十話 出雲を俺が平定してやる!
八岐大蛇の八人の頭目のうち、ただ一人逃げ延びた男は、山中に築かれた砦へと駆け込んでいた。
男は砦に残されていた配下を呼び集め、守りを固めるよう命じた。
港を失い、鉄の鍛冶場に隣接する砦まで奪われた今、この山の砦が最後の拠点である。ここまで失えば、長年にわたって出雲を支配してきた八岐大蛇の勢力は完全に崩壊する。
「見張りを増やせ! 門を閉ざし、誰も近づけるな! 残っている兵をすべて集めるのだ!」
男は声を荒らげながら指示を飛ばしたものの、その顔には焦りが浮かんでいた。
仲間の七人が、たった一人の大男によって次々と倒された光景が頭から離れない。
鉄の剣も弓矢も通じず、巨大な金棒を振り回しては人間を軽々と吹き飛ばす。あんな化け物を相手に、まともに戦って勝てるはずがなかった。
だが、男にはまだ切り札があった。
砦の奥にある洞窟には、配下の者ですら近づくことを恐れる存在が閉じ込められている。
これまで反抗する者を脅すために利用してきたものだが、あれを解き放てば、どれほど強い相手であっても無事では済むまい。
男は洞窟のある方角へ目を向けた。
「……いざとなれば、あれを使うしかない」
その頃、那岐と須佐之男は、山の砦へ向かう準備を進めていた。
逃げた頭目の行方については、那岐に不安はなかった。
宴の席で巫女舞を披露した際、銀色の粉のような妖気を周囲に散らし、八人の頭目たちに付着させていたからである。
その妖気は那岐自身のものだったため、離れた場所にいても位置を感じ取ることができた。
「どうだ、父上。逃げた奴は見つかったか?」
「うん。山の方にいるね。どうやら最後の砦に逃げ込んだようだよ」
「よし、ならさっさと攻め込もうぜ!」
「まあまあ、慌てなくても大丈夫だよ。相手は逃げる場所を失っているんだから、こちらは落ち着いて進めればいいんだ」
須佐之男は金棒を肩に担ぎながら、不満そうに鼻を鳴らした。
一方、八岐大蛇の頭目たちが討たれたという知らせは、周辺の村々に急速に広まっていた。
長年、略奪や娘攫いに苦しめられてきた民にとって、その知らせは信じられないものだった。
最初は誰もが半信半疑だったものの、港や鍛冶場が解放されたことを知ると、次第に希望を抱く者が増えていった。
そして、これまで恐怖に押さえつけられていた村の男たちが、槍や弓を手に須佐之男のもとへ集まり始めた。
「俺たちも戦わせてくれ!」
「八岐大蛇を倒せるなら、俺たちも力になりたい!」
「もう奴らに怯えて暮らすのは嫌なんだ!」
集まる人々の数は日を追うごとに増え、やがて一つの軍勢と呼べるほどになっていた。
その中には、出雲の大名持である天之冬衣の姿もあった。自ら兵を率いて加勢に来たのである。
「須佐之男殿、儂も兵を連れて参った。出雲の大名持として、最後まで賊の討伐に加わらねばなるまい」
「おう、来てくれたのか。助かるぜ!」
須佐之男が歓迎すると、那岐も穏やかな笑みを浮かべて冬衣に向き直った。
「天之冬衣殿は、兵を率いて砦を包囲していただけると助かります。敵を逃がさないようにしたいんだ」
「承知した。山道は我らも知っておる。逃げ道を塞ぐのは任せてもらおう」
冬衣はその場で配下に指示を出し、山道を押さえるために兵を分けた。
那岐は櫛名や村人たちとも相談しながら、砦へ通じる道を一つずつ確認していった。
敵を追い詰めることが目的ではあったが、逃げ場を失った者が周辺の村に押し寄せる事態も避けなければならない。
やがて山の砦は、須佐之男たちの軍勢によって包囲された。
那岐はすぐに攻撃を仕掛けることはせず、まず砦の中に向けて投降を呼びかけた。
「もう逃げ道はありません。武器を捨てて降伏するなら、命までは奪いません。どうか無駄な争いはやめてください!」
しかし、砦から返答はなかった。
しばらく待っても門が開かれる気配はなく、見張りの兵たちは防備を固めたまま動こうとしない。
