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舞踏会の喧騒が遠くに消え、王都の灯りも静けさに包まれつつある頃。
ステレット公爵家の屋敷だけは、異様な空気に満ちていた。
重厚な扉が、乱暴に開かれる。
「ロザリー!」
低く、しかし抑えきれない怒気を含んだ声。
執務室の中央に立つ男――ステレット公爵は、
普段の冷静沈着な姿とはまるで別人のようだった。
鋭い眼光。握りしめられた拳。
その全てが、怒りを示している。
その視線の先にいるのは――
「お父様」
ロザリーは、いつもと変わらぬ様子で一礼した。
まるで、何事もなかったかのように。
「何が“お父様”だ!」
机を叩く音が響く。
「聞いたぞ……あの愚か者が、私の可愛いロザリーとの婚約を破棄したと!」
怒りが爆発する。
「しかもあろうことか、公の場で! 卒業パーティでだと!?」
信じられない、というより――許せない。
その感情が、言葉の端々から滲み出ていた。
「王族としての自覚はどこへ行った! 貴族社会への影響を何だと思っている!」
歩き回る。
苛立ちを抑えきれず、重い足音が床に響く。
「しかも相手が男爵令嬢だと!? ふざけるな……!
ステレット家を侮辱するにも程がある!」
空気が震える。
それほどの怒りだった。
だが。
「お父様」
ロザリーの声は、静かだった。
落ち着いていて、揺らがない。
「どうか、落ち着いてくださいませ」
「落ち着けるものか!」
即座に返ってくる。
「お前がどれだけの時間をかけて、どれだけの努力をしてきたと思っている!」
王太子妃教育。
礼儀作法、政治、歴史、経済、外交、語学。
幼い頃から積み上げてきたすべてが、今のロザリーを形作っている。
「それを……あの愚か者は、一言で!」
言葉が途切れる。
怒りが、言葉にしきれないほど膨れ上がっている。
ロザリーは、静かに父を見つめた。
(……本当に)
父は自分のことを、大切に思っているのだと改めて感じる。
だからこそ。
「お父様」
少しだけ、柔らかく声を落とす。
「私は、大丈夫です」
「……何がだ」
低い声。
まだ怒りは収まっていない。
「婚約が解消されたことも……これからのことも」
ロザリーは、まっすぐに父を見る。
「私は、何も失っておりません」
その言葉に、公爵の動きが止まった。
「……何を言っている」
「確かに、王太子妃という立場は失いました」
しかし、と続ける。
「それは、“私”そのものではありません」
静かに、はっきりと。
「私は、私です」
その言葉は、強かった。
誰にも揺るがされない、自分自身への確信。
公爵は、何も言えなくなる。
怒りが、少しだけ形を変える。
理解と――戸惑いへと。
「……ロザリー」
ゆっくりと、名を呼ぶ。
「お前は……本当に、それでいいのか」
問い。
父としての、純粋な問いだった。
ロザリーは、わずかに微笑む。
「はい」
迷いはなかった。
その様子を見て。
公爵は、大きく息を吐いた。
怒りが、完全に消えたわけではない。
だが、それ以上に――娘の意志を無視することはできない。
「……ならば」
椅子に腰を下ろす。
そして、ロザリーを見据える。
「お前の望みは何だ」
短く、だが重い言葉だった。
ただ慰めるのではない。
ただ守るのでもない。
娘の“意思”を問うている。
ロザリーは迷わず答える。
「――ドラグレシア竜大国へ行きたいのです」
公爵の眉が、わずかに動く。
「……何だと?」
「婚約破棄に伴う慰謝料で、渡航の許可をいただきたいのです」
淡々とした説明。
だが、その内容は決して軽くない。
「なぜだ」
短い問い。
ロザリーは、静かに答える。
「この国では、できなかったことがあるからです」
「……できなかったこと?」
「はい」
視線を少しだけ外す。
窓の外、夜の闇へと。
「私はこれまで、“決められた道”を歩いてまいりました」
王太子妃になるために。
それだけを考えて。
「ですが……それ以外の生き方を、私は知りません」
自嘲ではない。
ただの事実。
「ドラグレシア竜大国は、実力主義の国と聞いております」
教育水準が高く、技術も発展している。
そして。
「身分に関わらず、評価される国」
だからこそ。
「――そこで、自分が何をできるのかを知りたいのです」
静かな言葉。
だが、確かな意志がそこにあった。
公爵は、しばらく何も言わなかった。
ただ、娘を見つめる。
その目は、厳しく――そして優しい。
「まさか……平民として行くつもりか」
「はい」
即答だった。
「身分は明かしません」
「……馬鹿なことを」
思わず漏れる。
「お前が平民の生活など……」
「承知しております」
遮るように言う。
「ですが、それでも」
まっすぐに見返す。
「やってみたいのです」
沈黙。
重い沈黙が、部屋を満たす。
やがて。
公爵は、深く息を吐いた。
「……本気なのだな」
「はい」
迷いはない。
その答えに、公爵は、ゆっくりと立ち上がる。
「分かった」
短く、告げる。
「家は用意する、金もだ」
「……お父様」
「それは」
「最低限だ」
有無を言わせぬ口調。
だが、その目は――どこか嬉しそうだった。
「ただし、期限は三年だ」
ロザリーは、静かに頷く。
「三年後」
公爵の声が、わずかに重くなる。
「私が決めた相手と結婚してもらう」
条件。
父としての、譲れない一線。
ロザリーは、少しだけ目を閉じる。
そして。
「……承知いたしました」
父が私の未来を心配するのは当然だ、
結婚相手を決めるのは貴族の父親として当然の事、迷いはない。
「……全く」
公爵は、小さく笑う。
「本当に、私の娘だな」
無茶を言うところも。
それをやり遂げようとするところも。
ロザリーは、わずかに微笑む。
「ありがとうございます、お父様」
その笑みは――
これまでの“完璧な令嬢”のものとは、少し違っていた。
娘から、大切な父親に向けた、親愛の笑顔だった。




