一話 どうしてこうなった!?
「どうしてこうなったぁぁあああ!!」
須佐之男の絶叫が、末盧国の空に響き渡った。
大倭壱国と末盧国による共同軍事訓練。その締めくくりとして催された相撲交流の場で、末盧国王の息子である童海が須佐之男の目の前に倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのである。
周囲は騒然となり、末盧国の兵士たちが倒れた王子に駆け寄るなか、須佐之男はただ呆然と立ち尽くしていた。いったい何がどうして、こんな事態になってしまったのか。
事の発端は、二週間前に遡る。
大倭壱国の中心地、山門。その主祭殿の一室に、須佐之男は姉であり、大倭壱国の女王でもある日巫女から呼び出されていた。
「末盧国から、共同軍事訓練の申し入れが届いています」
日巫女は手元の木簡に目を通しながら、向かいに座る弟へ話を切り出した。
「末盧国か。行ったことはないが、海上族が多い国だったよな?」
「ええ、海をよく知り、船を使った戦いを得意とする国ですわ。こちらの陸上での戦い方を学びたいのでしょう」
「なるほどな。だが、それじゃ俺たちは教えてやるだけか? わざわざ兵を連れて出向くからには、こっちにも得るものが欲しいところだな」
「もちろんです。こちらは末盧国から海上戦の技術を学んできてほしいのですわ。大倭壱国にも船を扱える者はおりますが、海を戦場としてきた彼らには、私たちの知らない技術や経験があるはずです」
「つまり、お互いの得意な戦い方を教え合うわけか。それなら悪くない話だな!」
須佐之男は豪快に笑い、早くも訓練への参加を決めたような顔をした。七尺もの巨躯を誇り、並外れた武勇で幾度も敵を撃退してきた彼にとって、他国の兵士たちと腕を競い合える機会は、それだけで胸の躍るものだった。
そんな弟の様子を眺めながら、日巫女は小さくため息をついた。
「ただ、一つ心配なことがありますの」
「なんだ? 末盧国が信用できないのか?」
「いいえ、心配なのは末盧国ではなく、あなたの方ですわ」
「俺?」
「父上が沖ノ島へお出かけになっているでしょう? 孫娘の巫女舞が披露されると聞いて、晴れ舞台を見に行くのだと、それはもう嬉しそうに出発されてしまって……。父上がご不在の間、あなた一人に軍を任せて大丈夫なのかしら」
その言葉に、須佐之男は心外だと言わんばかりに胸を張った。
「なんだ、そんなことか! ただの軍事訓練だろう? 俺だって一軍を率いる将だぞ。今まで何度も戦に勝ってきたんだ。心配するなって!」
「戦に勝てることと、他国で問題を起こさずに済むことは別ですわ」
「俺がいつ問題を起こしたっていうんだ?」
「本気でおっしゃっていますの?」
日巫女が呆れたように目を細めると、須佐之男は気まずそうに視線を逸らした。思い当たる節がないわけではないらしい。
「いいこと、須佐之男。今回は戦ではなく、他国との友好を深めるための軍事訓練なのです。あなたの振る舞い一つで、大倭壱国そのものがどう見られるか決まることもあるのですよ」
「わかってるって。俺もそこまで馬鹿じゃない」
「では、あちらで暴れないこと。乱暴しないこと。そして、決して問題を起こさないこと。よろしいですわね?」
念を押す姉に、須佐之男は自信満々の笑みを浮かべ、力強く胸を叩いた。
「おう! 任せとけって!」
そのあまりにも頼もしい返事を聞いて、日巫女はかえって不安になるのだった。
こうして、須佐之男が率いる大倭壱国軍と末盧国軍による共同軍事訓練が始まった。
陸上では須佐之男が中心となり、槍や盾を用いた集団戦術を指導した。
七尺もの巨体から繰り出される攻撃は凄まじく、盾を構えた兵士が数人がかりで受け止めても容易に押し崩されてしまう。
もっとも、須佐之男が教えようとしているのは個人の武勇ではなく、隊列を乱さず互いを守りながら戦う方法であり、その指導は意外にも理にかなったものだった。
一方、海上訓練では末盧国王の子である童海が指揮を執り、船団の操り方や船同士の連携、敵船への接近と乗り移り方などを教えた。
