17(ジェニファー視点)
もう一冊、サラの手元にある本に視線を向ける。
『存在と秩序論』
ジェニファーは声に出さずにタイトルを読み取った。
有名な古典哲学書で、貴族の間で教養の一部とされる本だ。
平民が読むような、一般的な読み物ではない。
しかも、サラの持つ本は原典に近い古典語で書かれている。
ジェニファー自身、現代語訳された本で読んでいて、
古典語は有名な箇所しか読めない。
内容も学者の見識を知っていればいいとされる程度、
公爵令嬢としてすら、それで十分とされている難解な本だ。
それを、平民が普通に机に置いている。
「その本は?」
サラが顔を上げる。
金の瞳。
その視線には、怯えも誇張もない。
「ああ、この本は図書館の本ではなく、私の本なの」
「サラさんの?」
「ええ」
「この国は本が身近に手に入って素晴らしいわ」
そう笑顔を輝かせるサラに返す言葉がなかった。
貴族なら自宅の館に、図書室を持つのは当然の事。
本を手にするのに苦労する事はない。
サラは平民だが、本ぐらい簡単に手に入れられるのでは?
私はサラがなぜここまで、本を手にして喜んでいるのか理解できなかった。
「確か一説に『秩序とは外界から付与されるものではなく、
存在そのものが内包する構造である』という文面があったわね」
すると、サラは本を手に取って、ページを捲る。
「ここね」
指示された文字を読む、確かに合っている。
サラが古典語を完全に理解している事に愕然となった。
「ごめんなさい、私、現代語訳で読んだの」
説明を聞き出す為に、あえて読めない振りをする。
「ああ、ごめんなさい」
サラは続ける。
「解釈がよく分からなくて・・・・」
「認識の仕方の話になるわ」
ジェニファーの呼吸が一瞬止まる。
「……どういうことですの?」
「同じ出来事でも、どう理解するかで意味が変わるってこと」
それは学者の見識よりずっと分かりやすい言葉だった。
恐らく、私のレベルに合わせてくれたのだろうと思う。
「だから秩序は外じゃなくて内にある」
何も言えない私に、少し困った顔でこう言ってくれた。
「古典って、言い回しがややこしい所があるから・・・」
自分に気を使ってくれたのだと知って、複雑な気持ちになる。
サラが完全に古典哲学を理解してる事。
知識を受け取るだけでなく、自分の中で組み直している。
それは教育の成果ではない。
思考の性質そのものといっていいだろう。
ジェニファーの指先がわずかに冷える。
幼い頃から積み上げてきた知識。
礼儀。政治。学問。
それらはすべて“積み上げ型”だった。
一段ずつ、正しい順序で上がる構造。
だが目の前の少女は違う。
階段を登っていない。
最初から“上にいる”ような思考をしている。
そして、その為の努力がどれほどかは、
今まで血を滲むような努力を積み重ねた自分が一番分かっている。
胸の奥にあった感情が、変わっていく。
もう嫉妬の感情はない。
完全なる敗北。
しかし、それは心地よい敗北だった。
自分が竜妃を目指していなければ、
サラの持つ資料、知識に感銘を受ける事はなかっただろう。
竜妃を目指したからこそ、その差が分かる。
その凄さを実感できる。
この方に竜妃になって頂きたい。
心からそう思った。
その夜。
フェルディナ公爵邸。
ジェニファーは書斎に立っていた。
父は書類を見ながら言う。
「何の用だ」
「婚約の件です、隣国大公家の三男との婚約を受けます」
父の手が止まる。
「理由は?」
父が驚いた顔をする。
次期竜妃を目指して、それ以外の道を閉ざしていたのは私自身だったからだ。
「私は、次期竜王のつがいには選ばれません」
「本当にいいのか?」
「サラ様にお会いしました、
そして、確信しました、サラ様こそが”つがい”であると」
その一言で父の目がわずかに細くなる。
「平民だと聞いたが」
「はい」
否定しない。
逃げない。
誇りのまま認める。
「私は彼女に勝てません」
静かに続ける。
「少なくとも“同じ土俵”では」
沈黙。
「だから立ち位置を変えます」
ジェニファーははっきりと言った。
「競争者ではなく、支援者に」
父の眉が動く。
「支援?」
「はい」
「彼女は政治経験もなく、貴族社会の構造も知らないでしょう、
竜妃になる為の教育も受けていません、
このままでは、いずれ苦労する事が見えています」
書斎が静まる。
ジェニファーは続ける。
「だから私は後ろ盾になります、
婚姻で外部権力を持ち、政治的にサラ様を守る、
同時に、貴族社会の圧力を緩和致します」
父は複雑な顔で言った。
「……惜しくはないのか?あれ程の努力をしたのだろう」
「サラ様の努力は私以上でした」
その言葉に、公爵は黙った。
そして、ゆっくりと話す。
「フェルディナ家はサラ様を、次期竜王の”つがい”と認め、
後ろ盾となる、それでよいな」
「お父様」
自分だけがサラ様の味方になるつもりだったのに、
公爵である父までが味方になってくれる、
自分の意思を最大限尊重してくれる父に、感謝の念しかなかった。
「ありがとうございます」
ジェニファーは父に深く礼をした。
書斎を出た後。
夜風が頬を撫でる。
ジェニファーは空を見上げる。
(私は負けた)
だがそれは終わりではない。
「支える側として」
小さく呟く。
それは敗北ではなく、選択だった。
そしてその選択こそが――
彼女の誇りだった。




