二話 国外追放されてしまった!
末盧国に設けられた大倭壱国軍の兵舎は、重苦しい空気に包まれていた。
共同軍事訓練の最後に行われた相撲交流の場で、末盧国王の子である童海が命を落としたのである。その相手を務めた須佐之男は、事件以来、兵舎の奥に引き籠っていた。
末盧国側は王族を殺害した須佐之男の身柄を引き渡すよう強く要求していたが、大倭壱国の兵士たちはこれに反発していた。
童海が先に挑発し、女王日巫女を侮辱したことを知っていたからである。
しかし、相手国の王族が亡くなったという事実は重く、双方の兵士が睨み合う緊迫した状況が続いていた。
そんな中、沖ノ島から急報を受けた伊邪那岐と月読が末盧国に到着した。
二人は兵舎で指揮官たちから事件の経緯を聞き、末盧国側の要求と現在の状況を確認した。報告を聞き終えた那岐は、しばらく考え込んだ末、月読に向き直った。
「月読、今すぐ兵を率いて末盧国王の館へ向かい、館を包囲してくれないかな。そのうえで王と話をつけてきてほしいんだ。同じ海上族同士、私よりも月読のほうが話を進めやすいと思うからね」
「構いませんが、父上。兵を率いて王の館を包囲するのですか? かえって事を大きくしてしまいませんか?」
月読が驚くのも無理はなかった。普段の父は争いを好まず、どのような相手にも穏やかに接し、できる限り話し合いで解決しようとする人物だったからである。
「今回は強気に出たほうがいいと思うんだ。謝罪もしなくていいよ。こちらも侮辱を受けたことを強く抗議して、少しくらい脅しても構わない。壱岐の主である月読と、大倭壱国の伊邪那岐を相手に戦を望むなら、いつでも相手になる。そのくらいの気持ちで臨んでほしいんだ」
「父上にしては、随分と強気ですね」
「そうだね。でも、今はこちらが弱気な姿勢を見せると、相手が勢いづいて攻撃を仕掛けてくるかもしれない。こちらには戦うだけの力があると示して、ひとまず睨み合いに持ち込むんだよ」
「なるほど……際どい駆け引きになりますね」
「うん。それと、もう一つお願いがあるんだ。童海の遺体を引き渡すよう要求してほしい」
「えっ? 遺体をですか? 何故そのようなことを?」
月読は思わず父の顔を見つめた。王族を死なせた側が、さらに遺体まで要求するなど、到底穏やかな話ではない。
「大倭壱国に対する侮辱は、死んだからといって許されるものではない。しかるべき処置を取るために遺体を引き渡せ、とね」
「……本当に大丈夫でしょうか?」
「もちろん、実際に遺体を奪うつもりはないよ。相手が要求を拒んでくれれば、それでいいんだ。今は一方的に責められる立場から抜け出して、こちらにも言い分があることを示したい。落ち着いてから弔問の使者を送るなり、謝罪するなりすればいいんだよ」
那岐は穏やかな口調のまま続けた。
「大切なのは主導権を握ることなんだ」
「主導権、ですか?」
「そう。戦をするかしないかは末盧国だけで決められることではない。こちらにも選ぶ力があるんだと、相手に理解してもらう必要がある。いつでも戦えるという姿勢を見せながら、実際には戦にならないようにするんだよ」
「……随分と難しい役目を任されましたね」
「ごめんね。でも、月読ならできると思っているよ。須佐之男を末盧国から退去させるまでの間だけでいいんだ。頼めるかな?」
「わかりました。やってみます」
月読は父の意図を理解すると、兵を集めて末盧国王の館へ向かった。
一方、那岐は兵舎の奥へと足を進めた。そこには、普段の豪快さが嘘のように肩を落とした須佐之男がいた。
「父上……すまない」
七尺もの巨体を持ち、幾度もの戦で勇名を馳せた無敵の武将が、まるで叱られるのを待つ子供のように小さくなっていた。
「……事情は聞いたよ。姫を侮辱されたんだって?」
「ああ。俺のことなら何を言われても構わなかったんだが、姉上まで馬鹿にしやがってな。手加減するつもりだったんだが、つい怒りが抑えられなくなって……妖気まで出ちまった」
須佐之男は悔しそうに拳を握り締めた。
伊邪那岐は不老長寿の身であり、人ならざる妖気と妖術を操る特殊な存在だった。
本人はその力を呪いのように捉えていたが、能力を受け継いだ日巫女、月読、須佐之男の三人の子供たちは、それぞれ妖術を使いこなしていた。
中でも須佐之男の妖気は凄まじく、ただでさえ並外れた怪力に妖気が加われば、その破壊力は常人の想像を遥かに超える。
本人に殺すつもりがなくとも、ほんの一瞬の力加減の誤りが人の命を奪ってしまうのである。
「……過ぎたことは戻せないからね。でも、須佐之男。お前は自分の力がどれほど危険なのか、もっと考えないといけないよ」
「……ああ。わかってる」