那岐は小さく息を吐いた。
「……仕方ないね。これ以上待っても変わらないようだ」
「やっと俺の出番か!」
須佐之男は待ちくたびれたように金棒を持ち直した。
「須佐之男、門を破ってくれるかい? ただし、降伏する者まで討たないようにね」
「わかってるって! 任せろ!」
須佐之男は砦の正門に向かって走り出した。
見張りの兵がその姿に気づき、慌てて弓を構えた。次々と矢が放たれたものの、妖気を全身に纏った須佐之男にはまるで通用しない。
「そんなもんで俺を止められると思うなよ!」
そのまま門の前まで迫ると、須佐之男は七尺もの鉄の金棒を大きく振り上げた。
「おらぁぁぁーーー!」
凄まじい衝撃音とともに門が砕け、支えていた太い木材まで折れ飛んだ。
砦の兵たちは何が起きたのかわからず、呆然とその光景を見つめていた。
「どんなもんだぁーーー!」
須佐之男は豪快に笑いながら、砕けた門を踏み越えて砦の中へと進んでいった。
その後方から那岐たちも続き、砦の中へと兵を進める。
最後の拠点を守ろうとした賊たちも抵抗したが、須佐之男の圧倒的な力を前に次々と武器を捨て始めた。
「くそっ、なんて奴だ……!」
その様子を見ていた最後の頭目は、顔を歪めながら後ずさりした。
頼りにしていた砦の門は一撃で破壊され、兵も次々と降伏している。このままでは、自分も仲間の七人と同じ末路を迎えることになる。
「……もう、あれを使うしかない!」
男は砦の奥へと走り、巨大な洞窟の入り口に設けられた門へ向かった。
そこには分厚い木材を幾重にも組み合わせた扉があり、普段は誰も近づかないよう厳重に閉ざされていた。
男は門を開くよう命じたが、配下の者たちは恐怖のあまり動こうとしない。
「何をしておる! 早く開けろ!」
「し、しかし、あれを外へ出したら……」
「構わん! あの化け物を食い殺してしまえばよいのだ!」
男が怒鳴りつけると、配下の者たちは震える手で門を開き始めた。
重い扉が少しずつ開かれるにつれ、洞窟の奥から生暖かい風が吹き出してきた。
やがて、その風は肌を焼くほどの熱気へと変わり、洞窟の暗闇の中で赤い炎のようなものが揺らめき始めた。
異様な気配に気づいた那岐は、足を止めて奥を見つめた。
「……なんだろう、あの炎は」
「父上、どうした?」
「何かいるよ。かなり大きな……」
その言葉が終わるより早く、洞窟の奥から低い唸り声が響いてきた。
地面がかすかに震え、巨大なものが這いずるような音が近づいてくる。
やがて暗闇の中から現れたのは、太い胴体から幾つもの首が伸びる、見たこともない巨大な大蛇だった。
一つ、二つ、三つ。次々と現れる頭を数えていくと、その数は八つにも達した。
さらに後方には八本の巨大な尾が伸び、岩や木々を押しのけながら蠢いている。
「すげぇ……マジでいやがったのかよ……」
さすがの須佐之男も、その姿には驚きを隠せなかった。
噂に聞いていた八つの頭と八つの尾を持つ大蛇が、本当に目の前に現れたのである。
「須佐之男、油断しないように!」
那岐は声を張り上げながら、すぐに周囲の様子を確かめた。
大蛇の巨体は砦の中を埋め尽くすほどであり、あのまま暴れ出せば味方の兵にも大きな被害が出る。
「まさか……あれが八岐大蛇だというのか!」
冬衣も驚愕し、しばらく言葉を失っていたが、すぐに兵たちへ向かって叫んだ。
「一旦引けー! 退避するんだ! 巻き込まれるぞ!」
兵たちは慌てて距離を取り始めた。
那岐も傍にいた櫛名を抱きかかえると、大蛇の間合いから離れるために一気に後方へ跳んだ。
「きゃっ!」
櫛名が思わず声を上げた直後、先ほどまで立っていた場所を巨大な尾が薙ぎ払っていった。
「危なかったね。櫛名、怪我はないかい?」
「は、はい……ありがとうございます。でも、噂は本当でしたのね……」
