やんわりと繊手を動かす。
「貴方の頭……大丈夫ですか?」
本心から心配気な表情と共に、起き抜けに酷い言葉を投げかけられた。あまりの暴言に、ちょっとだけ泣きたくなってしまう。
「……寝起きの相手にいきなり頭大丈夫か、だなんて失礼なやつだな。オレの頭は正常だ。お前も口撃にだんだん遠慮が無くなってきたな」
眉根を寄せての反論。一応言っておくが、口撃は誤字ではない。攻撃と例えるより、口頭でダメージを与えるのだから、口撃のがしっくりくる。言い得て妙な表現だが、彼女の場合には口撃でもいいだろう。
那月は反論に対して頭を横に振った。
「そうではなくて痛みのことです。すみません、感情に任せて木刀を振るったので貴方を傷付けてしまいました」
否定するように付け足される補足の言葉。それは罪悪感にまみれていた。不甲斐ない自分を恥じるような、そんな罪悪感であった。
那月の言を聞き、そこでようやく思い出す。そういえばオレは勝負に負けたのか。予想外の攻撃に反応をする間もなく、即頭部に一撃もらったんだった。
はっきり言って、情けない気持ちで一杯である。あれだけ調子に乗っておいて、まさかのKO負け。穴があったら入りたいとはこのことだ。
「いいや、那月は悪くないって。オレが油断してたから最後の一撃をもらったんだ。勝ったことを誇るならまだしも、謝るのは間違いだ」
そう本心をありのままに述べる。
「ですが、例えそうだとはいえ、貴方を傷付けてしまったのは事実です。本当にすみ――――」
「はい、ストップ。だからなぜそこで謝るんだ。勝ったのはお前、負けたのはオレ。さっきまでオレ達がしてたのは模擬戦。木刀を使った戦闘の訓練。ここまで言えば分かるだろ? 安直に言うなら、オレはお前を傷付けようとしてたし、お前はオレを傷付けようとしてた。それでオレが負けたからこうなった。それだけだ」
そう捲し立てると、キョトンとした顔を向けてくれる。
「それに実際オレは死んだわけでもないし、致命傷を負ったわけでもない。これはよくある結果の内の一つだから、お前が気にする必要なんてどこにもない。以上説明終わり」
並び立てられた言葉。その言葉を咀嚼するように、那月はわずかに目を細めていく。
「……貴方は優しい人ですね。そのような考え方ではその内、損してしまいますよ?」
「オレは優しくなんてないさ。単に那月が自分に厳しすぎるだけなんじゃないか。少しは自分に優しくしてもいいと思うぞ?」
そう言い切ってから、身体に力を入れ、具合を確かめてみる。
頭に微かな痛みがはしるが、決して我慢できない程の痛さではない。どちらかと言うと、寝起きのため脱力感の方が気になるところだ。
微かに感じる痛みを押し殺し、身体を起こそうとしてみた。
だが、起き上がろうとした時、那月が阻み元の体勢に戻されてしまう。
「もう少しだけ安静にしておいた方がいいです」
元の体勢に戻ることで触れる柔らかな感触と暖かな温もり。ここでようやく自分が那月に膝枕してもらっていることに気がついた。柔らかさと温もりの正体は、那月のふとももだったのだ。そして、そのふとももに頭部を預けて密着している。
これが男の憧れの天国か………。こんなにも身近にあるなんて思いもしなかった。灯台もと暗しとはこの事である。
――――ではなく、これは普通にマズいだろ。
そのことに気づいた途端に、柔かさと温もりに加えて、清涼感のある甘い匂いまで香ってきたような気がしたのだ。慣れていないシチュエーションに顔が普段よりも熱を持つ。
「いや、そのっ、もう大丈夫だから、起きるっ。むしろ起きさせてくれっ!」
身体を起こす二度目のチャレンジ。しかし、やはりそれは阻まれてしまう。
