九話 八岐大蛇なんぞ俺が退治してやる!
夜の帳が下りた頃、八岐大蛇の砦では盛大な宴が催されていた。
広間には幾つもの篝火が焚かれ、中央には大量の料理と酒が並べられている。
上座を占める八人の頭目たちは、筑紫から運ばれてきた珍しい酒を次々と飲み干し、すっかり上機嫌になっていた。周囲に控える配下たちも酒を振る舞われ、広間には笑い声が絶えなかった。
「この酒はうまいぞ! 今まで飲んだものとはまるで違うではないか!」
「山門の酒は一級品ですぞ。皆様のお口に合いましたようで、何よりでございます」
宴に招かれていた須佐之男は、普段の豪放な振る舞いを抑え、筑紫からの使者として丁重に応じていた。頭目たちはその態度を気に入ったらしく、遠慮なく杯を重ねている。
「おい、もっと持ってこい! まだ酒はあるのだろう!」
「もちろんでございます。存分にお楽しみください」
頭目たちがすっかり酒に酔い、宴が最高潮に達した頃、須佐之男は頃合いを見計らって声をかけた。
「皆様、酒と料理だけでは少々物足りないのではございませんか。よろしければ、筑紫より連れてまいりました巫女に舞を披露させたいのですが、いかがでしょう?」
「おお、舞とな!」
「それは悪くない。よいぞ、披露させよ!」
「筑紫の巫女か。さぞ美しいのであろうな!」
頭目たちが口々に賛同すると、須佐之男は軽く頭を下げ、後方に向かって手を叩いた。
その合図を受けて、広間の奥から二人の巫女が姿を現した。
先頭を歩くのは巫女装束に身を包んだ伊邪那岐、その後ろに続くのは櫛名である。那岐は長く艶やかな髪を整え、白と朱の衣を優雅にまとっていた。
元来、中性的で美しい容貌を持つ那岐だけに、その姿を見て男性だと気づく者はまずいないだろう。
櫛名も巫女装束をまとっていたが、広間の途中で足を止め、その場に静かに控えた。那岐だけが頭目たちの前へ進み出ると、衣の裾を整え、優雅な所作で深く礼をする。
それまで騒がしかった広間が、次第に静まり返っていった。
しゃらーん。
澄んだ木鈴の音が響き、那岐の舞が始まった。
小さな歩幅ですり足のように進み、重心を低く保ちながら、ゆったりと身体を巡らせる。
腕を広げ、袖を流れるように動かす仕草には無駄がなく、一つ一つの動きが次の所作へ自然につながっていく。
しゃらーん。
再び木鈴が鳴り響くと、那岐の周囲に銀色の粉を思わせる無数の光が現れた。
それは篝火に照らされた埃などではなかった。
淡い光を帯びた粒子が那岐の動きに合わせて舞い上がり、ゆるやかな渦を描きながら広間いっぱいに広がっていく。
時には袖の軌跡を追うように流れ、時には降り注ぐ星のように頭目たちの頭上へと舞い落ちた。
もちろん、那岐が妖術によって生み出した光である。
しかし、その場にいた者たちに知る由もない。
「おお……なんと美しい……」
「これは……人の舞なのか?」
酒に酔っていた頭目たちも、目の前に広がる幻想的な光景に見入っていた。
銀色の粒子は頭目たちの衣や身体にも静かに降りかかっていたが、誰一人として気に留める者はいない。
那岐は表情を変えることなく舞を続けた。木鈴の音に合わせて身体を巡らせ、流れるように袖を翻すたび、銀色の光が幾重にも重なり、広間を幻想的な空間へと変えていく。
頭目たちはすっかり魅了され、杯を持つ手さえ止めていた。
だが、そのうちの一人、ひときわ深酒をしていた頭目が、ふらつく足取りで立ち上がった。
「おいおい……よく見れば、なかなかいい女ではないか」
男は下卑た笑みを浮かべながら那岐へ歩み寄ると、舞の最中にもかかわらず、その手を無遠慮につかんだ。
「もう舞などよい。こっちへ来て俺の相手をせい」