「それじゃあ、とりあえず縄で縛って、罪人として大倭壱国に連れ戻すことにするけど、いいかな?」
「えっ? 俺、罪人になるのか?」
須佐之男は驚いて顔を上げた。
「末盧国と戦をするわけにもいかないだろう? こちらも処罰する意思があると示せば、相手の怒りを少しはかわせると思うんだ。末盧国を出るまでの間だけだから、我慢してくれないかな」
「……そういうことか。わかった。父上に任せる」
「ありがとう。ただ、本当に大変なのは帰国してからだと思うよ……」
「……姉上か」
その一言で、二人は揃って黙り込んだ。
女王日巫女は須佐之男にとって姉であると同時に、母親同然の存在だった。生まれてすぐに母の伊邪那美を亡くした須佐之男を、まだ幼かった日巫女が懸命に世話して育ててきたのである。
普段は傲慢で怖いもの知らずの須佐之男も、姉にだけは頭が上がらなかった。
『なんてことをしてくれたの!』
帰国した途端、日巫女の怒声が響き渡る光景が、二人の頭にありありと浮かんだ。
「……父上」
「なんだい?」
「俺、帰りたくなくなってきた」
「奇遇だね。私も少しだけ帰るのが怖くなってきたよ……」
父子は揃って深いため息をついた。
その後、月読は兵を率いて末盧国王の館を包囲し、王との交渉に臨んだ。
大倭壱国側も侮辱を受けた被害者であると強く抗議し、場合によっては戦も辞さない姿勢を示したことで、末盧国側は軽々しく兵を動かせなくなった。
一方、那岐は須佐之男を縄で縛り、罪人として本国へ連行する姿を末盧国側に見せた。大倭壱国が事件を放置せず、自ら処分する意思を示したのである。
強硬な交渉と処罰の姿勢を組み合わせた那岐の策は功を奏し、双方が武力衝突に至ることなく、ひとまず事態は沈静化した。
須佐之男が末盧国を離れたとの知らせを受けると、月読は童海の遺体引き渡し要求を取り下げ、段階的に態度を和らげていった。
もっとも、王族が命を落とした問題そのものが解決したわけではない。月読は大倭壱国本国からの指示を待ちながら、引き続き末盧国との交渉を続けることになった。
こうして須佐之男は、罪人として縄に縛られたまま、父と共に山門への帰路についたのである。
大倭壱国、山門の主祭殿。
「なんてことをしてくれたのぉぉぉぉ!!」
女王・日巫女の怒声が主祭殿に響き渡った。そのあまりの剣幕に、普段は何事にも動じない須佐之男でさえ肩をすくめ、隣に立つ父の那岐と顔を見合わせた。
「……想像より声が張ってるな」
「……過去一かもな。ここまで怒っている姉上は初めて見たぞ」
二人が小声で囁き合っていると、日巫女の鋭い視線が向けられた。
「何をこそこそ話しているのですか! どうするおつもりですか、この騒動を!」
女王・日巫女は、これまでにないほど怒っていた。末盧国の王子を死なせたことだけでも重大な外交問題だというのに、事態の収拾に向かったはずの父まで、とんでもない騒動を引き起こしていたのである。
「しかも父上が末盧国を恐喝したという噂まで広がっていますわよ!」
「ええ? 私、そんな噂が立つようなことをしたかなぁ」
「とぼけないでください! 大倭壱国の伊邪那岐が、娘を侮辱されたことに激怒して戦の準備に入ったと、国中で噂になっているのです!」
「すげえ、戦になるのか!」
「なってたまるものですかぁ!」
どこか嬉しそうな須佐之男の発言に、日巫女の怒りがさらに燃え上がった。
「あれは、ただの脅しだよ。ちゃんと戦にならずに帰ってこられたでしょう?」
「その脅しのせいで、国中から兵になろうと民が勝手に集まってきているのですよ! 末盧国と戦になると思い込んで!」
「おお! それなら指揮は俺に任せろ!」
「あんたはもう黙ってなさい!」
須佐之男は口を閉じた。七尺もの巨体を誇り、戦場では並ぶ者のいない猛将であっても、姉の怒りには逆らえない。幼い頃から母親代わりに育ててくれた日巫女は、須佐之男にとって頭の上がらない存在だった。
「まあ、誤解なんだから、集まった人たちには事情を説明して解散してもらおう」
「それはもう指示を出しています!」
「それはよかった」
あまりにも呑気な父の返事に、日巫女は深いため息をついた。父も弟も、どうしてこうも危機感がないのだろうか。
「それで、この問題をどう処置しましょうか。末盧国との交渉は続いていますが、このまま何もせずに済ませるわけにはいきません」
「そうだねぇ。危機的な状況は回避できたけれど、問題そのものが解決したわけではないからね」
「末盧国に対して、何らかの誠意を示す必要がありますわ」
那岐は少し考えるように視線を落とした。やがて、何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば、最近、大陸との交易路に海賊が出没しているんだよね」
