35
ドラグレシア竜大国王宮。
王太子執務室。
クリストファーは、まるで何かに追い立てられるように執務室へ籠もっていた。
山のように積まれた書類。
侍従達が休息を勧めるほどの仕事量を、彼は黙々と片付け続けていた。
「殿下、少しはお休みを……」
「必要ない」
低く返された声に、侍従はそれ以上言えなくなる。
羽根ペンを走らせる音だけが静かな部屋に響いた。
クリストファーの顔色は悪い。
眠っていないのは誰の目にも明らかだった。
だが彼は止まらない。
止まれば考えてしまうからだ。
――サラの事を。
彼女が笑った顔。
美味しそうにスイーツを食べる姿。
市場で楽しそうに目を輝かせていた様子。
そして。
「……帰る、のか」
ぽつりと零れた声は、あまりにも弱々しかった。
サラはルーナ神聖国へ帰る。
それは分かっていた。
最初から、いつか終わる時間だった。
だが。
クリストファーはいつの間にか、
彼女が隣にいる未来を当たり前のように思っていたのだ。
「クリス」
ダレンが執務室へ入った瞬間だった。
クリストファーの手から羽根ペンが落ちる。
カラン、と乾いた音。
次の瞬間。
「……っ」
彼は机へ突っ伏すように倒れ込んだ。
「クリス!?」
ダレンが慌てて駆け寄る。
熱はない。
だが、顔色が真っ青だった。
ゆっくりと開かれた青色の瞳は、ひどく疲れている。
「……仕事を、続ける」
「無理だ馬鹿!!」
珍しくダレンが怒鳴った。
「お前、三日まともに寝てないだろ!」
「平気だ」
「平気な奴は倒れない!」
クリストファーは黙り込む。
その沈黙だけで、ダレンには十分だった。
彼はずっと耐えていたのだ。
サラが帰る事実を。
つがいでありながら、手を伸ばせない現実を。
ダレンはクリストファーのそんな様子が耐えられなかった。
クリスの何がダメだったのか、
聞いても何も良くはならないかもしれない、
しかし聞かずにはいられなかった。
侍従にクリストファーを預け、よく知った一軒家へと向かった。
ドンドンと扉を叩く。
中から出てきたのはミレナだった。
「サラは?」
「バイトに出かけています」
そうだ、今はカツレツの店で働いている時間だ、
そんな事も頭から抜ける程、焦っていたのかと自嘲する。
「ダレン。サラは、クリスの事が好きです」
「はあ?」
いきなり、しかも思いがけない事を聞いて困惑する。
サラがクリスの事が好き?
ならばなぜプロポーズを受けなかったんだ?
「ですが」
レミナは続ける。
「サラはお父様と約束をされています」
「約束?」
「三年間だけ自由に生きる、と」
ダレンの目が見開かれる。
「三年後は、お父様が決めた方と結婚すると」
「……なんだそれ」
「ですので、お父様の許可さえいただければ……
サラはクリスと結婚できます」
ダレンは勢いよく踵を返す。
「それを早く言え!!
つまり親父さんをどうにか説得すればいいんだな!?」
レミナは珍しく笑みを浮かべた。
「ええ」
ダレンは慌てて馬車を呼び、王宮に駆け込み、
クリストファーに報告するのではなく、竜王へ面会を求めた。
王族専用の応接室。
竜王は腕を組み、厳しい顔で話を聞いていた。
隣には竜妃。
「つまり」
竜王が口を開く。
「サラ嬢の父親が認めればよいのだな?」
「はい」
ダレンは頷いた。
「サラは父親を大切にしています。許可なく結婚する事はありません」
竜妃が扇を閉じる。
「でしたら簡単ですわ」
「竜妃様?」
「お願いすればよろしいのです」
さらりと言い放つ竜妃に、ダレンが瞬く。
だが次の瞬間、竜王は真顔で頷いた。
「うむ、我が息子の幸せがかかっている」
その言葉に、
「誠意を見せる事が大切です」
竜妃も頷く。
「正式な手紙を送りましょう」
その場で、竜王直々。
そして、貴族令嬢を代表してジェニファー、
侍女を代表してリリアが手紙を書く事になった。
「……リリアまで書くですか?」
「リリアはサラに心底惚れこんでいます、
王宮侍女全てが味方だと知ると、お父様も安心されるでしょう」
ふわりと微笑む竜妃。
その事はすぐさま伝達がなされた。
次の日。
ダレンはミレナの元を訪れていた。
重厚な封蝋。
ドラグレシア王家の紋章。
普通なら震え上がる代物だ。
だが、ミレナは手紙を見ても平然としていた。
「……王家の紋章の手紙を見ても驚かないんだな」
ダレンが感心したように言う。
ミレナはいつもの無表情だ。
「まあ」
とだけ返す。
まるで、すべてを理解しているような顔だった。
ダレンは首を傾げる。
「?」
ミレナは手紙を丁寧に受け取りながら言う。
「サラのお父様には、私が責任を持ってお届けします」
「よろしく頼む」
ダレンは深々と頭を下げた。
そして、やっと、サラの同居人という事は、
ミレナも普通の人物ではないなという結論に至ったのだった。




