33(クリストファー視点)
夕暮れの名残が、街の輪郭を柔らかく縁取っていた。
王都の喧騒から少し離れた通り。
石畳はよく磨かれ、街灯の灯りが淡く反射している。
その一角にあるレストランは、決して大きくはない。
だが、扉の前に立つだけで分かる。
静かな品格。
豪奢すぎず、だが軽くもない。
中級貴族が良く利用する店として知られていて、
“男爵”として来るには少し背伸びした店。
何でもないというように店を案内しているが、
実は、政務が押すぐらいに、
大量の資料から悩みに悩んだ末、選んだ店である。
「ここ?」
隣でサラが小さく首を傾げる。
視線は店の外観を丁寧に辿っていた。
「素敵ね!」
その言葉に、わずかに胸が緩む。
店を選ぶ為の、時間、苦労が一気に報われた気持ちになる。
(頑張って選んでよかった)
扉を開ける。
中に入ると、柔らかな灯りと、バターと香草の混ざった香りが迎えた。
店内は広すぎず、テーブルの間隔も程よい。
会話が他の客に漏れないよう、絶妙に配置されている。
控えめな装飾。
だが、どれも質が高い。
貴族が利用するに相応しい品位を感じる。
ウエーターに案内されて案内された席に着く。
クリスが椅子を引くと、サラが自然に腰を下ろした、
その動作は自然だ。
(……やはりな)
改めて思う。
単なる平民だけではない事は、今までで明らかだ、
資産家という枠を超えている。
”特別に優れた存在”その事を動作一つで改めて感じる。
しかし、今はそれを追及する気はない。
目の前の時間の方が、遥かに重要だった。
最初に運ばれてきたのは、前菜だった、
白い皿の中央に、色彩が整然と配置されている。
薄くスライスされた鴨肉。
その上に、柑橘を使った透明感のあるソース。
周囲には、軽く火を通した季節の野菜。
「綺麗ね」
サラが、素直にそう言った。
「ダレンはも来れればよかったのにね」
今日はダレンはいない。
剣術の稽古で、指導者に急遽捕まって来れなくなったと説明したが、
これは嘘だ。
今日は最初から2人きりで過ごすつもりだった。
クリスの心臓はずっと音を立て続けている。
サラに聞こえるはずもないのに、気づかれないか心配になる程だ。
いや、こんなにも思っている事を気づいて欲しいのか・・・
複雑な思いを隠し、料理に手を伸ばす。
「味もいい」
そう言いながらも、確かに美味しいとは思うが、
半分ぐらい味が分からなくなっている自覚はあった。
「じゃあ、楽しみ」
サラがフォークを取る。
動きが、やはり美しい。
中級貴族の店であっても、まったく違和感ない。
そう、違和感がないのだ。
平民としては当然。
しかし、中級貴族としても、
王宮のパーティであっても違和感がない。
普通、平民がいきなり王宮のパーティに来れば、
どこか場違い感が出る、それがまるでなく、当然のように馴染んでいた。
場慣れし慣れている・・・
違和感がない事の違和感。
サラの事は大分知ってきたつもりだ、
ただ、まだまだ底が見えないという思いもある。
サラはそんなクリスの思考にはまったく気づかず、
一口料理を口にする。
わずかに、間。
そして――
「……美味しい」
その声は小さいが、確かな満足があった。
「鴨の脂が重くならないように、酸味で整えてる……?」
「そのようだね」
「へえ……面白いわね」
素直に感心している。
その様子に、自然と口元が緩む。
(……この表情は好きだ)
計算ではない。
純粋な興味。
それが伝わってくる。
次に出されたのは、スープ。
淡い黄金色。
表面には細かく刻まれた香草が浮かぶ。
一口すくうと、ほのかに湯気が立ち上る。
口に含めば、優しい旨味が広がる。
鶏と野菜を長時間煮出した、澄んだ味。
「……落ち着く味ね」
「派手さはないが、飽きない」
「ええ、ずっと飲んでいられそう」
サラは、静かに微笑んだ、その笑みに心が跳ねる。
メインは、肉料理だった、
厚みのある仔牛のロースト。
表面は香ばしく焼き上げられ、中は柔らかい。
ナイフを入れると、すっと刃が通る。
肉汁が、静かに溢れる。