櫛名は震える声で答えながら、巨大な大蛇と向かい合っている須佐之男を見つめた。
「須佐之男様……」
「大丈夫だよ。須佐之男は強いからね。私も援護してくる」
那岐は櫛名を安全な場所に降ろし、安心させるように微笑んだ。
「櫛名はここにいてね。危ないから、絶対に近づかないように」
「はい……ご武運を」
櫛名が頷くのを確認すると、那岐は剣を抜いて須佐之男のもとへ駆けていった。
その頃、須佐之男は全身から凄まじい妖気を放っていた。
相手がどれほど巨大な化け物であろうと、自分の力が通じないとは思っていない。
「面白ぇ! 相手が大蛇だろうが、俺の金棒で叩き潰してやるぜ!」
須佐之男は地面を蹴って一気に間合いを詰めると、全身の力を込めて金棒を振り抜いた。
金棒は大蛇の胴体にまともに叩き込まれ、鈍い衝撃音が砦の中に響き渡った。
普通の人間ならば、跡形もなく吹き飛んでいるほどの一撃だった。
ところが、大蛇はわずかに身を揺らしただけで、倒れるどころか怯む様子すら見せなかった。
「なっ……!」
須佐之男が驚いた瞬間、八つの頭が一斉に動き出した。
巨大な口が次々と開かれ、鋭い牙を剥き出しにしながら須佐之男へ食らいつこうとする。
「うおっ!」
須佐之男はすぐさま後方へ跳び、大蛇の攻撃を回避した。
直後、八つの頭が地面を叩き、土砂や砕けた岩が周囲に飛び散った。
「須佐之男、大丈夫かい!」
駆けつけた那岐が声をかけると、須佐之男は金棒を構え直しながら頷いた。
「おう! だが、こいつはとんでもねぇぞ!」
「どう? 効果はありそう?」
「それが胴体に直撃かましたのに、全然怯まねぇんだ。こんなこと初めてだぜ!」
須佐之男は興奮した様子で答えたものの、その表情にはわずかな戸惑いが浮かんでいた。
自分の力が通じない相手など、これまでほとんど経験したことがなかったからである。
那岐は大蛇の動きを観察しながら、しばらく考え込んだ。
巨大な胴体は分厚い鱗に覆われ、金棒の一撃を受けても致命傷には至っていない。それならば、もっと弱い部分を狙う必要がある。
「……頭を直接狙ってみるか」
「頭だと? 八つもあるぞ。全部か?」
「そう、全部だよ。たぶん、それで終わるはず」
「簡単に言ってくれるぜ!」
須佐之男は笑いながら金棒を担ぎ直した。
二人が話している間にも、大蛇は巨体をくねらせながら距離を詰めていた。
八つの頭が互いに異なる動きを見せ、左右から那岐たちを取り囲もうとする。
「来るよ!」
那岐の声に合わせて、須佐之男は大きく横へ跳んだ。
那岐も迫ってくる頭の動きを見極め、身をわずかに捻って牙をかわした。
そのまま大蛇の首元へ踏み込むと、手にした剣を一つの頭の目に突き立てる。
耳をつんざくような叫び声が響き、大蛇の頭が激しくのけ反った。
「今だ、須佐之男!」
「おうよ!」
須佐之男は高く跳び上がると、妖気を纏わせた金棒を大きく振り下ろした。
「どりゃぁぁーーー!」
凄まじい一撃が大蛇の頭に叩き込まれ、その頭は原形をとどめないほどに潰れた。
「よし、一つ!」
しかし、残された七つの頭は動きを止めなかった。
それどころか、仲間の頭を失った怒りからか、先ほどよりも激しく暴れ始めた。
「次が来るよ!」
「わかってる!」
今度は別の頭が真正面から襲い掛かってきた。
須佐之男は金棒を横に構えると、巨大な口を開いて迫る頭を正面から受け止めた。
鋭い牙が鉄の金棒に食い込み、大蛇はそのまま須佐之男を押し潰そうと力を込める。
だが、須佐之男も負けてはいなかった。
両足を踏ん張り、妖気を全身に巡らせて大蛇の力を受け止める。
「おおおおおっ!」
地面が足元から崩れ始めたものの、須佐之男は一歩も退かなかった。
やがて大蛇の勢いが止まった瞬間、須佐之男は不敵に笑った。
「止まったな。そりゃぁ!」
金棒を勢いよく振り上げ、大蛇の頭を跳ね上げる。
そして、その頭が落ちてくるところへ再び金棒を振り下ろした。
