姉弟
「待ちなさいっ!」
鉄柵に立った恭弥。彼の言葉に凛は叫んだ。
二人だけの屋上。そこに凛の声がこだまする。
しかし、それよりも早く―――わずかに恭弥の身体は後ろに傾いていた。
「やめなさいっ!」
嫌な予感は現実へ。
一度倒れ始めた身体は決して止まることはない。目に映る範囲から恭弥は消えていく。
凛は走り出す。落下しようとしている弟を止めようと、必死に手を伸ばす。
だがしかし。
あと数センチ。たったの数センチのところで、伸ばされた手は奇しくも空をきった。
落ちてゆく姿。
凛を見つめる恭弥の瞳は「これでいいんだ」と語っているようで、凛はやるせない感情に襲われてしまう。
「じゃあな、凛姉」
これならもう追いかけられないだろう。その安堵と共に恭弥は重力に身を預けた。
自然と訪れるのは重力による自由落下。轟々と唸る風の音が嫌になるほど耳に響く。
凛にとってそれは目を離せるはずもなく、届くはずのない手を伸ばし続けていた。
風を切りながらも落下し、恭弥は少しずつ地面へと近付いていく。
遠回りはしたが、全てこれで終わりとなる。否、なるはずだった。
「恭弥ぁ――――!」
叫び声に近い悲鳴が聞こえた次の瞬間、恭弥は自分の目を疑うことになる。
なんと凛までもが宙に身を投じたのだ。
「―――――――っ!」
声にならない悲鳴を上げながらも恭弥へと意識を向けている凛の姿。彼女は少しでも近付こうと、懸命に手を伸ばしていた。
何度も拒絶したにも関わらずに追ってきた挙げ句、更に屋上から飛び降りてまで助けようとすることに理解が及ばない。
「なんでだよ、意味がわかんねぇ……」
恭弥は苦々しく吐き出した。
思わず出た小さな呟きは、風が対峙者へと運ぶ。恭弥にとって大切な少女のもとへ。しっかり届けて聞かせるように、風は頼まれてもいない役割を果たす。
「恭弥が私の大切な弟だからに決まってるでしょうが!」
漏れた呟きの何倍もの声で恭弥を叱咤するように叫ぶ凛。
それは大切だと想っている人とは重ならない一面として表れていて。凛と会うことのなかった日々の中で、彼女が前に進んでいる事が伝わるには十分なものであった。
それでも……恭弥には認められないのだ。
「意味がわかんねぇよ! オレはあんたとは相容れない! オレもあんたも、互いに関わり合うことで互いに不幸なるんだよ!」
陽も落ち始めた放課後の校舎。どれだけの人が残っているかは知らない。
響き渡る声を聞かれる可能性もあった。だが、最早そんなことはどうでもよかった。
「関わり合うことで不幸になるって誰が決めたの!? それは恭弥の一方的な考えじゃない!」
「分かりきったことだろ! オレは天月が嫌いだ! あんたはオレに関わる事で居場所を失う! どちらにとってもデメリットでしかないだろ!」
その言葉に凛のしなやかな柳眉がこれ以上ないまでにつり上がる。
そして、有らん限りの叫びを上げたのだった。
「私の幸せは私が決める! 私の幸せを知らないくせに、勝手に決めつけるな!」
叫ばれた言葉。恭弥は確かに凛の幸せが何なのか知らない。
でもそれは仕方のないことなのだと思う。なにしろ、人によって幸せの形は違うのだから。
恭弥にとって、変わらない生活を送ることが凛にとっての一番の幸せだと感じていた。でも、それは本人に真っ向から否定されてしまった。
恭弥は憤る姉の姿を見て、心から素直に思ってしまう。
「……はは、ほんと、凛姉には敵いそうもないな」
思わずといった風に漏れる呟き。気のせいでなければ、恭弥の顔には微かな笑みさえ浮かんでいた。それはひどくひどく優しい微笑みだった。
その表情をどう勘違いしたのか、凛は声を張り上げていた。
「貴方だけは何があっても絶対に死なせないからっ!」
揺るぎない芯の強い声音。それは凛の確固たる覚悟の現れ。それは深く恭弥の心に響く―――ことはなかった。
なぜなら、脳内が疑問符に満たされていたからだ。
今、彼女はなんて言ったのだろうか?
