最後の勝負をしよう
凛は走り出す。
現在位置は、保健室を出たところ。それは本校舎一階の突き当たりに位置している。だから屋上へと向かうにも、階段を多く登る必要がある。
全力での疾走。それは屋上までのこの階段を登るには重度の疲労をもたらすもの。
しかし、それも今では凛にとっては心地よく感じられた。あがる息もどこか弾んでいるのが自分でも分かってしまう。
あと少し。あと少しで屋上へと辿り着く。あと少しで恭弥に会える。そう思うだけで鼓動が早鐘を打っている。
そんな時、白衣の女性とぶつかった。
「なんや、慌ただしい……って、もう起きたんか。随分と早よ起きたな」
それは保健室の先生である月見里千鶴だった。
彼女が出てきたのは屋上の扉。無意識の内に凛は詰め寄っていた。
「恭弥はっ!? 恭弥は屋上にいるんですよね!?」
「ん? 確かに坊主ならおるで」
凛は当然すぐに駆け出す。
が、凛を掴んで止める手が一つ。
「止めときい。今の坊主は誰にも会いとうないはずやさかい」
千鶴による忠告。それは凛を止める理由にはならない。
今は何よりも会うことが最優先になっている。その程度の言葉で止まるはずもない。
「嫌です、放してください。私は恭弥に会わないといけないんですっ」
「坊主は今、独りで居りたい言うてんねん。何の関係もあらへん自分が会う必要がどこにあるんや」
強い語気での主張。細められた目は刃物を彷彿とさせる鋭さを秘めていた。
それでも、凛はそれに臆することもなく言い返す。
「私は恭弥の姉ですっ。何の関係もないわけじゃないっ!」
今度こそ千鶴の手を振り払い、扉へと向かう凛の瞳は確かな光を宿していた。
「ちょっと待ちい」
再び掴まれる手に凛は苛立つ。
二度目の力は一度目よりも強いものだったせいか、振り払おうにも振り払えなかった。
「自分がどうしても行こういうんなら、ウチはもう止めへん。せやから、せめて話だけでも聞いてけ」
「……何ですか?」
「前置きは要らんから単刀直入に言うで。あいつはな、傷付いとるんや。何度も、深く、壊れそうなほどに。奪われて、失って、絶望しとる。身も心もともにボロボロや」
まるで恭弥のことを知ったかのように語る千鶴を疑問に思いながらも、恭弥に関することという理由で凛は耳を傾け続ける。
「ほんまに無自覚なんやろなぁ。あいつ自身、自分の心が限界に近付いとるのに気づいとらん。だから逆に反発しようとして、無意味に自分の首を絞めとる。それがさっきよう分かったわ」
凛には千鶴が何を言っているのか理解が及ばない。
これが知りざる者と知らざる者の大きな違い。それを分かっていながら千鶴は続けた。
「さかい、あいつの姉を名乗るんなら、自分が助けたれ。あいつが昔みたく、心の底から笑えるようにしたれ」
それで話は終わりだとばかりに掴んでいた手を放し、階段を降りていく千鶴。
「あいつはしっかり掴んどかんと、すぐに目の前から居らんようになるで。今のあいつは自分の目的以外、何も見えとらんからな」
背中を見せたままそう言い、そのまま下階へと姿を消してしまった。
「なんだったの……?」
千鶴の言動に首を傾げつつも、ここへ来た本来の理由を思い出す。
「……恭弥に会わなくちゃ」
一歩、一歩、また一歩。屋上へと通する扉へと近付いていく。
この先に恭弥がいる。そう思うだけで胸が苦しくなってくる。
「……でもこの感じは嫌じゃない」
凛の頭の中には、千鶴との会話など朧気にか残っていなかった。
恭弥に会う。それが今の全てだ。凛は躊躇うことなく屋上に出た。
そこに広がる光景ははどこか幻想的であった。
一度目の来訪者が訪れたときのような眩しい日差しでなく、世界を染めるかのように萌ゆる赤い夕陽。
そこにひっそりと佇むのは、会うことを焦がれていた白銀の少年。彼は夕陽の赤い輝きを受け、キラキラと見惚れるような光を振り撒く。
静かに在る少年に浮かぶのは憂いの表情。過度な表現かもしれないが、その姿はさながら一枚の絵画のようだった。
「恭弥……」
ポツリとこぼれた呟き。その呟きは風が運び、恭弥へと来訪の報せを届けた。
それは幸か不幸か、恭弥の耳へと入る。
姉と弟の幾度目かの対峙。恭弥にとってこの出会いは望むことであり、同じくらい望まざるもの。
凛に向けられる視線、向けられる意識。
それらを自分に向けられた彼女は、その事に心踊らせてしまう。我慢なんてしていられない。
「恭弥っ」
遂には自制心さえ外れ、凛は恭弥のいるところ目掛けて走り出した。
だけども現実とは実に無情なものだ。恭弥の口をついて出たのは凛が予想だにしない一言であった。
「……はぁー、駄目だ。いくら心が弱ってるとはいえ、幻覚まで見るようになるなんて、オレも救いようがないな」
凛の声を恭弥へと運んだように、風は恭弥の声を凛に届ける。
それは自分自身を蔑むようで、自虐的で。見てるだけでこちらの心が沈みそうになる。
「……なんで……」
