取ってこーい!
真っ赤な顔で逃げ去ってしまう那月の背を、脱兎の如く逃げるとはこのような姿なのだろうなと考えながら見送った。
「行っちまったな」
腕の中に居るリクを抱えて上げて語りかければ、尻尾を振りながら「わふっ」と鳴く。ちょこんと首を傾げる仕草が可愛らしい。
「んじゃ、オレ達も行こうか?」
再びリクの「わふっ」という元気の良い返事を聞いてから、道場の床に残る血痕と、手当てした道具の片付けをした。
それから着替えた後、リクを頭の上という特等席に乗せ、昨日食事をした居間に向かう。
「やっぱり、日本に戻ってきてよかったかもしれないな」
廊下を歩きながら何気ない呟きが漏れる。
日本に戻ってきた日。頭の中で考えていたのは、仕事を終わらせて早々にアメリカに帰ることだけであった。
それは紛れもない事実である。
でも新たな生活の環境には、幼い頃に一緒にいた舞華や凛姉がいる。学園に行けば秋人に武、那月や村雨先輩。こちらに帰国してからできた良き知人達。
オレには勿体ないくらいの人達と日々を過ごしている。こうして普通の日々を送っていることに自分でも驚きだ。
「願わくばこの良き日々が続きますように、ってな」
「わんっ」
「おっ、リクもそう思うのか?」
「わんわんっ」
同調するように鳴くリクに疲れきった身体と心が癒されていく。那月に黙ってこのままリクを連れて帰ってしまおうか、などと良からぬ考えが浮かんでしまうほどに効果は絶大である。
もっとも、そうはいっても行動に移すことはしないが。
リク癒されながら歩いている内に、居間に辿り着いた。ひとたび襖を開ければ、鼻腔をくすぐる美味しそうな匂いが広がる。
「……おはよう」
「はい、おはようございます」
昨日までの会話から見ればやたらと味気ない挨拶。昨晩のやり取りのせいか、やはり少しだけ気まずい。
それを悟られないように室内に入り、逃げるようにして那月の隣に腰を下ろした。
卓上を見れば、鮭の切り身にホウレンソウの胡麻和え、豆腐とワカメの味噌汁といった和のテイストで彩られた食事。見ているだけで空腹を誘われる。
「改めて、おはよう、那月」
「……なんで私の隣に座るんですか?」
返ってきたのは挨拶ではなく、ジト目と質問。よく見れば頬も少し赤みを帯びている。先程の会話を引きずっているらしい。
「それはだな、可愛い可愛いなっちゃんの隣で美味しいご飯を食べたいなー、と」
習慣として慣れてしまったが故に口をついて出る冗談。
「恭弥さん、あまり冗談が過ぎるとどつきますよ?」
触れれば切れそうなほどに冷たい視線と、腹が底冷えするようなドスの効いた声音が返ってくる。最早、とてもじゃないが平常心では居られそうもないレベルだ。場所が場所なら、生存は諦めるレベルだね、これは。
こうなっては形振りなどかまってられない。陳腐なプライドなどドブにかなぐり捨て、怖さのあまり直ぐさま謝ってしまう。
「すいませんでした。愚かな私めをどうか許してください、那月様」
「それは無理な相談ですね。判決は有罪ですから死刑確定です」
那月は言うなりオレの頭の上にいるリクを自身の膝の上に下ろし、手刀を叩き込んできた。
だが、それは力一杯のものではなく、ストンと落とすだけの軽いもの。案外、那月も冗談が通じる相手なのかもしれない。
そうと分かれば感じていた恐怖など一瞬で掻き消え、たったそれだけの他愛のないやり取りが楽しく感じてしまい、自然と頬が緩んでしまう。
「……なんでニヤニヤしてるんですか。もしかしてMなんですか? 真性のマゾなんですか?」
「もしオレが、『犬と呼んで下さい!』とか言ったら呼んでくれるか?」
「残念ながら恭弥さんはリクのように可愛くありません。なので代わりに卑しい豚と呼びましょう」
「流石にそれは不採用だな」
そのようにして二人で他愛ない冗談を言い合いながら、笑みをかわす。リクにも癒されたが、こうやって友達と話すだけでも、疲れが吹き飛んでいくのが分かる。
そんなオレ達を射ぬく一人分の視線。
まさかな、と思いつつ、そーっと窺うと、
「んむうぅぅー」
などと奇妙な唸りを上げている村雨先輩が、射殺さんばかりの眼でこちらを見ていた。あの顔を第三者が見れば、確実に通報されてしまうレベルである。むしろオレが今にも通報してしまいそうだ。