海に生きる末盧国の兵士たちは船の扱いに長けており、複数の船が互いの動きを読みながら自在に位置を変えていく様子には、さすがの須佐之男も感心させられた。
陸では圧倒的な強さを誇る大倭壱国軍も、揺れる船上では思うように動けず、何度も末盧国の兵士たちに翻弄されたのである。
両軍は互いの得意とする戦い方を学び、訓練は大きな問題もなく予定どおりに進んだ。
そして最終日、共同訓練の締めくくりとして、両国の兵士たちによる相撲の交流試合が催された。
広場には大勢の兵士が集まり、踏み固められた地面の周囲から歓声が飛び交っていた。勝敗が決まるたびに味方から歓声が上がり、負けた者も笑いながら立ち上がって相手の健闘を称える。
訓練中は互いに競い合っていた兵士たちも、このときばかりは身分や所属を忘れて力比べを楽しんでいた。
ところが、試合が進むにつれて大倭壱国側がやや優勢となり、末盧国の兵士たちの間に悔しそうな声が増え始めた。
それが気に入らなかったのが、末盧国王の子、童海であった。
「どけ! 次は俺が相手をしてやる!」
童海は六尺もある逞しい体を誇り、幼い頃から力自慢として知られていた。これまで相撲で負けたことはほとんどなく、王の子という立場もあって、自分の腕力に絶対の自信を持っていたのである。
その自信は決して根拠のないものではなかった。
童海が相撲に加わると、それまで勝ち続けていた大倭壱国の兵士たちが次々と押し倒された。
相手が組み付こうとしても、童海は力任せに押し返し、腰を落として粘る者さえ強引に持ち上げて地面に転がしてしまう。
たちまち末盧国側から歓声が上がり、童海は得意満面で胸を張った。
「はっはっは! どうした、やまとの連中! この程度の力しかないのか!」
勝ち誇った童海は周囲を見渡し、やがて一際大きな体を持つ男に目を留めた。
「おい、そこにいるデカいの! お前が来い!」
その視線の先にいたのは、須佐之男であった。
七尺という並外れた体格を持ち、幾度もの戦で敵軍を打ち破ってきた大倭壱国の将である。
その名は末盧国にも伝わっていたが、童海にとっては自分より少し背の高い、力自慢の男に過ぎなかった。
須佐之男は腕を組んだまま、面倒そうに童海を見下ろした。
「俺のことか?」
「ほかに誰がいる! お前が大倭壱国の須佐之男だろう!」
「そうだが、俺は見物でいい。お前たちで楽しめ」
須佐之男は最初から相撲に加わるつもりなどなかった。自分が本気で力を振るえば、相手がどうなるかくらいは理解している。
せっかくの交流の場で怪我人を出すわけにもいかず、兵士たちが楽しんでいる姿を眺めるだけで十分だった。
しかし、童海はそうは受け取らなかった。
「なんだ、怖じ気づいたのか? その大きな体は飾りか!」
周囲の末盧国兵が笑い声を上げる。
須佐之男は眉をひそめたものの、まだ相手にする気はなかった。
「俺とやれば怪我だけでは済まんぞ。悪いことは言わん、やめておけ」
「はっ! なんだその言い草は! 大口を叩くだけなら誰にでもできるわ!」
「忠告しているんだ。お前も王族だろう。少しは慎め」
須佐之男が呆れたように言うと、童海の顔に嘲るような笑みが浮かんだ。
「なるほどな。所詮は女の国の弟というわけか!」
「……なんだと?」
「姉に守ってもらわねば何もできんのだろう? ならば大人しく姉の後ろに隠れて震えているがいい!」
童海の取り巻きたちが一斉に笑い出した。
その瞬間、須佐之男の表情から笑みが消えた。
自分が馬鹿にされるだけなら、まだ我慢できた。だが、姉の日巫女を侮辱されることだけは、どうしても許せなかったのである。
母を知らずに育った須佐之男にとって、姉は単なる姉ではなかった。
幼い頃から自分を抱き、食べさせ、叱り、守ってくれた母親同然の存在であり、今では大倭壱国を治める女王でもある。
その姉を、何も知らぬ男に笑いものにされたのだ。
「……いいだろう」
低く唸るような声が漏れた。
