五話 天之冬衣って誰だ!
出雲には、大名持と呼ばれる者がいる。
大名持とは、大きな名を持つ者という意味の役職名であり、つまり出雲を治める王のことである。
その大名持の座にあるのが、天之冬衣という人物だった。
もっとも、現在の出雲では八岐大蛇と呼ばれる賊が勢力を拡大しており、天之冬衣は名目上の王に近い存在となっていた。
須佐之男、那岐、櫛名の三人は、その天之冬衣が住む館の前までやって来ていた。
「ここが天之冬衣の館か?」
須佐之男は館を見上げながら尋ねた。
「はい。天之冬衣様はこちらにおられるはずです」
櫛名が答える。
館は周囲を木の柵で囲まれ、入り口には武器を持った門番が立っていた。王の館と呼ぶにふさわしい造りではあったが、どこか活気に乏しい。
「わかっているだろうけど、私たちは調査に来ているんだからね。余計な騒ぎは起こさないように」
那岐が念を押した。
「わかってるって」
須佐之男は面倒そうに答えた。
その返事に、那岐は少しだけ不安を覚えた。
末盧国でも似たような返事を聞いた覚えがある。
しかし、ここで蒸し返しても仕方がない。
三人は門へ向かった。
「私たちは筑紫の山門から参りました。大名持の天之冬衣様にお目通りをお願いできますか?」
那岐が穏やかに声をかけると、門番は三人を見比べた。
「筑紫からだと?」
「はい。海賊の件でお話を伺いたいのです」
「しばし待たれよ」
門番の一人が館の奥へと入っていった。
やがて戻ってきた門番に案内され、三人は館の中へ通された。
広間には太い木の柱が並び、奥には一段高く設けられた座があった。
しばらく待っていると、奥から年配の男が姿を現した。
年齢を重ねた顔には深い皺が刻まれ、その眼差しには長く人を治めてきた者らしい威厳が残っている。
男は奥の座に腰を下ろすと、三人を見渡した。
「儂が天之冬衣だ。お主らが筑紫から来た者か」
「そうだ。山門から来た」
須佐之男が答えた。
あまりにも遠慮のない物言いに、那岐は横から息子をちらりと見た。
須佐之男はまったく気にしていない。
「こちらが須佐之男です。私は伊邪那岐と申します」
那岐が改めて挨拶した。
「櫛名と申します」
櫛名も丁寧に頭を下げる。
「私たちは筑紫の海に出没している海賊について調べるため、こちらへ参りました」
「海賊か……それで、何かわかったのか?」
天之冬衣が尋ねた。
「ここへ来るまでに三度も襲われたぞ。海でも陸でも賊だらけだ。八岐大蛇とは何者なんだ?」
須佐之男は遠慮なく問いかけた。
天之冬衣は眉間に皺を寄せた。
「あれは韓から渡来した元海賊たちだ」
「韓からですか……」
那岐は考え込むように呟いた。
「八人の頭目からなる賊どもでな。最初は小さな集まりにすぎなかった。だが、次第に配下を増やし、今では八岐大蛇と名乗って各地を荒らしておる」
「八人も頭目がいるのか」
須佐之男が腕を組んだ。
「しかも厄介なことに、奴らは鉄を扱う場所まで押さえてしまった。韓から鉄の材料を持ち込み、鍛冶場で武器を作らせておる。おかげで賊どもの多くが鉄の剣を持つようになった」
「ああ、だからどいつもこいつも鉄の剣を持っていたのか」
須佐之男は納得した。
出雲に着いてから襲ってきた賊たちは、いずれも鉄製の武器を手にしていた。
それだけの装備を揃えられるとなれば、単なる野盗の集団とは考えにくい。
「しかし、いくら鉄の武器を持っているとはいえ、賊がそこまで勢力を広げられるものでしょうか?」
那岐が尋ねた。
「奴らは海も押さえておる。交易の船を襲い、荷を奪い、人まで攫って売り飛ばす。そこで得た富でさらに武器を作り、配下を増やすのだ」
天之冬衣は苦々しそうに続けた。
「逆らう村には兵を送り、従う村には貢物を要求する。今では支配する土地も広がり、儂らの手には負えなくなっておる……」
その声には、隠しきれない悔しさが滲んでいた。
那岐は黙って話を聞いていた。
王でありながら、自分の国を賊に奪われていく。
天之冬衣にとっては、屈辱以外の何物でもないだろう。
そのとき、櫛名がおずおずと口を開いた。
「あの……八岐大蛇について、もう一つ噂があるのです」
「なんだ?」
須佐之男が振り向いた。
「八人の頭目をまとめて八岐大蛇と呼ぶのですけど……実は、その山の砦には、本当に八つの頭と八つの尾を持つ大蛇がいるという噂もあるの」
「…………」
須佐之男は一瞬、言葉を失った。
「まじかよ」
「私も見たわけではありません。でも、村では昔からその噂を恐れている人が多いのです」