「なぁ、那月。村雨先輩、やっぱり昨日のことまだ怒ってるのかな?」
那月にこそっと耳打ちして訊ねてみる。視線はより一層強くなる一方。それにも関わらず、那月はやれやれと首を振っていた。
「放って置けばいいんですよ。どうせ構ってほしいだけでしょうから」
「そうなのか?」
「姉さんですから」
返答にに困る回答。変わらない場の空気に頭を悩ませてしまう。楽しいのに気まずい。そのような環境の中でオレ達は食事を摂ることになった。
黙々と運ばれる箸。逸らされないキツい視線。美味しい朝食の品々。のんきに欠伸をするリク。
これが今のこの居間を描写する最適な表現だ。
あまりの居心地の悪さにどうすれば良いのか分からず、舌鼓を打ちながら、「あー、うー」と不明瞭な呻きを上げていると、舞い降りたのは救いの女神。
「それで恭弥さんは、朝食のあとはどうするつもりなんですか?」
「もちろん剣術を―――」
ギロンと般若の視線。オレを睨む視線がまた一つ増えた。
こちらの方が心臓に悪い。舞い降りたのは救いの女神などではなく、荒ぶる鬼神の如き修羅だったようである。
「―――と思ったが、午前中はリクと遊ぼうかと思っている。那月も一緒にどうだ?」
「ご一緒しましょう」
和らぐキツい視線に胸を撫で下ろす。どうやら回答としては正解だったようだ。
相も変わらず村雨先輩は睨んでいるが、那月の比ではない。那月の方が確実に十倍は怖いように感じる。
間違いなく彼女は怒らせてはいけない人種である。これからは言動には気を付けないと命が幾つあっても足りなさそうだ。そう脳内にて密かに作成されている、怒らせてはダメな人物のブラックリストに二重丸しつつ、素早く残りを食していった。
美味しい朝食を三人で頂いた後、オレは言葉通りリクと遊ぶことにする。……という名目で足早に居間から逃亡――いや、退席をした。
「さて、リク。腹ごなしにオレと一緒に遊ばないか?」
朝食のあと、一緒に連れ出し、再びオレの頭の上で寛いでいるリクに訊ねてみる。昨日遊べなかったせいもあってか、リクもノリ気らしく、尻尾を激しく振っていた。時折、尻尾が首筋を掠め、くすぐったい。
「リクはどっちがいい?」
那月から借りたのは、野球ボールくらいの小さなゴムボールと、猫じゃらし(?)っぽいオモチャ。ボールを左、猫じゃらしを右に並べてから、リクを頭の上からそっと地に下ろした。
「どっちで遊ぶかリクが選んでくれ」
リクは迷うようにフラフラと左右を行き来するも、どちらで遊ぶのか決めたようだ。ボールの方をくわえ、円らな瞳で期待したように見上げてくる。
「よし、じゃあ、これで遊ぶか」
その言葉に対し、リクはくわえたボールを離し、その場で元気良く返事をした。
オレはそのボールを受け取り、一緒に庭の見える縁側まで移動する。ここなら室内で駆け回るだけより、リクも楽しめるだろう。
「んじゃ、いくぞ?」
リクの返事を聞いてから、オレは広い庭へと目掛けて、軽くボールを放り投げた。
同時にボールを追い、勢い良く飛び出すリク。
数秒後。ノーバウンドとはいかなかったものの、投げられたボールをしっかりとくわえ、オレのもとに帰ってきた。
帰還したリクは、「褒めて褒めて」と言うように、ボールをくわえたままこちらを見上げ、尻尾を振っている。褒美をねだるようなキラキラとした視線がなんとも愛らしい。
オレはその要望に応え、屈んでリクの頭を目一杯に撫でる。
「偉いぞ」
それだけの言葉でリクは嬉しそうに、パタパタと尻尾の振りを大きくする。
こうして見ると、犬も人間と同じように、感情がよく表に出ていることが分かる。
昨日は不安そうにビクビクして震えていたことから、心細くて怯えていたことが分かったし、今は尻尾を振る仕草から心底喜んでいることがよく分かる。お互いに言葉は交わせなくとも、感情の共有が出来るからこそ、動物に愛着が湧くのだろう。
「早く私にもやらせて下さい」
申し出たのはいつの間にか出没した那月。きっと食事の時に言っていたように一緒に遊ぶために追いかけてきたのだと思う。
彼女はオレやリクを見て、そわそわと待ちきれないとばかりに身体を揺らしていた。普段では見られそうもない姿だ。
よって、オレの取るべき次のアクションは………
