32(リリア視点)
王宮の朝は早い。
まだ陽が完全に昇りきる前から、侍女たちは動き出している。
廊下は磨かれ、花は整えられ、
一日の始まりにふさわしい空気が作られていく。
その中で――
(……今日も、いつも通り)
リリアは静かに息を整えていた。
手元には、茶器。
磨き上げられたポットとカップ。
4代目前の竜妃によって描かれるようになった、
美しい花が繊細な模様になっている一級品の茶器だ。
そして――王宮専用に仕入れられた、最高級茶葉。
香りを確かめる。
湿度。
葉の状態。
すべて問題ない。
(完璧)
そうでなければならない。
リリアの役目は“完璧であること”
それ以上でも、それ以下でもない。
王都にある侍女になる為にある学園、
そこに入学できるのは、男爵から伯爵の令嬢のみ。
それだけに無事に卒業できればステータスになる。
そのうち3分の1が公爵家などに仕え、
またその3分の2が花嫁修業となっている。
王宮に勤められるのは、学園の中でも、
特に優秀な成績を収めたほんの限られたエリートのみ。
学園で最高の教育を受けて、
それで王宮に来てなお、訓練はかかせない。
リリア自身、先輩の侍女の凄さに、最初は圧倒された。
更に竜妃に仕える事が許されるのは、
ほんの一握りの侍女のみ。
お茶が美味しく入れられる事に自信はあるが、
そんな侍女はいくらでもいる、
王宮で勤められただけでも、両親には恩返しできただろう。
……そう思っていた。
「失礼いたします」
軽くノックをして、部屋に入る。
昨夜、客人として迎えられた女性の部屋。
サラ様。
名前だけは聞いていた。
詳しい素性は知らない。
リリアは余計なことは考えず、準備に入る。
国賓クラスの部屋にいる人物の事、
侍女ごときが詮索していいはずがない。
湯の温度。
蒸らしの時間。
注ぐ角度。
一つ一つを、正確に。
無駄な動きはない。
ただ、淡々と。
そして――
カップに注がれた紅茶から、柔らかな香りが立ち上る。
「おはようございます」
サラ様という客人から話しかけられてびっくりした。
しかも侍女である私に敬語だ、
どきどきしなからも何とか返す。
「おはようございます」
リリアは頭を下げる。
「朝の紅茶でございます」
「ありがとう」
貴族言葉ではない?
この部屋は国賓の部屋。
泊まる客は当然王族か高位貴族で、
それ相応の言葉遣い、振る舞いをしていた。
リリアは内心驚きながらも、紅茶を差し出す。
サラは、それを受け取り、一口。
そして――
「……美味しい」
その一言。
リリアの指先が、わずかに止まる。
「ブレスト山で取れた、最高級茶葉でございます」
リリアは答える。
「そうなの」
それが、いつもの答え。
だが――
次の言葉が、違った。
「……でも」
サラはカップを軽く傾けながら言う。
「あなたの腕がいいのね」
その瞬間。
時間が止まったように感じた。
「……え?」
思わず、声が漏れる。
自分でも信じられないほど、小さな声。
サラは自然に続ける。
「茶葉だけじゃ、ここまでにはならないわ」
何でもないことのように。
当たり前のように言う。
「お茶の淹れ方がとても上手いのね」
リリアの喉が、わずかに震える。
「名前は?」
その問い。
それは、あまりにも軽く。
だが――
リリアにとっては、重かった。
これまで何度も紅茶を淹れてきた。
しかし名前を聞かれたことは一度もない。
必要ないからだ。
侍女は、侍女。
しょせん機能の一つでしかない。
それが普通。
だから――
一瞬、言葉が出なかった。
「……リリアと、申します」
やっとの思いで、答える。
声が、少しだけ震えていた。
「リリア」
サラは、その名前を繰り返す。
確かめるように。
大切にするように。
「名前覚えたわ、ありがとう」
その一言で――
何かが、崩れた。
今までの全てが肯定され、報われた気分になった。
「……っ」
視界が、滲む。
慌てて顔を伏せる。
涙が落ちそうなのを何とか堪えた。
(国賓の前で泣くなんて……)
侍女としてあり得ない事だ。
(でも、嬉しい)
自分の技術が認められた。
だが、それ以上に――
(私を、見てくださった)
それが、何よりも大きかった。
「……ご、ご無礼を」
慌てて言う。
だが、サラは気にした様子もなく。
「いいのよ」
そう言って、ハンカチを渡して、私を怒らないように言って下さった。
その後、リリアには信じられないような事が起こった。
竜王。
竜妃。
そして、王太子。
それぞれに紅茶を淹れる。
王族にお茶を淹れるのは、専属の侍女の仕事、本来ならあり得ない事だ、
心臓が止まりそう思いをしながら淹れる。
手が震えそうになるのを、必死で抑える。
失敗は許されない。
震えそうな手をなんとか制御して、紅茶を差し出す。
一口、飲まれる。
沈黙。
そして――
竜王が、ふっと笑った。
「これが”つがい”が好きな味か」
竜妃も頷く。
「ええ、とてもよいわ」
王太子は、何も言わない、
だが、その表情は柔らかい。
リリアは冷や汗をかく、
サラ様が”次期竜王のつがい”だったなんて!
「リリア」
竜妃が名前を呼ぶ。
「はい」
「あなたは――」
一瞬、言葉を選び。
そして、微笑む。
「今後、王太子妃付きにします」
その言葉にリリアの思考が、止まる。
「……はい」
理解が追いつかない。
しかし竜妃の前で失礼はできない、
いつものくせで、なんとか「はい」とは返事ができた。
竜王は当然のように頷いている。
王太子も、静かに言う。
「サラが好きな味なら、それが一番だ」
それで、決まった。
あまりにもあっさりと。
(……王太子妃付き)
それは、侍女にとって最高位に近い役職。
夢に見た、自分には縁がないと思っていた場所。
(王太子妃は……)
サラ様
リリアの胸が、大きく脈打つ。
理解する。
自分の役目を。
そして――
(次期竜妃に仕える)
それが、どれほどの意味を持つのか。
深く、息を吸う。
そして、ゆっくりと頭を下げる。
「……心よりお仕え致します」
声が微かに震えるが、瞳には確かな意志が宿っていた。
部屋を出た後。
リリアは、静かに手を握りしめた。
(決めた)
心の中で、はっきりと。
(サラ様に、すべてを捧げる)
技術も。
時間も。
人生も。
すべて。
あの一言で、決まった。
「あなたの腕がいいのね」
その言葉を、何度も思い出す。
単なる侍女ではなく”リリア”を認めてくれたサラ様。
私に最高の道を下さったサラ様。
胸が熱くなる。
自然と、涙が滲む。
だが――今度は、止めなかった。




