34
夜は、静かだった。
王都の喧騒から少し離れた一軒家。
灯りは最低限、外から見ればただの平民の家にしか見えない。
(……落ち着かないわ)
サラは、小さく息を吐いた。
椅子に腰掛け、ぼんやりとテーブルを見つめる。
何も置かれていない木の天板。
そこに、さっきの光景が重なる。
夜景。
風。
そして――
(……あの人)
クリスの顔。
まっすぐな瞳。
迷いのない声。
あの言葉。
「……私と、結婚してほしい」
思い出した瞬間、胸の奥が強く締め付けられる。
最初に噴水の前で告げられた時とは明らかに違う、
”嬉しい”と思った。
その手を取ってしまいたかった。
(やめて)
自分で考えておきながら、すぐに否定する。
これ以上考えると、揺らぐ。
揺らいではいけない。
そう、分かっているのに。
「……サラ」
背後から、声がした。
振り向かなくても分かる。
ミレナだ。
気配も、足音も消していないのに、気づかなかった。
(それだけ余裕がない、ってことね)
「どうしたの?」
できるだけ、いつも通りに返す。
それでも――
「クリスのこと、好きですよね」
迷いのない一言。
まっすぐすぎる言葉。
(……やっぱり)
心のどこかで、来ると思っていた。
今日の自分の様子を見て、だいたいの所を察したのだろう。
ミレナは、こういうところを見逃さない。
「……いきなりね」
「いきなりではありません」
淡々とした声。
感情は乗っていない。
だが、その分、逃げ場がない。
「ずっと見ていましたから」
その言葉に、サラはわずかに目を伏せた。
私の心なんて、筒抜けなのだろう。
嘘などミレナには通じない。
(……本当に、困る子)
心の中でそう思いながらも、わずかに口元が緩む。
だが、それも一瞬。
すぐに消える。
「……そうね」
小さく、認める。
それだけで、十分だった。
沈黙が落ちる。
だが、それは重いものではない。
むしろ、次の言葉を待つ静けさ。
そして――
「では、駆け落ちしますか」
あまりにもあっさりと。
まるで、明日の予定でも聞くかのように。
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
予想外すぎる言葉だった。
「駆け落ち、です」
ミレナは繰り返す。
真顔で。
冗談の気配はない。
「サラが望むなら、準備はできます」
「……何を言ってるの」
「事実です」
淡々とした説明が続く。
「資金は十分にあります。身分も新しく用意できます。国外へ出ることも可能です」
よく考えると、現実的な提案だと思い当たる、
決して夢物語ではない、実行可能な話。
(……この子、本気だわ)
サラは、額に手を当てたくなった。
だが――ほんの一瞬だけ。
(……できるのなら)
そんな考えが、頭をよぎった。
すべてを捨てて、何もかも放り出して、ただ、あの人と――
(……駄目よ)
即座に、その思考を切り捨てる。
選んではいけない。
ゆっくりと、顔を上げる。
「しないわ」
はっきりと、言う。
迷いのない声で。
自分に言い聞かせるように。
ミレナは、わずかに首を傾げた。
「理由を伺っても?」
「簡単なことよ」
サラは、静かに息を整えた。
言葉を選ぶ。
逃げないために。
誤魔化さないために。
「この国に来る時約束したの」
それは、何よりも重いもの。
「三年後には、父の決めた相手と結婚するって」
あの日、父と交わした約束。
あの怒り。
あの優しさ。
すべてを思い出す。
(……父は完全に味方だった)
だからこそ。
「裏切るわけにはいかない」
その一言に、すべてを込める。
ミレナは、少しだけ黙った。
だが、それで終わらない。
「それだけですか?」
静かに、問いを重ねる。
「……どういう意味?」
「“それだけ”であれば、優先順位は変えられます」
淡々とした分析。
「契約は、破棄可能です。代償は支払えます」
「違うわ」
即座に否定する。
強く。
はっきりと。
「そういう話じゃないの」
ミレナの言葉は、正しい。
理屈としては。
だが――
(そうじゃない)
「私は、公爵令嬢よ」
静かに言う。
その言葉には、重みがあった。
「その責務から逃げるつもりはないわ」
生まれた時から背負ってきたもの。
責任。
義務。
全て。
「背負っているものがある、それから逃げることはしないわ」
はっきりと、言い切る。
それが、私の生き方。
誰かに強制されたものではない。
(……私が決めた)
しばらくの沈黙。
ミレナは、やがて小さく頷いた。
「承知しました」
それだけ。
それ以上、何も言わない。
引くべきところで引く。
それがミレナだ。
しばらくして、ミレナが静かに部屋を出ていった。
扉が静かに閉まる。
一人になる。
静寂。
その中で――
(……好きよ)
誰にも聞こえない声で、呟く。
認めるしかない。
クリスのことが好きだと。
けれど――
(それでも)
選ばない。
選べない。
それが、ロザリー・トゥ・ステレット。
“サラ”としての時間は、終わりに近づいている。
胸に痛みが走る、それでも、自分に課せられたものを背負う覚悟から、
背を向ける事はできなかった。