その言葉の意味が分からなくて、落下中だというのにも関わらず恭弥は思考を働かせていた。
恭弥はこれまでの事を思い起こす。
さっきまで自分は凛に近付かれることを避け、後ろに後退していっていた。
それでも追いかけてくる凛。終いには逃げ場がなくなってしまう。
伸ばされる手。それを避けて鉄柵の上に降り立った。その後別れの言葉を告げながら、屋上から身を投じる。
うん、これはいろんな意味でアウトだろう。
「……これはミスったかも」
状況だけを見れば、完全な飛び降り自殺である。
実質、恭弥にはそんな気はこれっぽっちも無かったのだ。
だが、自分以外の人間がその考えを把握しているはずもないのが現実。まさかの勘違いで屋上から飛び降りをさせてしまった結果となっていた。
なんと言えばいいのだろうか。
「勘違いにもほどがあるだろ……」
そうと分かれば、しなければいけないことなど当に決まっていた。
恭弥は一つ深呼吸をしてから、踊るように軽やかなステップで宙を蹴る。舞うように、踊るように、一歩を踏み出す。
すると途端に降下は上昇へと変わった。
必然的に二人の距離は縮んでいく。
恭弥は落ちてくる凛の左手を掴んで、自分の方へと引き寄せた。そして凛は背中に腕を回し、ぎゅっと離さないように抱きついてみせる。
まるで宙で踊るかのように触れ合う、一対の姉弟。胸の中にある確かな体温。恭弥はその事を確認してから、そのまま、ふわりと宙に舞い降りた。
「ったく、無茶しすぎだって」
最初に飛び降りた本人が言えた事ではないが、恭弥はそう言わずにはいられなかった。
まさかあれだけ自分を拒絶した者の為に、自分まで飛び降りるなんてもっての他だ。
「……なん、で……宙に、浮いて……?」
心底理解ができないといった表情を浮かべ、しきりに目を瞬かせる凛。その様子がおかしくて、状況を他所に、恭弥は思わず笑みがこぼしてしまう。
「氷属性の魔法の応用ってやつだな。足の裏に小さな氷の板を作って、座標を固定することで足場にしてるんだ」
怒鳴り声や叫び声ではない。自分から出た声は、恭弥にとって自身でも驚くほどに穏やかなものだった。
「手、離したら駄目だぞ」
そう忠告してから凛を抱えて、階段のように宙を登っていく。
その最中で凛は、
「恭弥……これって……」
恭弥の胸元にある何かを両の手で包んでいた。
手を離すなって言った矢先に離している凛。呆れというか、なんというか。そのことに苦笑いをするしかない。
彼女の手の中に包んでいるもの。それは天月に捨てられる直前に貰った最後のプレゼント。細いチェーンに繋がれたロケットだった。
本来、服の内側にあるだろうそれは、おそらく落下している間に服の内側から滑り出てきてしまったのだろう。
凛の質問に答えることなく、恭弥は黙々と宙を登っていく。
凛の紅の瞳に映るのは、当然のごとく間近にいる恭弥の姿。
五年前とは違う白銀の色をした綺麗な髪。穏やかな光を宿した琥珀の瞳。なにより昔では考えられないほどに、逞しくなっていることに凛は自分でも分からない感情に駆られていた。
それはとても嬉しいようで悲しく、とても甘いようで苦いという支離滅裂な感情。それでも凛にとっては、それも大切な感情だということが言わずしても理解できていた。
答えを得られない黙考をしている内に、ようやく飛び降りた屋上の地面まで辿り着いた。
それから恭弥は丁寧に凛を地面に降り立たせる。すると途端に彼女はへなへな、と力が抜けたように座り込んでしまう。
焦って凛の身体を支える恭弥。凛は恭弥に向けて恥ずかしげにはにかんだ。
「あはは、ビックリして腰が抜けちゃった」
さっきまでの口調とは異なる口調。それは昔の記憶に残るものと同じで、恭弥は目の前にいるのが自分の姉だと再認識させられていた。
だからなのだろうか。恭弥は凛姉の目をまっすぐに見つめ、静かに切り出すことができた。
「このロケットのこと覚えてるか?」
「うん、覚えてるよ。私が恭弥にあげた最後のプレゼントだもん」
「……本当に皮肉な話だよな。大切な人からプレゼントを貰った日に、最悪の形で別れるなんて」
「ねぇ、恭弥。あの話は本当なの?」
あの話というのは、村雨六花から聞いたであろう『あの日』の真実。
本当のことは隠しきるつもりだった。だけど頭で考えるよりも先に、恭弥の口は勝手に真実を語っていた。
「改めて言うけどさ、オレは天月に捨てられたんだ。父親だったあの男に、天月に欠陥品はいらないってな」
「そんな……」
本人の口から五年前の真実を知り、驚愕が余すことなく表情に表れる。
それは真実に対する驚きなのだろうか?