二つ目の頭が砕け、巨大な首が地面に崩れ落ちた。
「二つ目だ!」
その頃、那岐も別の頭と向かい合っていた。
大蛇の動きをかわしながら剣を使って牽制していたが、相手の力が強すぎるため、容易には近づけない。
それでも那岐は、須佐之男が攻撃しやすいように頭の動きを抑えようとしていた。
「須佐之男、こっちもお願い!」
那岐は大蛇の牙を剣で受け止め、わずかな時間だけ動きを止めた。
しかし、大蛇がさらに力を込めた瞬間、剣から嫌な音が響いた。
「……しまった!」
次の瞬間、那岐の剣は根元から折れてしまった。
支えを失った大蛇の頭が、そのまま那岐へと迫る。
「父上!」
須佐之男はすぐさま方向を変え、巨大な金棒を横から叩き込んだ。
「任せろ! どりゃぁーーー!」
那岐に食らいつこうとしていた頭は、金棒の一撃によって横から押し潰され、そのまま地面に崩れ落ちた。
「三つ目だ!」
「助かったよ、須佐之男」
「おう! 父上も気をつけろよ!」
那岐は折れた剣を見つめながら苦笑した。
「まったく、普通の剣じゃ長く持たないね……」
須佐之男は得意そうに金棒を持ち上げた。
「だから俺みたいに丈夫な武器を使えばいいんだって!」
「そんなもの、私には重すぎて振り回せないよ」
「ははは! そりゃそうだ!」
二人が言葉を交わしている間にも、大蛇の残された五つの頭は不気味な動きを始めていた。
それまで別々に動いていた頭が、まるで何かを相談するかのように一か所へ集まり始めたのである。
五つの巨大な口が同じ方向を向き、その奥には赤い光が見え隠れしていた。
那岐はその様子を見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……まずい!」
須佐之男の前へ飛び出すと、両手を広げて妖気を集中させた。
「父上、どうした?」
「体を小さくして、前に注意して! 来るよ!」
那岐の全身から膨大な妖気が放たれ、二人の前に半透明の防御幕が広がっていく。
その直後だった。
五つの頭が一斉に口を大きく開き、凄まじい炎を吐き出したのである。
轟音とともに放たれた炎は、那岐たちのいる場所へ一直線に押し寄せた。
周囲の草木は瞬く間に燃え上がり、地面すら焼かれていく。
那岐は歯を食いしばりながら、防御幕へ妖気を注ぎ続けた。
炎が防御幕に激突すると、凄まじい衝撃が両腕に伝わってきた。
「くっ……!」
那岐は足を踏ん張り、必死に防御幕を維持した。
普段ならば使うことのないほどの妖気を一度に消費している。それでも、少しでも力を緩めれば、二人とも炎に呑み込まれてしまう。
「父上!」
背後から須佐之男の声が聞こえた。
「大丈夫……まだ耐えられるよ!」
那岐は炎を受け止めながら答えた。
須佐之男はその光景を驚きながら見つめていた。
自分も妖気を纏うことはできる。だが、那岐のように妖気を自在に広げ、巨大な防御幕として維持することはできなかった。
「流石だぜ、父上!」
「感心している場合じゃないよ……ちゃんと妖気の鍛錬を積んでいたら、須佐之男だってできるんだからね!」
「そうなのか?」
「そうだよ! いつも力任せに使ってばかりいるから、こういうことが苦手なんだよ!」
須佐之男は生まれながらに強大な妖力を持っていた。
その力は他の誰よりも優れており、妖気を纏うことも、圧倒的な破壊力を発揮することも、ほとんど感覚だけでこなしてしまう。
だからこそ、妖気を細かく制御する鍛錬を十分に積んでこなかった。
一方、那岐は長い年月をかけて妖気の扱いを学び、さまざまな妖術を身につけていた。
純粋な妖力では須佐之男に及ばなくとも、技術と制御においては那岐の方が遥かに優れていたのである。
「わりー! 生きて帰れたら教えてくれ!」
その言葉を聞いた那岐は、思わず声を張り上げた。
「何を言っているの! 生きて帰るに決まっているじゃない!」
