9(クリストファー視点)
黒髪の鬘は、思っていたよりも鬱陶しかった。
クリストファーは、わずかに眉をひそめる。
今日は下町に偵察に出る予定だ、
王族特有の金髪では人目を引く、
その為、黒髪の鬘を被り、眼鏡をかけているのだが、
普段付けないので、なかなか慣れない。
いつも違和感を感じていた。
クリストファーは、小さく息を吐いた。
今日は“王太子”ではない。
――男爵、クリスだ。
その身分で、街を歩く。
報告書では分からないものがある。
それを知るには、自分の目で見るしかない。
王宮を出て、下町へ。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
石畳の道。
整然と並ぶ店。
行き交う人々。
いつもと同じ日常が広がっていた。
怪しまれない程度に周りを見渡しながら歩く。
少し離れた所で、護衛の近衛騎士が控えているはずだが、
誰が騎士かは分からない。
完全に下町に溶け込んでいて、
いつもながらそのプロ意識の高さに驚かされる。
町の中心部へとやってきた。
沢山の屋台が並び、
屋台からは、香ばしい匂いが漂ってくる。
肉を焼く音。
パンを切る音。
人の笑い声。
すべてが混ざり合い、街の鼓動を作っている。
歩きながら、周囲を観察する。
服装。
表情。
会話の内容。
どれも自然だ。
不満の気配は少ない。
この国がうまく機能している証だ。
(だが……)
意識がどこか落ち着かない。
その時だった。
――ドクン。
心臓が、強く脈打った。
「……っ」
思わず足が止まる。
呼吸が、わずかに乱れる。
今まで完全に下町の人間に紛れ込んでいた近衛騎士達が、
あの者かと分かるような動揺を見せる。
ドクン。
今度は、はっきりと。
強く。
確実に。
(……何だ、これは)
今までに感じたことのない感覚。
胸の奥が、熱を帯びる。
血が、ざわつく。
そして。
視線が一人の女性へと、勝手に動いた。
広場の噴水の近く。
人々が行き交う中で――
彼女は、そこにいた。
ピンク色の髪。
柔らかく揺れるそれは、陽の光を受けてかすかに輝いている。
金の瞳。
静かで、澄んだ光。
派手ではない。
目立つ装飾もない。
着ている服も、平民のもの。
だが。
(……心臓が……苦しい)
目が、離れない。
ただ立っているだけ。
それだけなのに。
周囲の景色が、すべて霞む。
音が、遠のく。
人の声が、消える。
世界が、そこだけ切り取られたように。
彼女だけが、はっきりと存在していた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
心臓の音が、うるさい。
(違う)
一目で分かる。
これは。
ただの“興味”ではない。
ただの“好意”でもない。
もっと根源的なもの。
もっと、抗えないもの。
理解よりも先に、本能が告げている。
(――見つけた)
言葉にならない確信。
それが、胸の奥に落ちる。
疑いは、一切なかった。
あの女性だ。
それ以外はありえない。
理屈ではない。
説明もできない。
だが。
(つがいだ)
その瞬間。
世界が、変わった。
今までのすべてが、色鮮やかに輝き、
これからのすべてが、彼女へと収束する。
呼吸が浅くなる。
足が、自然と動き出す。
止まれない。
止まる理由がない。
彼女の元へ行く。
それが、当然だった。
近づく。
一歩。
また一歩。
距離が縮まるたびに、鼓動がさらに速くなる。
彼女は気づいていない。
ただ、噴水の水を見ているようだった。
その何気ない仕草さえ目を奪う。
彼女の前に立つ。
距離は、もうほとんどない。
彼女が、顔を上げる。
視線が、合う。
その瞬間。
すべてが、決定した。
逃げ場はない。
否定もできない。
ただ一つの答え。
クリストファーは、自然と膝をついていた。
考えるより先に、体が動く。
その手を取り。
そっと持ち上げる。
そして。
口づける。
「結婚してください」
言葉は、迷いなく出た。
それが、当然だったから。
彼の世界はもう、彼女を中心に回り始めていた。