それとも肉親に嘘をつかれていたことに対しての驚き?
いや、そんなことは今はどうでもよかった。
凛は自分が居なくなった真実の理由を知った。自分は散々彼女を傷付け、拒絶した。それらを踏まえて自分のことをどう想ってくれるのか。恭弥はそれを訊かずにはいられなかった。
「だからオレはもう凛姉の家族じゃいれない。側に居ることも出来ない。だったらオレは凛姉にとってなんなんだろうな……?」
恭弥に浮かぶ表情はさっきと同じ。今にも泣き出しそうな迷子の子供のように歪んでいる表情は、ひどく儚げで朧気だった。
無意識に凛は恭弥の手を取り、まっすぐと琥珀の瞳を覗いていた。
「天月なんて関係無い。恭弥は私の大切なたった一人の弟。私の大好きな弟だよ」
自分を想って紡がれた凛の優しい言葉。恭弥はそれが震えるほどに嬉しかった。
「……そっか。その言葉を聞けただけで十分だよ。ありがとな」
それでも自分は凛の弟ではいられない。きっと、それは互いに望まぬ結果になるはずだ。それが恭弥の考えだった。そのことを裏付けるように、さっきも傷付けたばかりである。
「……でもオレは凛姉をたくさん傷付けたんだ。もう、戻れないよ」
「それでも私は恭弥にいて欲しい。ずっと私の側にいて欲しい」
泣き声混じりに絞り出された凛の声。再度かけられる言葉はとても優しく温かい。孤独だった者が求めてきたものに他ならなかった。
固めていたはずの決意は、その言葉と共に次第に揺らぎ始めてしまう。そうならないように必死に否定の言葉を探す。
「……でもきっと望まない結果になる。オレは天月と関わる羽目になるし、凛姉は居場所を失うかもしれない」
恭弥は震えた声と共に辛うじて保っていた表情も、徐々に泣きそうな顔へと歪んでいく。
「それでも、だよ。恭弥は私がお姉ちゃんじゃ嫌かな?」
凛のその一言。そのたった一言で、遂に恭弥の決意は完全に崩れ去ってしまうことになる。
先に限界を迎えたのは恭弥だった。
頬に一筋だけ雫が伝う。もう込み上げるものを我慢することが出来なかったのだ。
伝えたいことが胸の中にはたくさんあった。掠れた声ながらも、恭弥は自分の想いを懸命に言葉にして伝えていく。
「……そんなわけ、ない、だろ。オレだって凛姉のこと大切だし大好きだ。だから……凛姉の弟でいたい」
これが外的要因によって圧し殺していた恭弥の本当の気持ち。それをどうにか伝えることが出来た。
凛の瞳からはとめどなく涙が溢れ、小さな泣き声をあげて恭弥に抱きつく。
「……ごめん、今までごめんな凛姉」
「……うん、いいよ。私のためでもあったんだから」
二人は互いが互いの温もりを感じられるように抱き寄せ合った。
一度ほどけかけた絆を再び、強く強く、二度とほどけてしまわないように結び直すように。
二人はお互いの涙が治まるまで抱き締めあっていたのだった。
次話からはこれまで通り、主人公視点に戻します