防御幕に叩きつけられる炎は、まだ勢いを失っていなかった。
那岐は両腕を震わせながらも、どうにか防ぎ続けた。
やがて、五つの口から放たれていた炎が少しずつ弱まり始めた。
大蛇もこれほどの炎を放ち続けることはできないらしい。次第に勢いが衰え、ついには炎が途切れた。
その直後、大蛇の動きが鈍くなった。
那岐はその変化を見逃さなかった。
「須佐之男! 今だ、跳んで仕留めなさい!」
「おうよ!」
須佐之男は地面を強く蹴り、一気に大蛇へと飛びかかった。
那岐は防御幕を消すと、その場に膝をついた。
膨大な妖気を一度に消費した反動で、身体に力が入らない。
「……ああ、ちょっと使いすぎたかな」
那岐は苦笑しながら、しばらくその場で動けずにいた。
その間にも、須佐之男は残された五つの頭へと迫っていた。
炎を吐き尽くした大蛇は明らかに動きが鈍くなっており、先ほどまでのような素早い攻撃ができなくなっていた。
須佐之男はその隙を逃さず、金棒を大きく振り回した。
「四つ!」
四つ目の頭が砕け散った。
「五つ!」
続いて五つ目の頭が地面に崩れ落ちる。
大蛇は必死に抵抗しようとしたが、須佐之男は休むことなく攻撃を続けた。
「六つ!」
残された頭は二つ。
須佐之男は大きく跳び上がると、頭上から金棒を振り下ろした。
「七つ! これで最後だぁ!」
七つ目の頭が潰れ、残るは一つとなった。
最後の頭は、もはや逃げることもできず、迫ってくる須佐之男に向かって大きな口を開いた。
鋭い牙が並ぶ口が、須佐之男の身体を丸ごと呑み込もうとする。
「まだやる気かよ!」
須佐之男は金棒を横に構え、迫ってくる大蛇の口へ押し込んだ。
大蛇はその金棒に噛みつき、牙を立てて噛み砕こうとした。
ところが、鉄だけで作られた巨大な金棒はびくともしない。
それどころか、須佐之男が金棒を握ったまま力を込めると、あまりの重さに大蛇の頭が徐々に下がり始めた。
「どうした! 持ち上がらねぇのか!」
須佐之男は金棒をさらに押し下げ、大蛇の頭を地面へ叩きつけた。
そして、口から金棒を引き抜くと、そのまま全身の力を込めて振り上げた。
「これで終わりだぁぁぁーーー!」
金棒が最後の頭へ叩き込まれた。
凄まじい衝撃とともに大蛇の頭は砕け、その巨体がゆっくりと崩れ落ちていく。
八つの頭をすべて失った大蛇は、しばらく身体を痙攣させていたものの、やがて完全に動かなくなった。
須佐之男は金棒を肩に担ぎ、大きく息を吐いた。
「ふう……ようやく終わったぜ!」
周囲には焼け焦げた木々と砕かれた岩が散乱し、先ほどまで巨大な大蛇が暴れていたとは思えないほど、静まり返っていた。
遠くから戦いを見守っていた兵たちも、何が起きたのか理解するまでしばらく時間がかかった。
やがて一人が声を上げた。
「た、倒したぞ……!」
その声をきっかけに、周囲から歓声が湧き上がった。
「八岐大蛇を倒した!」
「本当に倒してしまったぞ!」
「須佐之男様が勝ったんだ!」
冬衣も呆然とした表情で大蛇の亡骸を見つめていた。
長年、噂だけで人々を震え上がらせていた怪物が、目の前で討ち取られたのである。
一方、那岐はようやく身体が動くようになっていた。
ゆっくりと立ち上がったものの、すぐに須佐之男へ近づこうとはせず、しばらく大蛇の様子を観察していた。
八つの頭は確かに潰されている。しかし、これほどの怪物が本当に死んだのか、那岐には確信が持てなかった。
「……念のため、確かめておいた方がいいね」
那岐は周囲に落ちていた剣を二本拾い上げ、そのうち一本を須佐之男に向かって投げた。
「須佐之男、受け取って!」
「おっと!」
須佐之男は飛んできた剣を受け取ると、不思議そうに那岐を見た。
「なんだ父上。もう終わったぞ?」
「うん。でも、念のために剣で全部の首と尾を斬り落としておきましょう」
「こいつ、復活でもするのか?」
