8(クリストファー視点)
剣の音が、乾いた空気を裂いた。
鋭く、正確に。
無駄のない軌道で振り抜かれた一閃が、空を切る。
クリストファー・ファン・デラ・ドラグレシアは、ゆっくりと息を吐いた。
訓練場には、朝の冷気がまだ残っている。
だが、その身体はすでに熱を帯びていた。
額を伝う汗。
握りしめた剣の重み。
それらすべてが、確かな現実を示している。
だが――
(……満たされない)
心のどこかが、空白のままだった。
十九歳。
それが、今の自分の年齢。
そして――
未だ“つがい”を見つけていない年齢。
本来ならば十歳の時点で決まっているはずだった。
竜神の血を引く王族の男子は、十歳を迎えると“選定の場”に臨む。
年頃の令嬢たちが集められ、その中から、ただ一人。
“つがい”が選ばれる。
いや――
選ぶのではない。
“分かる”のだ。
理屈ではない。
説明もできない。
ただ、確信する。
この者だと。
この者以外はありえないと。
それが、竜神の血。
そして。
そのつがいは、生涯にただ一人。
二人で一つの存在のように結びつく。
心も、体も、未来も、すべてが繋がる。
だからこそ、その者とは以外とは子を成すことができない。
(絶対的な結びつき……か)
クリストファーは、静かに剣を収める。
何度も教えられてきた。
歴史も、制度も、理屈も。
すべて理解している。
だが。
(理解と実感は違う)
その通りだった。
十歳のあの日。
広間に集められた令嬢たち。
色とりどりのドレス。
緊張した表情。
期待と不安の入り混じった空気。
すべて、覚えている。
だが――
(何も、感じなかった)
ただ、それだけだった。
一人一人と対面した。
言葉を交わした。
視線を合わせた。
だが。
何も起きない。
心が動かない。
本能が沈黙したまま。
結果。
“該当なし”。
それは、前例がないわけではなかった。
だが、極めて稀だった。
その後、貴族の令嬢だけでなく、裕福な商人の娘や、
特別な才能があると噂されている令嬢など、
いろんな令嬢に会ったが、結果は同じだった。
そして、気付は十九歳になっていた。
「殿下」
声がかかる、騎士団長だった。
「剣筋は良いのですが、迷いが見えます」
言い当てられて、苦笑する。
文武共に完全無欠、外見、権力、
全てに恵まれたクリストファーが悩む事など一つしかない。
”つがい”
騎士団長はあえて指摘しなかった。
クリストファーは、空を見上げる。
群青の青が広がる。
どこまでも、澄んでいる。
だが、その広さが逆に、
自分の孤独を強調するようにも感じられた。
焦りがないわけではない。
王太子として。
国の未来を担う者として。
つがいがいないという事実は、決して軽くはない。
だが。
(それ以上に……)
奇妙な感覚があった。
(まだ、来ていない)
そんな確信にも似たもの。
根拠はない。
だが。
竜神の血が、そう告げているような気がする。
「肩の力をお抜きくだされ」
騎士団長が言う。
つがいは、探すものではない。
見つけるものでもない。
“出会う”ものだ。
だからこそ。
待つしかない。
だが。
(それでいいのか)
ふと、疑問がよぎる。
王太子として、何もせずただ待つだけでいいのか。
それは、あまりにも無力ではないか。
だが同時に。
(無理に選ぶことはできない)
それもまた、絶対だった。
つがいでなければ意味がない。
自分でも分かる、他の令嬢を選ぼうとしても、
身体が、心が、それを拒む。
それほどまでにつがいは絶対。
そして同時に、つがいはただの“愛”ではない。
(国を支える存在)
過去の記録が、脳裏に浮かぶ。
貴族令嬢。
教育制度を整え、識字率を上げ、
国の発展する基礎を作り上げた。
商家の娘。
彼女は金の流れを読み、管理し、最適化した。
無駄を削り、効率を上げ、国の財政を強化した。
その功績は、今も語り継がれている。
絵の才能を持つ少女。
彼女は、皿に絵を描くという発想を持ち込んだ。
ただの器に価値を与え、文化と産業を結びつけた。
それはやがて、国の象徴的な名産となった。
他にも挙げれがきりがない。
決して竜王だけが有能なのでない、
竜妃も同じく才能を持ち、この国を支える存在であった事。
その事が、この国の発展の基礎となっているのだ。
共に、国を導く存在。
だからこそ王族の男子にとって、つがいとは。
“運命”であり、“責任”だった。
「……重いですね」
騎士団長がぽつりと言う。
どうやら、表情に出ていたらしい。
「そうですね」
否定しない。
「殿下なら大丈夫でしょう」
「根拠は?」
「根拠はありませんが、殿下には誰よりも幸せになって頂きたいのです」
子供の頃から、ずっと自分を見守ってくれていた存在の、
優しい言葉に、焦りの気持ちが少し溶ける。
確かに肩に力が入っていたようだ。
しかし、心の奥では、別の思考が続いている。
(本当に、いるのか)
まだ見ぬ存在。
まだ出会っていないつがい。
この広い世界の、どこかに。
ふと。
風が吹いた。
訓練場の空気が揺れる。
その瞬間。
わずかに、胸がざわついた。
(……今のは)
ほんの一瞬。
何かが引っかかった。
だが、それはすぐに消える。
「どうかされました?」
「……いや」
首を振る。
「何でもない」
まだ見ぬ誰か。
まだ知らぬ存在。
その出会いが、すべてを変える。
それだけは、確信している。
クリストファーは、再び剣を取った。
運命が訪れるその時まで、準備を怠るつもりはなかった。