櫛名の言葉に、天之冬衣もうなずいた。
「儂もその話は聞いておる。山の砦には大きな洞窟があり、その奥に恐ろしい大蛇を飼っているというのだ」
「飼っている?」
那岐が首を傾げた。
「定期的に人間を食わせて手懐けておるという話だ。逆らった者や攫ってきた者を餌にしているとも聞く」
「人を……」
櫛名の表情が曇った。
那岐も眉をひそめた。
「しかし、本当にそんな化物がいるのでしょうか?」
「わからん。儂もこの目で見たわけではない。所詮、賊どもが広めた脅しなのかもしれん」
天之冬衣は静かに首を振った。
「だが、刃向かえば大蛇の餌にされるという話は広く知れ渡っておる。奴らの配下ですら、その大蛇を恐れて逆らえぬというのだ」
「なるほど……」
那岐は腕を組んだ。
実在するかどうかはともかく、その噂自体が人々を恐怖で縛りつける役割を果たしているらしい。
賊に逆らえば殺される。
それだけでも恐ろしい話だが、得体の知れない化物に食われるとなれば、恐怖はさらに大きくなるだろう。
一方、須佐之男は別のことを考えていた。
「ふん。八人の頭目を討伐すれば、そんな大蛇がいるかどうかもわかるだろう」
そう言って、天之冬衣に顔を向けた。
「拠点の在処を教えてくれ」
「構わんが……そなたらだけで向かうつもりか?」
天之冬衣は驚いたように尋ねた。
須佐之男は当然とばかりに胸を張った。
「おう。そのつもりだ」
「ちょっと待って、須佐之男」
那岐が慌てて口を挟んだ。
「私はまだ討伐するなんて決めていないよ」
「俺はもう決めているぜ」
「だから、どうして勝手に……」
「もう約束したからな」
須佐之男は隣にいる櫛名を見た。
櫛名は小さく笑みを浮かべる。
「ふふ」
那岐は二人を交互に見た。
そういえば、この息子は櫛名に求婚し、八岐大蛇を退治するなどと約束していたのだった。
「はあ……」
思わずため息が漏れた。
須佐之男は一度決めたら、なかなか考えを曲げない。
しかも今回は惚れた娘との約束である。
簡単に諦めるはずがなかった。
天之冬衣はそんな三人の様子をしばらく眺めていたが、やがて口を開いた。
「拠点の在処は教えよう。港に一つ、鉄の鍛冶場の近くに一つ、そして山に一つ砦がある」
「三か所か」
須佐之男が呟いた。
「ただし、そなたらは他所の者だ。出雲のことは出雲の者が決める。あまり出しゃばることのなきよう」
天之冬衣の声には、王としての誇りが込められていた。
賊に領地を奪われようとも、出雲の王は自分である。
その立場だけは譲れないのだろう。
「はい。お話を聞かせていただき、ありがとうございました」
那岐は穏やかに答え、丁寧に頭を下げた。
櫛名も黙って頭を下げる。
しかし、須佐之男だけは天之冬衣の言葉を無視していた。
天之冬衣の館を出ると、須佐之男は不満を隠そうともせず、吐き捨てるように言った。
「なんだあいつ? 気に入らねーな」
「こら、須佐之男。出雲の王に対して失礼だよ」
那岐が穏やかにたしなめる。しかし、須佐之男は納得していないようだった。
「だってよ、賊にやられっぱなしの王なんて意味あるのかよ。民も守れねえくせに、余計な口出しだけはしてきやがる」
「そういう言い方はよくないよ。冬衣殿にも事情があるんだろうから」
「事情があれば、賊の好き勝手にさせていいってのか?」
須佐之男は鼻を鳴らした。
その言葉を聞いていた櫛名が、少し寂しそうに口を開いた。
「……冬衣様も、昔は民から慕われていたのです」
「昔は、か」
「はい。けれど、八岐大蛇が現れてからは……」
櫛名はそこまで言いかけて、口を閉じた。
出雲に生まれ育った彼女にとって、かつて民に慕われていた王が、今では賊の横暴を止められずにいる現実は、決して喜ばしいものではなかった。
須佐之男もそれ以上は何も言わなかった。
「しかし、出雲の王でも対処できないとなると、これは本当に厄介だね」
那岐は静かに呟いた。
八岐大蛇は単なる海賊や野盗の集まりではない。鉄の武器と海上交易を押さえ、出雲の王ですら手を出せないほどの勢力を築いている。
しかも、民を苦しめ、娘を攫い、逆らう者を容赦なく排除しているという。
那岐はもともと、他国の争いに深入りすることを好まなかった。力を持つからといって、よその国の支配者を勝手に討ってよいはずがない。
だが、目の前で苦しんでいる人々を見捨てることもできなかった。
少なくとも、八岐大蛇の暴政をこのまま放置してよいとは思えない。
那岐の中で、彼らを討つことへの迷いは、少しずつ薄れ始めていた。