「那月」
「なんですか?」
「取ってこーい」
そう声をあげながらボールを放り投げることだ。
遠くへと放られるボール。反射なのか那月はとっさにボールへ目掛けて走り出す。無意識下で身体強化をしているのか、彼女の駆けるスピードは凄まじく速い。
ボールが地につく瞬間、那月は落ちきる前にボールをキャッチした。リクの時に比べ、結構な距離にも関わらず、ノーバウンドでキャッチしたことに感心してしまう。
那月はボールを携えこちらに戻ってきた。言っておくが、ボールは手で持っている。決して口にはくわえていない。
「偉いぞ」
リクの時と同じように那月の頭を撫でまわす。
驚いたことに抵抗はない。………が。
しばらく気持ち良さそうな顔で撫でられているも、何かにはっと気が付いたように身体を強張らせた。同時にバシンと叩かれて払われてしまうオレのゴールデンフィンガー。
「何をさせるんですか!」
「だって那月がさせてくれって」
「だったらなんでボールを投げるんですか!」
「一緒に遊ぶためだろ?」
「分かっていて言ってるでしょう!」
「だから投げられたボールを取る係だろ? ほら、取ってこーい」
再び那月は猛ダッシュ。あのスピードにはスプリンターも真っ青だ。
そして、今度は見事なダイビングキャッチを披露。空中にて体勢を立て直し、華麗に着地している辺りが流石だと言える。
渋面で戻ってくる那月をオレは笑顔で迎えた。
「ナイスキャッチ!」
「だから私に何をさせるんですかっ!」
「キャッチボール?」
「なぜ疑問系!?」
はぁはぁ、と疲れたように息を切らす那月。随分とお疲れのように見える。オレは首を傾げながら訊ねた。
「そんなに息を切らしてどうしたんだ?」
「貴方のせいですよ、貴方の!」
「オレ、何かしたっけ?」
「まさかの自覚なしですか!?」
目を見開いて叫ぶ那月。もはやクールキャラの欠片もない。その事が可笑しくて、盛大に吹き出し、声に出して笑ってしまう。
「あははははっ、冗談、冗談だって。ほら、那月もリクと遊んでやってくれ」
そう言って那月を宥めつつ、リクへと意識を促した。二投分もお預けされていたリクは、待っていましたとばかりに尻尾を激しく振る。
期待に満ちた円らな目に那月はメロメロだ。オレへの追求やボールを投げることすら忘れ、リクに見惚れている。
「那月、リクが待ってるぞ?」
「そ、そうですね。いきますよ、リク」
オレの言葉で我を取り戻した那月は、リクの返事を聞いてからボールを投げた。
ふわりと描かれる緩やかな放物線。リクは嬉々として地を蹴り、投げられたボールを追いかける。
そして、リクは那月を真似るようにして華麗なダイビングキャッチを披露。ボールをくわえたリクは、すぐさまダッシュで戻ってくる。
リクは迷わず那月のもとへ。功績を誉めてもらうべく、尻尾を振ってご主人様におねだりする。ご主人様こと那月も、リクのおねだりに精一杯応えていた。
「すごいですよリク。えらいです!」
リクを抱き上げ、撫でさすり、頬擦りまでする過剰なご褒美。それでもリクは嬉しそうに尻尾を振り、お返しとばかりに那月の頬を舐める。
「こら、くすぐったいじゃないですか」
那月はたしなめるようにリクに言うが、どう見ても頬が緩んでいる。
目の前に広がる優しくて温かい空間。それは誰しもが求め、手にする事ができるかもしれないもの。
でもそれはなかなか得ることができない。人間には例に漏れず、目に見える側面と見えない側面とに別れている。
表面上ではどうとでも取り繕えるが、裏面上は自分だけしか知ることはできない。だからこそ、他者との関係を築くときに人は慎重にならざるおえない。
相手の事を知り、自分の事を知ってもらう。そして、認め合い、互いに繋がっていく。
オレは教えられて初めてそれを知った。だから教えられずとも容易く繋がりを作れる彼女達がなんだか眩しく見えてしまった。
胸中でそんな事を考えながら二人の睦合いを眺めていたところ、
「だーれだ?」
と視界が暗くなると同時に、後方から甘い声が聞こえた。
重なる色々な類いの感覚情報。
その中で最も主張が激しいのは、背中に当たる、ふにゅっとした柔らかい感触だった。
こ、これってもしかしなくてもアレだよな?