「それはわからないよ。ただ、こんな生き物は私も初めて見たからね。念のために身体を分断して、最後は燃やしてしまおう」
須佐之男は大蛇の巨体を見下ろしながら、納得したように頷いた。
「なるほどな。万が一ってことか」
「そういうこと。もう一度暴れ出されたら困るからね」
「わかったぜ!」
二人は手分けして、大蛇の八つの首と八本の尾を斬り離していった。
巨大な鱗に覆われた身体は非常に頑丈だったものの、すでに動かなくなっているため、慎重に刃を入れていけば切断することはできた。
やがて、最後の尾を斬り離そうとした時だった。
須佐之男が何かに気づき、手を止めた。
「ん? 父上、ちょっと来てくれ!」
「どうしたの?」
「こいつの身体から何か出てきたぞ」
須佐之男が指さした場所には、血と肉の間から金属らしいものが突き出していた。
近づいて確かめると、それは剣の一部のようだった。
「……剣、かな?」
那岐が首を傾げると、須佐之男は興味深そうにその金属を掴んだ。
「ちょっと待ってろ。引っ張り出してみる」
須佐之男が力を込めると、肉の奥に埋もれていたものが少しずつ姿を現した。
それは一本の剣だった。
長い年月を経ているはずなのに、刃には不思議な輝きが残されている。
須佐之男は剣を手に取り、しげしげと眺めた。
「へえ……なかなか立派な剣じゃねぇか」
那岐も傍らから覗き込んだ。
「本当だね。それにしても、どうして大蛇の身体の中に剣があるんだろう?」
「さあな。こいつが飲み込んだんじゃねぇか?」
「そうかもしれないね……」
那岐にも、その剣がどこから来たのかはわからなかった。
ただ、普通の剣とはどこか異なる、不思議な雰囲気を感じさせるものだった。
須佐之男は嬉しそうに剣を持ち上げた。
「なんにせよ、これは戦利品だぜ!」
「ふふ、そうだね。せっかくだから大切にするといいよ」
須佐之男は満足そうに頷くと、剣を腰に差した。
その時、那岐は視界の端で何かが動いたことに気づいた。
少し離れた場所で、一人の男が身を低くしながら、静かに立ち去ろうとしていたのである。
男は、大蛇を解き放った最後の頭目だった。
須佐之男と那岐が怪物との戦いに集中している間、男はその光景を隠れて見ていたのだ。
頼みの切り札を失い、逃げる以外に生き延びる方法がないと悟ったのだろう。
那岐は静かに男の背後へ回り込んだ。
「おっと……どこに行くのかな?」
不意に声をかけられた男は、驚いて振り返った。
そこには剣を手にした那岐が立っていた。
「くっ……!」
男は周囲を見回したが、逃げられそうな道は見当たらない。
那岐は剣を構えたまま、穏やかな声で語りかけた。
「もう終わりだよ。八岐大蛇の頭目たちは皆いなくなった。あなたもこれ以上、争いを続ける必要はないでしょう?」
「黙れ……!」
「このまま大人しく捕らわれて、裁きを待つか。それとも、ここで私に斬られるか。どちらかを選んでほしいんだ」
那岐は男をまっすぐ見つめていた。
できることなら、これ以上人を殺したくはなかった。
すでに七人の頭目は討たれ、最後の一人となった男に、もはや反撃するだけの力は残されていない。
武器を捨ててくれるなら、それでよかった。
しかし、男は那岐の言葉を受け入れようとはしなかった。
「ふざけるなぁ!」
怒声を上げると、男は剣を抜き、那岐に向かって突進した。
那岐は小さく息を吐いた。
「……残念だよ」
突き出された剣を、那岐は身体をわずかに横へずらしてかわした。
そのまま足を踏み替え、身体を滑らかに回転させる。
男が振り向こうとした時には、すでに那岐の剣が横一文字に振り抜かれていた。
一瞬の出来事だった。
男の首は斬り落とされ、身体は力を失って地面に崩れた。
これで八人の頭目は、すべて討たれたことになる。
那岐は剣を下ろし、しばらく男の亡骸を見つめていた。
長年にわたって出雲の人々を苦しめ、数え切れないほどの命を奪ってきた者たちである。放置しておけば、さらに多くの犠牲者が出ていただろう。