「駄目です。貴方はただでさえ頭部にダメージがある上に、さっきまでうなされていたんですよ」
「……うなされてた?」
「はい、何時間もずっと」
ふと、嫌な予感がよぎった。
「オレ、もしかして変な寝言とかって言ってたりしたか?」
「いいえ、寝言は何も」
那月の否定に心底安堵させられた。
「寝言を聞かれたら何かまずかったんですか?」
訊ねられる質問に一瞬だけ押し黙る。でも本当にほんの一瞬だけ。すぐさま常時運転に脳内が切り替わり、いつものようにジョークを飛ばす。
「あぁ、寝言とはいえ、本人の前で『なっちゃん大好き、アイラブユー』なんて言ってたら流石に洒落にならないからな」
「そのような風に言われたら『シロちゃん大好き、アイラブユー』と返すところです。それどころか抱きついて口付けの一つはするかもしれませんね」
少しだけ笑う那月。
そのらしくない切り返しに肩透かしを受けてしまう。付き合いが短いから予想にしか過ぎないのだが、てっきり『冗談でもそういうことは言わないで下さい。それとだれがなっちゃんですかっ!』と返されるばかりだと思っていた。やはり、先程の件をまだ引きずっているのだろうか。
不思議に思い、口にしようとしたその時。三人目の闖入者によって、場の空気は一気に騒がしいものへ変えられた。
「あーっ! ご飯だから呼びにきたのに、シロちゃんとなっちゃんが膝枕してるっ! ラブラブしてるっ! 愛を囁きあってるっ!」
三人目の闖入者こと村雨先輩は、近付いてくるなり大声を出した。なんとも喧しい人だ。はっきり言ってうるさい。まるで歩く公害だ。
眉をしかめたオレは口を開く。
「Who are you?」
「ふ、ふー、あー、ゆー?」
英語で訊ねると、キョトンとして復唱する村雨先輩。
「あー、姉さんは単語や自分の興味のある断片的な英語は出来るんですが、文章やネイティブな発音の聞き取りはさっぱりなんです」
このレベルでも英語は駄目らしい。少し前の凛姉の件で、タートルブレイクが亀の甲羅を破るということ比喩してるのを理解できていたのに、ネイティブな発音とはいえ、この程度が理解出来ないとはこれ如何に。
「な、なっちゃん………」
狼狽えに狼狽えて、視線は那月へ。妹に助けを求める姉に、ため息混じりに那月が補足していた。
「あなたは誰ですか? と訊かれてます」
「なぁんだ、そんな事か。私は将来シロちゃんのお嫁さんになる若妻の六花さんだよっ。不束者だけどよろしくねっ♪」
狼狽から一点。きゃるん、と素敵な笑顔で返してきた。
「No thank you.I love Natsuki」
「断る。オレは那月が好きだ、と言っています」
「そ、そんな、なっちゃんに負けた!? なっちゃんよりおっぱい大きいのに!?」
ガァーンとショックを受ける村雨先輩。
驚愕を言葉に示す彼女を余所に、オレと那月は互いに意地の悪い笑みをかわしていた。那月もおそらくオレと同じことを考えているのだろう。それを自ずと理解できたのは、目の前に良いリアクションをしてくれる人が居る。たったそれだけの理由だ。
オレと那月は二人揃って立ち上がり、大舞台にでも上がったかのような趣で台詞を口にした。
熱い視線と甘い囁きの交錯しあう。
「那月、オレはお前が好きなんだ。初めて見たときからずっと……、ずっとお前のことが好きだった。だから……オレと結婚してくれないか?」
村雨先輩にも理解できるように日本語で言う。受け止めるのは那月の熱の籠った視線。
「……はい、喜んで。二人で幸せな家庭を築きましょう」
返してくる那月も日本語だった。
那月の手が伸ばされ、オレの手を絡める。普段から刀を握っているとは思えないほどに柔らかな手に、綺麗な白い指先。