「おう、その噂なら俺も聞いたぞ。末盧国の連中も困っていたな」
「それが何か?」
「まだ噂の段階なんだけど、その海賊は出雲から来ているんじゃないかって話があるんだ」
「出雲ですか……」
日巫女の表情が変わった。出雲は筑紫から遠く離れた地であり、大倭壱国の支配が直接及ぶ場所ではない。しかし、大陸との交易路を荒らす海賊がいるのであれば、放置しておくわけにもいかなかった。
「どうだろう。須佐之男に海賊の調査と、必要なら討伐の任務を与えてくれないかな?」
「つまり、須佐之男を大倭壱国の外へ出すということですか?」
「うん。末盧国には国外追放処分にしたと伝えればいいんじゃないかな」
日巫女はしばらく考え込んだ。王子を死なせた須佐之男に何の処分も下さなければ、末盧国の怒りは収まらない。しかし、国外追放という形を取れば、大倭壱国として一定の責任を示すことができる。
「……なるほど。それなら表向きは国外追放処分としましょう」
「それなら末盧国にも、こちらの誠意を示せると思うんだ」
「そして海賊を討伐できれば、その功績を理由に帰国を認めることもできますわね」
「うんうん、よくわかっているね、姫。さすがだよ」
「姫ではなく、日巫女ですわ!」
父に褒められたことは嬉しいものの、女王として政務を執っている最中に幼い頃の名で呼ばれるのは、どうにも落ち着かなかった。
「ただし、兵を多く出すことはできません。国外追放という処分なのですから、たとえ表向きであっても大軍を率いさせるわけにはいきませんわ」
「船と船員だけでもいいよ。あとは何とかするから」
「……父上も行くおつもりですか?」
「おお! 父上も一緒か! そいつは心強いぜ!」
須佐之男が嬉しそうに声を上げた。
「海賊の話は以前から耳にしていたし、困っている人たちを何とかしてあげたいとは思っていたんだよ。ちょうどよい機会かもしれないね」
那岐は穏やかに微笑んだが、日巫女は呆れたように眉を寄せた。
「父上は、末っ子だからといって須佐之男を甘やかしすぎですわ」
「ありがとう、姫」
「褒めていません!」
こうして須佐之男の国外追放が決まり、海賊調査という新たな任務が与えられることになった。
数日後、出航を控えた船着き場では、須佐之男と那岐が積み荷の準備に追われていた。
船には長旅に備えた食糧のほか、交換や贈答に使う品々、さらには大量の酒まで積み込まれている。船員たちが次々と荷を運び込む様子を見ながら、須佐之男は不思議そうに首を傾げた。
「父上、なんでこんなに積み込む必要があるんだ?」
「長旅になるかもしれないからね。それに、食糧は自分たちで食べるだけじゃなく、現地の人たちへの貢物にも使えるんだよ。多いに越したことはないからね」
「なるほどな。おっ、酒も大量にあるじゃないか! こりゃあ楽しみな旅になりそうだぜ!」
「旅じゃないよ。追放なんだからね。それに、そのお酒は貢物にするつもりだから、勝手に飲んじゃ駄目だよ」
「少しくらいいいではないか。これだけあるんだぞ?」
「楽しそうですわね。全部没収されたいのかしら?」
背後から聞こえた声に、須佐之男の動きがぴたりと止まった。
振り返ると、そこには日巫女が立っていた。
「えっ? いや、飲まんぞ! 俺は一滴も飲まん!」
「大丈夫だよ、姫。私が飲ませないから。食べ物もお酒も、現地ではきっと役に立つと思うんだ」
「……父上がそうおっしゃるのなら」
日巫女は積み荷を眺めながら、小さく息をついた。騒動を起こした弟には呆れていたが、そのために父まで遠い出雲へ向かうことになってしまった。いつ戻ってくるのかもわからないと思うと、寂しさが胸に込み上げてくる。
その表情に気づいた那岐は、娘に優しく微笑みかけた。
「大丈夫だよ。ちゃんと海賊の調査を終えて、戻ってくるから」
「……本当ですよ。須佐之男も、父上の言いつけをきちんと守るのですよ」
「おう! 任せておけ!」
「まったく、懲りない子ですね……」
日巫女は呆れながらも、それ以上は何も言わなかった。
やがて積み荷の作業が終わり、船員たちが出航の準備を整えた。帆が張られ、船はゆっくりと岸を離れようとしている。
「それじゃあ、そろそろ出航するよ。行ってくるね」
「姉上! 海賊退治なんて軽くこなしてくるぜ!」
須佐之男が大きく手を振ると、日巫女は静かに頷いた。
「……ご無事の航海を、祈っております」
「うん。ありがとう、姫」
那岐は娘に微笑み返し、須佐之男とともに船へ乗り込んだ。
やがて船は岸を離れ、東へと進み始めた。穏やかな海風を受けながら、大倭壱国を後にした父子を乗せた船は、一路、出雲を目指すのだった。