那岐の動きが止まり、木鈴の音が途絶えた。
それまで美しく舞っていた銀色の光だけが、ゆっくりと宙を漂っている。
男は那岐の手を引き寄せながら、その顔を間近でのぞき込んだ。
「んー、顔も悪くな……うぐっ……!」
言葉は最後まで続かなかった。
那岐が衣の内に隠していた短刀を抜き放ち、一瞬のうちに男の急所へ深々と突き立てたのである。
あまりにも素早い動きだった。
男は何が起きたのか理解する間もなく目を見開き、口をわずかに動かしたものの、言葉を発することはできなかった。
那岐が短刀を引き抜くと、その身体は力を失い、音を立てて床へ崩れ落ちた。
「須佐之男、今だ!」
那岐の声が宴の広間に響き渡った。その声を待ちわびていた須佐之男は、傍らに置いていた巨大な鉄の金棒を軽々と担ぎ上げ、満面の笑みを浮かべながら前へ踏み出した。
「待ち遠しかったぜ! いくぞぉ!」
その姿を見た那岐は、すぐさま櫛名の手を取って後方へ退いた。
須佐之男が振り回す金棒は七尺もの長さがあり、その怪力によって生み出される破壊力は凄まじい。
下手に近づけば、味方であっても巻き添えになりかねなかった。
「櫛名、ここから動かないでね」
「はい。でも、須佐之男様お一人で大丈夫かしら?」
櫛名は心配そうに須佐之男の背中を見つめた。
いかに強いとはいえ、相手は出雲を支配してきた八人の頭目たちである。しかも周囲には大勢の配下が控えていた。
「大丈夫だよ。あの金棒があるからね。むしろ近くにいると邪魔になってしまうんだ」
那岐は落ち着いた声で答えた。櫛名には信じがたい話だったが、那岐の表情には少しの不安も見られなかった。
一方、宴の広間では突然の出来事に頭目たちが困惑していた。
「なんだ? 何が起きた!」
「何事だ! 誰か説明せい!」
酒に酔い、目の前で仲間が倒されたことさえ理解できず、怒鳴り散らすばかりであった。その混乱を見逃す須佐之男ではない。
「おらぁぁぁぁーーー!」
須佐之男が雄叫びとともに金棒を横薙ぎに振り抜いた。
凄まじい風圧が広間を駆け抜け、次の瞬間、金棒の軌道上にいた四人の頭目がまとめて吹き飛ばされた。
人体が受け止められるような衝撃ではなく、四人は壁や柱に叩きつけられ、二度と立ち上がることはなかった。
たった一振り。
出雲を恐怖によって支配してきた頭目たちが、何の抵抗もできずに倒されたのである。
「だ、騙したなぁぁーーー!」
生き残った頭目の一人が怒りに顔を歪め、腰の鉄剣を抜いて須佐之男に襲いかかった。
だが、振り下ろされた剣を須佐之男が金棒で受け止めると、甲高い音とともに刀身が折れ飛んだ。
「なっ……!」
男は手元に残った剣を見つめ、信じられないという顔をした。
「そんな細っこいもんで俺と勝負になるかよ!」
須佐之男は笑い飛ばすと、金棒を頭上に持ち上げ、そのまま勢いよく振り下ろした。頭目は避ける間もなく一撃を受け、床に倒れ伏した。
あまりにも一方的な光景を目の当たりにした別の頭目は、もはや戦う気力を失っていた。仲間の死体を飛び越え、広間の出口へ向かって走り出す。
しかし、もう一人の頭目は逃げることを選ばなかった。須佐之男から距離を取り、傍らにあった弓を掴むと、素早く矢を番えて放った。
矢は須佐之男の胸を正確に捉えた。
だが、刺さらなかった。
須佐之男の全身を覆っていた妖気が矢の勢いを受け止め、硬いものに弾かれたように床へ落ちたのである。
「ば、馬鹿な……!」
男が次の矢を番えようとした時には、すでに須佐之男が目の前まで迫っていた。
「悪いが、その程度の攻撃は俺には通用しないんだわ!」