そのままこちらへと歩いてくる恭弥。その姿は幽鬼のように、ひどく儚く朧気で頼りない足取り。
恭弥はすれ違い様に言った。
「今の現状じゃあ、凛姉を完全に守ることはできない。オレなんかの側にいたら、あんたは今の居場所を失う。だから、あんたの居場所はここじゃない」
恭弥は自分に言い聞かせてるのか、はたまた凛に対して言っているのか。呪詛のように重い響きは、凛の胸の内へと突き刺さる。
だけど、恭弥は自分のことを『凛姉』と呼んでくれた。その呼び方は少なくともまだ心残りがあるということ。
それなら自分はもう絶対に恭弥を手放さない。それが凛の意思だった。
恭弥が完全に横を通りすぎようとした瞬間、凛は無気力に揺れるその手を掴んだ。
途端に恭弥はビクリと身体を竦ませる。振り向いたその顔は、今にも泣き出しそうな迷子の子供のように歪んでいた。
「恭弥」
ただ名前を呼ぶ。それだけで相手に伝わるものもある。声の響き、声の温もり、声の意味。それらが含む全てだ。
「凛、姉……?」
恭弥の口をついて出るのは驚愕を含む声音。
いつまでも消えない目の前の凛。しっかりと感じる手の感触。それらの情報を元に、恭弥の中で凛の声は幻覚などではないのだと断定される。
そこからの行動は迅速なものだった。
表情を鉄仮面のような無表情へ。掴まれた手は振り払い。凛とは数メートルの距離を取る。
それは凛の意識が気が付くよりも早くて。気が付いた時には恭弥は手の届かないところにいた。
伸ばせば手が届きそうなのに、決して届かない絶対の壁。これが今の恭弥と凛の心の距離。
想いは一緒のはずなのに遠い距離に、凛はもどかしさをもて余してしまう。
その様子で現実だと再認識した恭弥の最初の一言は「最低だな」であった。
「人の隠してることを暴く、拒絶されたらストーカー行為、満足できなかったら力ずく。その上にした約束まで破るのかよ?」
「ええ、そうよ。悪いかしら?」
最早、恭弥の言葉にも凛は怯むことはない。
それは全部嘘だと分かっているから、もう二度と怯むことはない。それが例えどんな言葉であろうとだ。
「仕舞いには開き直りか。ったく、なんで伝わんねぇかな。オレはお前が嫌いなんだ。目障りだから今すぐ消えろ」
恭弥の表情は蔑むようでいて、泣いている。
恭弥の声音は冷淡なようでいて、叫んでいる。
恭弥の身体は自然なようでいて、震えている。
少なくとも今の凛にはそう感じられた。
「本当のことを六花から全部聞いたわ。貴方の行動は私のためだったんだってね」
言葉とともに凛は歩を進める。恭弥との心の距離を縮めるように、一歩、また一歩と現実での距離を埋めていく。
「……何のことだ? 自惚れも大概にしてくれ。そんな戯れ言に付き合ってるほどオレは暇じゃない。とっとと失せろ」
「言葉って不思議ね。あれだけ辛かったものも、確信を持った今だと貴方の言葉が嘘って事が分かるんだもの」
凛と恭弥の距離は一向に縮まっていなかった。
凛が進めば、同じ分だけ恭弥が退く。近付けば、遠くなり、また近付けば、また遠くなりの繰り返しである。それでも凛の歩みは止まらない。
次第に逃げ場を失っていく恭弥。
遂には逃げ道すらなくなっていた。背にするのは落下防止の鉄柵。必然的に二人の距離は埋まっていく。
「ねぇ、恭弥。もう私は貴方に天月に戻ってきてなんて言葉は言わない。だけど、その代わりにこう言わせてもらうわ」
手を胸に当てて息を大きく吸い、はっきりとした口調で言葉を紡ぐ。
「私は何があろうと貴方の姉で、貴方は何があろうと私の弟よ」
高らかに告げられた凛の意思。
それを前に恭弥の瞳がわずかに揺れた。
今なら恭弥に手が届く。そう思った凛は彼のもとへと手を伸ばした。
しかし、それでも変わらず、姉の想いは弟へは届かない。恭弥は寸でその手をかわし、あまつさえ鉄柵の上に手をついて佇んでいた。
そこに浮かぶのは苦悩。大切な者への想い。それらは言葉となり姉へと紡がれる。
「自分の面倒事は自分で払い除けられる。だけど、そこに誰かが関わるなら話は別だ。オレは認めない。大切な人が幸せになれない結末なんて絶対に認めない。絶対に認められるわけがない」
そう言った恭弥は立ち上がる。
もちろん、恭弥は鉄柵の上にいるままだ。
一歩間違えばそこから転落し、死へと導かれる立ち位置。それにも関わらず、本人は平然としていた。
「……最後の勝負をしようか。方式はドームと同じタートルブレイク。攻守はさっきと同じ。リミットは一階に着くまで。二度もルール説明はしないからな」
告げられたのは最後の勝負。
この情況での恭弥の提案に、凛は嫌な予感を感じていることを隠しきれなかった。
それを見つめる恭弥は儚げな笑みをもらす。
「……さぁ、始めようか」
恭弥の瞳はとても穏やかだった。まるでこれが本当に最後だと言うように。
「待ちなさいっ!」
制止を呼び掛ける凛の声がこだまする。
それよりも早く。
――――わずかに恭弥の身体は後ろに傾いていた。