その甘美な感触に、幸福感と戸惑いの綯い交ぜになった理解不能な感情が押し寄せ、思考はフリーズしてしまう。
「あれれ? わからないかなっ?」
「いや、その、分かりますけど……」
とりあえず離れてもらいたい。両手で目を覆うために抱きついているせいか、柔らかな中に弾力を兼ね備えた膨らみが、動く度に形を変えていくのが分かってしまう。
「早く答えてくれないと、このままちゅーしちゃいます。じゅう~、きゅう~、ぜろ~。はい、ちゅ~」
宣言と同時に耳元に掛かるくすぐったい吐息。
「いや、まっ……」
オレは慌てて両目を覆っていた手を振りほどき、その場から強引に離脱して勢いよく後ろを振り向いた。
目隠しをした声の主は、ぴょんと小さく跳ねてオレの前に躍り出てくる。
「ちぇー、あとちょっとだったのにぃー。力ずくで逃げるなんてシロちゃんはズルいんだよっ」
そう言いながら、犯人である村雨先輩は不満そうに唇を尖らせていた。
彼女とは昨日の夕食が終わってから、若干避けられ気味で会話が無かったのだが、今は完全にいつも通りのノリだった。そのことに何故か少しだけ安心しつつも、オレは今の心情を言葉にした。
「いきなりキスしようとする方がおかしいだろ! つーか、8から1はどこいったんだよ!」
混乱のあまり敬語を使うことも忘れ、大声でツッコンでしまうオレ。
すると、村雨先輩は眉間にしわを寄せて難しい表情を浮かべる。
「むむむ、シロちゃんのガードが堅いよぅ。こうなったら……とうっ!」
何を思ったのか、村雨先輩は突然妙な掛け声を上げて、こちらに飛びかかってくる。
何が何なのかさっぱり分からないが、とりあえず彼女の頭を片手で掴み、接近を阻んだ。あと、ついでに指先に力を入れてやった。得意技のアイアンクローである。
「いたたっ! いたいいたいよ、シロちゃん! 離して離して! 頭が割れちゃうよ!」
「さっきから一体どういうつもりですか? 早めに言わないとこのまま割っちゃいますよ? 10、9、一気に飛んで――」
「わぁー! 言う言う。言うから離してっ!」
慌てた様子で手をジタバタ動かして言うので、言われた通りに手を離してやった。
「ふぅー、危ないところだったよ……」
かいてもいない汗を拭うような仕草をしながら息を吐く村雨先輩に、オレは改めて問うた。
「んで、どういうつもりだったんです?」
「うー、あー、その、ね……」
返ってくるのは曖昧な呻き声。仕方なくオレは再び頭を捕まえんと右手をクワッと構えた。
「うわぁっ、言う言うっ、言うよっ!」
「ではどうぞ」
「あの、え、えーと、ですね……。昨日ちょっとあったじゃない? それでそのまま疎遠になったら嫌だなーなんて思ったりしてですね、いつもみたいに特攻すれば何とかなるかなと思った次第でして、はい……」
少し気マズそうに村雨先輩はそう言った。
その言葉を聞き、あの時の場景を思い出す。昨日の夕食の時。ふと、村雨先輩が剣聖になりたいと漏らした。
それが彼女にとっては、それが夢や目標に近いものだと思う。誰しもが一つくらいは持っている大切なもの。それに対してオレは冷めた口調でこう言った。
『絶対に無理だから止めた方が良いですよ。これから先も剣士としてやっていくならそれがオススメです』
オレは剣聖になるための絶対条件を知っている。だからこそ、剣聖になりたいと言った彼女に対してそう告げた。
だけど、それとこれとは完全に別の話だ。彼女にとっては、会って間もない人間に、自分の夢や目標を無理と断じられた。自分のことをまったく知りもしない相手に、諦めろと言われた。それは彼女からしたら、とんでもない侮辱だろう。
昨日、彼女が怒ってしまったのは当然だといえた。悪いのは完全にオレの方である。
それなのに彼女は、自分との関係を気にしてくれていた。修繕しようとしてくれた。その事がなんとも嬉しく、また、同時に情けなく感じた。