だからこそ、討伐する必要があった。
それは那岐自身も理解している。
しかし、どれほど正しい理由があったとしても、人の命を奪うことに喜びを感じることはできなかった。
降伏してくれていれば、殺さずに済んだかもしれない。
そんな思いが、胸の奥に残っていた。
「……どうして、こうなってしまうんだろうね」
那岐は誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
敵を討ったところで、失われた命が戻ってくるわけではない。出雲の人々が受けた苦しみも、すぐに消えるものではなかった。
それでも、これから先に同じような犠牲を出さないためには、誰かが争いを終わらせなければならない。
那岐は静かに目を閉じ、短く息を吐いた。
そして剣を収めると、須佐之男たちの方へ歩き出した。
その頃、櫛名は須佐之男の勝利を知り、居ても立ってもいられなくなっていた。
大蛇が完全に動かなくなったことを確かめると、須佐之男のもとへ駆け寄った。
「須佐之男様ぁーーー!」
「おお、櫛名!」
櫛名はそのまま須佐之男の胸へ飛び込み、勢いよく抱きついた。
「すごーい! 本当に八岐大蛇を退治してしまったのですね!」
「ははは! だから言っただろ。軽く退治してやるって!」
須佐之男は得意満面で笑った。
その言葉を聞きながら戻ってきた那岐は、思わず呆れた顔をした。
「……よく言うよ」
巨大な大蛇を相手に、那岐が全力で防御幕を張らなければ危ない場面もあったのである。
須佐之男はそんな父の様子など気にすることなく、櫛名の肩を抱いて笑っていた。
「見ただろ、櫛名! 俺に倒せない相手なんていねぇんだよ!」
「はい! もう本当に驚きましたわ!」
櫛名は嬉しそうに頷いた。
出雲で生まれ育った櫛名にとって、八岐大蛇は幼い頃から恐ろしい存在だった。
人々から食糧や財物を奪い、美しい娘を見つけては連れ去っていく。逆らえば殺されるため、村の人々は恐怖に怯えながら暮らしてきた。
それが今、目の前で終わろうとしている。
村を襲っていた賊も、出雲を支配していた八人の頭目も、そして噂に聞いていた本物の八岐大蛇までもが討たれたのである。
櫛名は須佐之男から少し身体を離すと、那岐にも顔を向けた。
「那岐様も、本当にありがとうございました! お二人とも凄かったわ!」
「私は少し手伝っただけだよ。大蛇を倒したのは須佐之男だからね」
「そんなことありませんわ! 那岐様が炎を防いでくださらなければ、大変なことになっていたでしょう?」
「まあ……そうかもしれないけどね」
那岐は照れくさそうに微笑んだ。
櫛名は改めて二人を見つめた。
「これで……出雲は救われたのですね!」
その声には、心からの喜びが込められていた。
須佐之男は胸を張り、豪快に笑った。
「おう! 軽いもんよ!」
那岐はその言葉を聞いて、再び呆れたように肩を落とした。
「……だから、よく言うよ。まったく」
しかし、その表情には安堵の笑みも浮かんでいた。
周囲では、兵たちや村人たちが互いに喜びを分かち合っていた。
天之冬衣も兵を率いて砦の安全を確認し、抵抗をやめた者たちの武器を取り上げていた。
もはや出雲を脅かしていた八岐大蛇の支配は、完全に崩れ去ったのである。
こうして須佐之男と那岐は、八岐大蛇を討伐することに成功した。
長年にわたって出雲の人々を苦しめてきた八人の頭目はすべて討たれ、本物の八岐大蛇もまた、その命を絶たれた。
須佐之男の圧倒的な武力と那岐の助力によって、出雲にはようやく平和への道が開かれたのである。
なお、この戦いで八岐大蛇の身体から見つかった一振りの剣は、後の世に草薙剣、あるいは天叢雲剣と呼ばれることになる。
そして、天皇の継承を象徴する「三種の神器」の一つとして、後世に伝えられていくのであった。