須佐之男は金棒を正面へ突き出した。巨大な鉄の塊が頭目の胴を捉え、そのまま後方へ吹き飛ばす。男は広間の壁に激突し、動かなくなった。
それきり、広間は静まり返った。
先ほどまで酒を飲み、笑い声を上げていた頭目たちは、もはや一人も立っていなかった。
那岐は倒れた頭目たちを見渡し、指折り数えた。
「五、六、七……一人、取り逃がしてしまったね」
最初に自分が仕留めた一人を含めて七人。残る一人は混乱に乗じて姿を消していた。
「追うか?」
須佐之男は金棒を肩に担ぎ直し、出口へ目を向けた。今から追いかけても十分に間に合うだろう。
しかし、那岐は首を横に振った。
「いや、今はほかにすることがあるんだ。逃げた者には舞の時に銀の粉を付けておいたからね。後からでも追えるよ」
先ほど巫女舞とともに広間へ散らした銀色の光は、単なる余興ではなかった。
那岐の妖術によって生み出されたものであり、身体に付着した者の居場所を探ることができる。宴に夢中だった頭目たちは、誰一人としてその仕掛けに気づかなかったのである。
「今することって、何でしょう?」
櫛名が尋ねると、那岐は広間の外へ視線を向けた。
「周りにはまだ賊が大勢いるだろう。あの者たちに降伏を勧告しなきゃ」
頭目たちを倒したとはいえ、砦には多数の配下が残されていた。彼らを放置すれば、逃亡して別の土地で略奪を始めるかもしれない。かといって、一人残らず討ち取る必要もなかった。
須佐之男は那岐の意図を理解すると、大きく息を吸い込み、広間の外まで響き渡る声を張り上げた。
「聞けぇぇぇーーー! 八岐大蛇の頭目どもは倒したぞ! まだ俺に刃向かう奴はいるかぁ!」
その大音声に、砦中の者たちが一斉に振り向いた。
駆けつけた配下たちは、倒れ伏した頭目たちの姿を見て立ち尽くした。自分たちが恐れてきた支配者が、目の前の大男一人によって打ち倒されたのである。
須佐之男は金棒を床に突き立て、彼らを見渡した。
「降伏する者は許す! 武器を捨てて俺の配下になるがいい!」
配下たちは互いに顔を見合わせた。目の前にいる男の強さは、すでに十分すぎるほど見せつけられている。しかも、逆らわなければ命を助けるというのだ。
やがて一人が剣を床に置いた。それを見た別の者も武器を捨て、さらに周囲の者たちが次々と従った。ほどなくして砦に残っていた者たちは戦意を失い、須佐之男に従う意思を示したのである。
その光景を眺めていた那岐は、少し感心したように息子へ声をかけた。
「思い切ったね。まさか配下にするなんて……」
「どうせ次は山にある砦の攻略だろ? だったら兵は多い方がいいじゃねぇか。こいつらだって山の砦のことを知ってるはずだ」
須佐之男は当然のことのように答えた。
那岐はその言葉に頷いた。確かに、砦の構造や敵兵の数、物資の蓄えなどを知る者が味方になれば、次の攻略はずっと容易になる。
それに、降伏した者を受け入れれば、それ以上の無用な殺し合いを避けることもできる。
「そうだね。これで残り一つだ」
「本当に八岐大蛇を退治できそうだわ……嘘みたい」
櫛名は周囲を見渡しながら呟いた。
幼い頃から出雲を苦しめてきた八岐大蛇。その名を聞くだけで人々が震え上がり、誰も逆らうことなど考えられなかった支配者たちが、今や目の前で倒されている。
須佐之男に出会った時、櫛名は八岐大蛇を退治することを婚姻の条件にした。達成などできるはずがないと思っていたその難題が、本当に実現しようとしているのである。
そんな櫛名の心情など知る由もなく、須佐之男は得意げに胸を張った。
「軽いもんよ!」
その自信満々な姿に、那岐は思わず苦笑した。
「まだ終わってないんだから、油断しちゃ駄目だよー」