指と指を絡めるようにして重ねられた手からは、鮮明に那月の熱が伝わってくる。同様にこちらの熱もあちらに伝わっているに違いない.。
手を取り合うオレと那月は、互いに互いを見つめ合う。
「挙式は大きな教会でしよう。たくさん人を呼んで、盛大に祝おうか」
「そうですね。では、姉さんには仲人の役割をしてもらいましょう」
那月からされるのは提案。オレは大袈裟に首を横に振るった。
「今は村雨先輩の名前なんて出さないでくれ。オレの瞳に映るのはお前だけだよ」
キザな台詞も、ジョークではなくて、演技でなら案外言えるものだと身をもって実感した。
「それより結婚の後の話をしよう。那月は新婚旅行はどこがいい?」
「恭弥さんと一緒なら何処へでも。それで夜になったら二人で……ぽっ」
わざとらしく頬を朱に染める那月。そして、彼女は更なる爆弾発言をしてみせた。
「男の子は二人、女の子は三人ほしいです」
「あっはっはっ、ママがそう言うならパパも頑張っちゃおうかな」
こちらもわざとらしく笑う。見せつけるような演技は終幕へ。
「……愛してるよ那月」
「私も愛してます恭弥さん」
次第に重なり始める影と影。
次第に近づいてくる唇と唇。
すると突如、尻尾を踏みつけられた猫のような悲鳴が割って入ってきた。
「いやぁぁぁぁぁっ! それはだめぇぇぇぇっ! 絶対だめなのぉぉぉぉ!」
もはや妨害と言い表すよりも、攻撃とでも例えた方が表現として合う勢いで向かってくる村雨先輩は何故か半泣きだった。
オレ達は何もなかったかのごとくサッと身を離し、お互いに距離を取ってそれを避ける。
村雨先輩は見事に。いや、素晴らしいほど見事にその間をすり抜けていった。
結果―――ベチャッ。
同情を誘うくらい不様に縁側から落ち、フェードアウトしていった。しかも、もろに頭からいった。かなり痛そうである。
からかい半分とはいえ、やりすぎたと自重せざる負えない。心配になったオレは、そーっと下を覗きこんでみた。
「……うぅー、私ならなっちゃんみたいにシロちゃんを泣かせたりしないのに……。シロちゃんがなっちゃんに寝とられたぁ……」
緩慢な動きで身体を起こす村雨先輩。彼女はおかしな言葉をもらし、悲嘆していた。
「寝取る……? ってか、オレは那月に泣かされてませんよ」
念のため目元に触れてみるが、涙の後なんてどこにもない。
しかし、村雨先輩は大声で言った。
「ウソだよっ! シロちゃんの目、泣いたあとみたいに真っ赤だもんっ!」
その指摘には何故か那月が反応を示す。ビクリと身をすくませた那月を見て、犯人を追い詰めた名探偵よろしく、村雨先輩はビシッと指を指して告げる。
「この家にはリッくんを抜いて、私達三人しか居ない。私はさっきまでご飯を作ってた。そこでシロちゃんが泣いていた。だから犯人はなっちゃんしか居ないんだよっ!」
「違っ、私は―――」
那月はそこで言葉を止めた。その表情は、本当は全然違うが、本当のことだけは言ってはいけない。そのような顔に似ている。
那月は一拍呼吸を置き、新たな言葉に変えた。
「さすが姉さんです、無駄に感が鋭いですね。犯人も分かったことですし、ご飯を頂きに行きましょうか」
無理のある会話の打ちきり。制止を呼び掛ける間もなく、那月は先に歩き出してしまった。
「えっ、ちょっと、なっちゃん!? シロちゃんを泣かせといてそれだけ!?」
那月の変化に狼狽える彼女を余所に、オレの視線は那月に吸い寄せられる。ふと視線に掠めた一部分。それは那月の着ている服の袖の染み。まるで何かの液体を吸い続けていたかのようなそれは、奇妙な斑模様になっていた。
それに気づいた時、頭に響いたのは夢の中でのあの声。
『大丈夫ですよ。今の貴方ならきっと大丈夫です。だから泣かないで下さい』