付け合わせは、バターでソテーされたじゃがいもと、軽く火を通した豆。
ソースは赤ワインベース。
深い香り。
「……すごいわね」
サラが、少しだけ驚いたように言う。
「焼き加減が完璧……」
一口食べて、目を細める。
「……これは、贅沢」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
(……幸せだ)
思わず、そう言いたくなる。
その表情一つで、すべてが報われる気がした。
食事は、ゆっくりと進んだ。
急ぐ必要はない。
時間を味わうように。
会話も自然に続く。
料理の話。
街の話。
図書館の話。
どれも特別ではない。
だが――
(……心地いい)
無理がない。
沈黙すら、穏やかだ。
王宮ではあり得ない空気。
それが、ここにはあった。
店を出る頃には、夜が完全に訪れていた。
街灯が並び、石畳に光が落ちる。
人通りは少なく、静けさが広がる。
「少し歩こう、案内したい場所があるんだ」
「ええ」
短い返事。
だが、それで十分だった。
丘へと続く道。
緩やかな上り坂。
足音だけが、静かに響く。
やがて、視界が開けた。
そして――
夜景が、広がる、
王都全体が、一枚の絵のように広がり視線が釘付けになる。
無数の灯り。
整然と並ぶ光の筋。
遠くに流れる川には、灯りが揺れて映っている。
「……綺麗」
サラが、息を呑むように呟いた。
その声には、隠しきれない感動があった。
目を奪われている。
完全に、この景色に。
(……よかった)
心から、そう思う。
この瞬間のために、ここへ来た。
この顔が、見たかった。
「サラ」
名前を呼ぶ。
彼女が振り向く。
その一瞬で、決まる。
迷いは、ない。
一歩、前へ。
そして――
片膝をつく。
驚きが、わずかに伝わる。
だが、視線は逸らさない。
手を取る。
温もり。
細い指。
それを、そっと持ち上げ――
手の甲に、口づける。
「……私と、結婚してほしい」
静かに、だがはっきりと。
すべてを込めて。
沈黙。
夜の風。
遠くのざわめき。
すべてが遠のく。
サラは、しばらく何も言わなかった。
ただ、こちらを見ている。
そして――
ゆっくりと、目を伏せた。
「……ごめんなさい」
その声は、柔らかい。
だが、揺るがない拒絶。
(……そうか)
「困らせてすまない」
そう言って立ち上がる。
「ごめんなさい」
そう繰り返すサラに、首を振る。
笑顔を作ろうとして、失敗している事は自覚していた。
「帰ろう」
その言葉だけを絞り出すだけで精一杯だった。
王宮に戻ったあと、ダレンに首を振る。
ダレンは、
「そうか」
と、落ち込んだ顔をした。
心から、気持ちを分かってくれる人がいる事が救いだった。
「すまない、あんなに力になってくれたのに・・・」
「無理をしないでくれ」
これではどちらが上司か分からないと苦笑する。
ベッドに腰かけ、手のひらを見つめる、
彼女に出会って、色鮮やかだった世界が、
一気に真っ黒な世界になったようだった。
これからどう生きればいい?
竜神の血を引く者にとって、つがいは絶対だ。
その存在がいない。
サラは辺境伯令嬢を助けた時、褒章として養女となる事を断った、
身分や権力、財力、それらを必要とはしていない。
苦しい、苦しい、苦しい、
思わず、体を前に倒して、ぎゅっとちじこまる。
権力者として、無理矢理でも権力で縛るのが正しいと理解している、
しかし、そんな事はしたくないという、
一人の男としての気持ちがせめぎ合う。
さすがに、おかしいと思ったのだろう、
侍従が声をかけてきた。
「クリストファー様」
「一人にしてくれ」
自分でも、ひどい声だと思う、
侍従は何も悪くない、しかし余裕がなかった。
侍従は一瞬迷いを見せたが、部屋から出て行った。
頬に静かに涙が伝う。
私のつがい、私の半身。
諦めるべきだと分かっている、
それでもどうしても求めてしまう。
もう会えないのか?
それなら、もう生きている事自体が苦しい。
レストランでの胸の苦しさとはまったく別の、
切り裂くような苦しみに、クリストファーは包まれていた。