「そこまで言うなら相手をしてやる。ただし、本当にどうなっても知らんからな」
須佐之男がゆっくりと立ち上がると、その巨体に周囲の兵士たちが思わず道を開けた。
大倭壱国の兵士たちは顔を見合わせた。彼らは須佐之男の強さを知っているだけに、これはまずいと感じたのだが、末盧国側の歓声にかき消され、止める機会を失ってしまった。
「はっ! ようやく出てきたか、この腰抜けめ!」
「ふん、かかってこい」
須佐之男は悠然と構え、童海を正面から見据えた。
自分より一回り大きな相手を前にしても、童海の自信は少しも揺るがなかった。むしろ、ここで大倭壱国の名高い将を倒せば、自分の武勇が一層知れ渡ると考えていた。
「偉そうにしおって! この巫女の腰巾着がぁ!」
童海が雄叫びを上げ、地面を蹴った。
六尺の巨体が勢いよく迫り、そのまま須佐之男の胸元へ組み付こうとする。
だが、童海の手が届くよりも早く、須佐之男の右腕が動いた。
「ふんっ!」
乾いた破裂音が広場に響き渡った。
張り手が童海の顔面を捉えた瞬間、六尺の巨体が宙を舞ったのである。
須佐之男自身、その一撃にどれほどの力を込めたのか理解していなかった。
姉を侮辱された怒りによって、無意識のうちに妖気が拳ならぬ掌に宿っていたのだ。
童海の体は数歩どころではない距離を吹き飛ばされ、頭から地面に激しく叩き付けられた。
鈍い音が響く。
「ふん、口ほどにもない」
須佐之男は鼻を鳴らし、軽く手を払った。
当然、童海が怒鳴りながら起き上がってくるものと思っていた。多少痛い思いをすれば、自分の力を思い知って少しは大人しくなるだろう。その程度にしか考えていなかったのである。
ところが、童海は動かなかった。
「……おい?」
須佐之男が声をかけても、返事はない。
広場を包んでいた歓声が次第に小さくなっていった。倒れた童海の周囲には不自然なほどの静けさが広がり、やがて異変に気づいた末盧国の兵士たちが駆け寄った。
「童海様!?」
「童海様、しっかりしてください!」
兵士の一人が肩を揺すったが、童海は目を開けない。
別の兵士が顔を近づけて呼吸を確かめ、さらに胸元へ手を当てた。
「……息をしていないぞ」
「な、何を言っている! 早く医師を呼べ!」
兵士たちが慌ただしく動き始める。童海の名を呼ぶ声が重なり、誰かが必死に胸を押していたが、倒れた王子は一向に反応しなかった。
「おいおい……冗談だろ?」
須佐之男の顔から血の気が引いていく。
先ほどまでの怒りなど、とうに吹き飛んでいた。
自分が放った張り手の感触を思い返し、ようやく気づく。ほんの一瞬とはいえ、怒りに任せて妖気を放ってしまったことに。
「ま、待て! 俺はそこまで強く打ったつもりは……!」
だが、そんな言葉で事態が変わるはずもなかった。
しばらくして、童海の体を診ていた者が力なく首を横に振った。
「……童海様が、お亡くなりになった」
その一言で、広場は騒然となった。
末盧国の兵士たちが怒声を上げ、大倭壱国の兵士たちは慌てて須佐之男の周囲に集まる。つい先ほどまで互いの健闘を称え合っていた両軍の間に、険悪な空気が広がっていった。
須佐之男は呆然と立ち尽くした。
相撲の相手を倒しただけのつもりが、よりにもよって末盧国王の子を死なせてしまったのである。
そして、その脳裏に二週間前の姉の言葉が蘇った。
『あちらで暴れない、乱暴しない、問題を起こさないことよ』
『任せとけって!』
あのとき自信満々で胸を張った自分が、今となっては恨めしい。
暴れた。
乱暴した。
問題を起こした。
しかも、ただの問題ではない。他国の王子を死なせるという、これ以上ないほどの大問題であった。
須佐之男は両手で頭を抱え、天を仰いだ。
「どうしてこうなったぁぁぁあああああ!!」
悲痛な叫びが、末盧国の空に響き渡った。
こうして、平穏に終わるはずだった共同軍事訓練は、両国の関係を揺るがす大事件へと発展してしまったのである。
一方、その頃。
玄界灘に浮かぶ沖ノ島では、海の恵みと航海の安全を祈る祭祀が行われていた。