オレの情けない言葉を否定してくれた優しげな声音だった。
つまりは、だ。
「あんの嘘つき娘は……」
寝言を言っていないというのは嘘なわけで。しかもそれはかなり情けない泣き言を聞かれてしまっていたわけである。
自身の目で真実を見つけたとき恥ずかしいような、むず痒いような、なんとも言えぬ感情が生まれていた。
オレは那月の背を追いかける。女の子にしては少し高い背丈に、ちょっぴり格好いい雰囲気を持つ少女。そんな彼女に追いつき語りかけた。
「その、なんだ………ありがとな」
「何のことですか? 私は何も聞いてませんし、何もしてません」
スタスタと歩いていく那月は、自分の口で真実を言っていることに気がついていない。
尚も止めることのない足取り。そのまま居間に入った彼女は、静かに腰を下ろした。
追従し、オレもすぐ隣に腰を下ろした。
「そうやって触れないでくれることに対してのお礼だ。那月は優しいな」
不躾に伸ばした手は、ライトブラウンの柔らかい髪を撫でつける。さらさらと指の隙間から零れる髪の毛は、日頃からの手入れの賜物か極上の金糸にも劣らぬ煌めきを宿している。
何度か撫でていると、
「だから私は何もしていないと言っているじゃないですか。貴方もしつこいですね」
パシッとオレの手を叩くように払い、ジト目を向けてくる。
だが、その表情にはいつもの凄みがなかった。多分、遠慮しているのだと思う。
「そうだな。じゃあ、これは膝枕のお礼ってことで。本当にありがとな」
素直じゃない彼女を見て少しだけ笑う。隣に居る那月は、ふんっ、と居心地悪そうに視線を横に逸らしてしまった。
「これも全部姉さんのせいです」
憤慨するかのように呟いた那月は、卓上に完備されている複数の調味料を手元に手繰り寄せた。
はて、何をするのか? と思っていると、次の瞬間に並べられている料理の中の一人分にやたら調味料をフリかけ始めたのだ。
青、黄、赤の信号カラーという混沌。ちなみに青は練り山葵で、黄は練り辛子、赤は七味唐辛子だ。練り山葵と練り辛子はブチューッとチューブ内が空になるまで、七味唐辛子は瓶の半分まで激減していた。
その後、拷問にも近い惨状を表面だけ覆うように隠す。見てくれは最初とほぼ同じ美味しそうな料理。しかし、あれを口にすれば間違いなく悶絶することになるだろう。
そう断言できるほどに大量の調味料をぶちこんでいた。
隠蔽を終了し、「ふふふ」と黒い笑みを浮かべる那月。メニュー一品一品に細工を施していく様は不思議と恐怖を誘う。
鬼だ。鬼がいらっしゃる。
彼の鬼の被害がこちらまで及んだら堪らない。オレの中にあった温かい気持ちは凄い勢いで逃げ去り、今度は果てしない恐怖が蹂躙していた。
口を開くより、我が陣地を死守することに決め、ガクガク震えながら自分の食卓を遠ざけていく。
「ふむ、これでいいでしょう」
やり遂げた感がある爽やかな横顔。
オレは声を大にして問いたい。何がいいのだと。
でも言わない。被害は最小限に抑えるべきだからだ。
那月が細工を終えたところで現れた村雨先輩。
「姉さんも揃った事ですし、いただきましょう」
那月の一声で食事は開始された。
重なる三人分の「いただきます」の声。口元に運ばれる品々。二人分の食事を称賛する声に、一人分の悲鳴。
「姉さん、どうしたんですか? あまり箸が進んでいないようですが、食べ物を粗末にしてはいけませんよ?」
「……うぅ、からいよぉ。なっちゃんのばかぁ………」
口内を蹂躙する辛みに涙を流す一名を犠牲に、今回の問題は幕を閉じたのだった。
その一名には感謝している。君の犠牲は今夜寝るまで忘れないつもりだ。そう心の中で呟き、美味な夕飯に舌鼓を打ったのだった。