オレは深く頭を下げる。
「昨日は先輩の目標を馬鹿にするような事を言って、本当にすいませんでした」
「わわっ、別に謝らなくていいよ。今のままじゃ、剣聖になれないのは本当だし、私はただシロちゃんと仲直りしたいだけだから。ほらっ、頭上げてよ。ね?」
オレは言葉通りに顔を上げた。すると視界に映るのは、にぱっと、いつもの天真爛漫な笑みを浮かべている村雨先輩。
「これで仲直りだねっ」
村雨先輩は笑顔でオレの手を取り、ブンブンと上下に振り、ハンドシェークした。包帯越しに感じられる彼女の手は、小さく、柔らかく、そして……とても温かい。
その温もりに、少しだけドキドキしていると、ズボンの裾を引くわずかな力を感じた。
なんだ? と思い視線を下に動かすと、那月の手から離脱したリクが拗ねたような瞳で見上げているではないか。言い訳をするつもりはないが、村雨先輩とのやり取りですっかり忘れていた。
オレは慌ててリクにも謝った。
「途中で放り出してごめんな、リク」
そう言って腰を屈めて手を伸ばすも、その手をカプッと噛まれてしまう。
仔犬であるため噛む力はそう強くないのと、包帯の上からということもあってかチクリとする程度なのだが、リクは相当お冠のようだ。何度もはぐはぐと噛みつき、なかなか手を離してくれる様子がない。
そんな邪険(?)な場面にも関わらず、その場にまったく似つかわしくない歓声が横から上がる。
「わぁ、リッくんだぁ。よしよーし、おいでおいでー」
どうも、リクのアダ名はリッくんらしい。
村雨先輩は手を叩きながらおいでおいでと招くも、リクは見向きもしない。すると彼女は自分の方から、リクの方へと近付き始めた。
リクは途端に噛んでいた手を離し、ビクッと小さな体躯をすくませてしまう。どうやら、まだオレや那月以外は怖いようだ。
しかし、そんな様子に気が付かず、村雨先輩は手をリクへと伸ばし、遂には抱き上げてしまう。当然、彼女に抱き上げられたリクは怯え、恐怖で大きく震えていた。
「ほら、リッくん。たかいたかーい」
村雨先輩にブンブンと上下に動かされ、リクは一層震えを激しくする。
これはマズい。そう思って村雨先輩を止めるよりも先に、彼女の頭をゴチン! と、どつく者が居た。
「リクを離して下さい」
そう言って闖入者は、リクを引ったくるように奪い取り、自分の腕の中に抱いた。
「もう大丈夫ですよ、リク」
闖入者こと那月は、怯えるリクを優しく何度も撫でる。
まるでリクの母親のようだ。那月の活躍により、次第にリクの震えは軟化していった。
どうやら、この一日という短い時間の中で、一人と一匹の間には強固な信頼関係が築けているようだ。その光景を見てると、こっちまで温かい気持ちになる。
オレも気付けば、自然と那月と一緒にリクを撫でていた。リクの気持ち良さそうな顔がすごく和む。
ただ、その様子を避難がましい訴えかけてくる人が約一名。那月に頭をどつかれた村雨先輩が、頭を抱えながら涙目で見てきていた。
「なっちゃんもシロちゃんもひどいよ。私を無視してリッくんと遊んでるなんて……」
あっちを構えばこっちが疎かになり、こっちを構えばあっちが疎かになる。地味に悩ましい問題であった。
うん、こういう時はあれしかない。
「村雨先輩、取ってこーい!」
かけ声と同時に放り出されるボール。それは文字通り目にも留まらない速さで彼方へと飛んでいった。
「わーいっ」
それを構ってもらえたと勘違いして考えもせずに追う村雨先輩は、端から見れば完全にアホの子そのものである。
そんな残念な彼女を見送る三つの視線。
「……恭弥さん」
「……何も言わないでくれ」
「……そうですね」
何も言わずに意思が通じ合う。それが何よりも素晴らしいことだと感じた瞬間だった。