潮風が吹き抜ける祭場には神聖な空気が漂い、海を望む祭壇の前では、まだ幼い巫女が奉納の舞を披露していた。
巫女の名は田心姫。
壱岐を治める月読の娘であり、伊邪那岐にとっては可愛い孫娘である。
田心姫は鈴を手に、教えられた所作を一つひとつ丁寧にこなしていた。まだ幼さの残る舞ではあったが、真剣な表情で一生懸命に舞う姿には、見守る者たちの心を和ませるものがあった。
その様子を、月読と伊邪那岐は並んで眺めていた。
「田心姫も立派になったね。少し前まで、あんなに小さかったのに」
那岐が嬉しそうに微笑むと、月読も目を細めた。
「いえいえ、まだまだ子供ですよ。覚えることもたくさんありますし……でも、今日の舞はよくできていますね。練習では何度か間違えていたところも、きちんとできています」
「ふふ、ずいぶん嬉しそうだね」
「それはまあ……親ですから」
「親馬鹿だねー」
那岐が楽しそうに笑うと、月読は少しばかり呆れた顔で父を見た。
「父上にだけは言われたくありませんよ」
「えー、どうして?」
「父上の姉上への態度を思い出してみてください。姉上が何をしても褒めてばかりではありませんか」
「そんなことないと思うけどなぁ」
「ありますよ。姉上が何か新しいことを始めるたびに、父上は嬉しそうに話してくださるでしょう。昔からずっとそうです」
「だって、姫は本当に頑張り屋さんだからね」
「ほら、また褒めました」
「あはは、そうかな?」
月読は苦笑した。
父が姉を大切に思っていることは、誰よりもよく知っている。幼い頃からずっとそうだったし、今では女王として国を治める姉のことを、父は変わらず愛おしそうに見守っていた。
もっとも、自分も娘の成長に目を細めているのだから、父のことをあまり笑えないのかもしれない。
やがて田心姫の舞が終わり、祭場には穏やかな拍手と称賛の声が広がった。
緊張から解放された田心姫が嬉しそうに顔をほころばせると、那岐も月読も揃って微笑んだ。
祖父と父にとって、これ以上ないほど穏やかなひとときであった。
しかし、その平穏は長く続かなかった。
儀式を終えたばかりの二人のもとへ、一人の使者が慌ただしく駆け込んできたのである。
「月読様! 伊邪那岐様! 末盧国より急報にございます!」
ただならぬ様子に、月読の表情が引き締まった。
「末盧国から? 共同訓練で何かあったのですか?」
「そ、それが……!」
使者は息を整える間も惜しむように、言葉を続けた。
「須佐之男様が、末盧国王の子、童海様を相撲の最中に打ち倒し……そのまま、お亡くなりになったとのことです!」
「…………え?」
那岐が目を丸くした。
月読も、聞き間違いではないかと使者の顔を見つめる。
「……待ってください。童海殿がお亡くなりになった? 須佐之男との相撲で?」
「はっ! すでに末盧国側は激怒しており、須佐之男様の身柄を引き渡すよう要求しているとのことです! 両軍の間にも険悪な空気が広がっております!」
月読は額に手を当て、深く息を吐いた。
「……あの馬鹿は、いったい何をしているんですか」
弟が力自慢であることは知っている。少々傲慢なところがあることも、昔からよく理解していた。
しかし、まさか他国の王子を死なせてしまうとは、想像すらしていなかった。
その隣では、那岐が困り果てた顔で立ち尽くしていた。
「す、須佐之男が……? どうしてそんなことに……」
いつも穏やかな父も、さすがに動揺を隠せない様子だった。
だが、末盧国と大倭壱国の軍が睨み合っていると聞いては、こうしている場合ではない。事態を放置すれば、今度は兵士たちの間で争いが起こりかねなかった。
那岐は月読と顔を見合わせると、慌てて立ち上がった。
「と、とにかく末盧国に向かおう!」
※本作は『【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』の出雲王国編を、須佐之男を主人公として再構成・再執筆した独立作品です。本作単独でお読みいただけます。




