16(ジェニファー視点)
高級住宅が並ぶエリア。
その中でもひと際大きくて優美な館。
贅を尽くした一室で、ジェニファー・フォン・フェルディナは、
ゆっくりとカップを持ち上げた。
白磁の器に注がれた紅茶は、完璧な温度を保っている。
香りも、色も、申し分ない。
だが――
「……平民、ですって」
小さく漏れた言葉は、静かな部屋の中でやけに重く響いた。
対面に控える侍女が、わずかに視線を伏せる。
ジェニファーは気づかないふりをした。
それが礼儀であり、距離だった。
次期竜王の“つがい”
それはこの国において、絶対的な意味を持つ。
権力ではない。
財力でもない
血筋や家柄ですらない。
ただ一つ。
選ばれるかどうか。
それだけで、すべてが決まる。
だからこそ、ジェニファーは努力してきた。
幼い頃から。
誰よりも早く起き、
誰よりも長く学び、
誰よりも正しく振る舞う。
礼儀作法。
政治。
外交。
経済。
歴史。
哲学。
芸術。
“公爵令嬢として”ではない。
“選ばれる存在になるために”。
そして――
クリストファー様の隣に立つために。
王太子としてではなく、一人の男性として愛していた為に……
(……それなのに)
指先に、わずかに力が入る。
「その方が、次期竜王の”つがい”ではないかと……」
侍女の報告が、頭の中で繰り返される。
平民。
教育歴も不確か。
(認められるはずがない)
「クリストファー様はその平民を愛しておられるの?」
「はい、”運命の相手”とおっしゃっているようです」
自分が愛した相手が、他の女性を選ぶ、
その女性が自分より優れていれば、まだ納得もできる、
しかし、単なる平民ではとても相応しいとは思えない。
しかも王族の伴侶だ、得体の知れない存在であっていいはずがない。
(そう、思っていた)
だが。
「……盗賊を、制圧した?」
ジェニファーは、ゆっくりと問い返した。
「はい。複数の証言がございます」
「一人で?」
「護衛騎士がいたようですが、
実際制圧されたのは”つがい”だという事です」
護衛騎士がいたのに、自分で制圧?
詳しく話を聞いて、平民の娘をかばったと聞いて、
どくんと胸が音を立てた。
「平民出身という事で、自分達を理解してくれる人物だと、
平民の娘をかばった事と相まって、すでにすごい人気だそうです」
沈黙が落ちる。
「ただ、情報の規制が行われているらしく、
”つがい”である情報は侍女のネットワークのみで流れ、
一般市民は何も知らないようです」
カップの中の紅茶が、微かに揺れた。
味は一流のはずだ、ただ、今は味がまったく分からない。
(……あり得ない)
普通なら。
だが、この国には“普通ではない者”が存在する。
(つがい)
その言葉が、胸の奥に落ちる。
自分が認めるかどうかなんて何も意味を持たない事は頭で理解してる。
次期竜王の直感が全て。
それでも、どんな人物か、自分で調べないとと思った。
数日後。
ジェニファーは、王都中央図書館の前に立っていた。
本など欲しいと言えば、いくらでも用意される。
自分の屋敷の図書室にある本も膨大だ。
なので、実際に足を踏み入れたのは初めてだった。
知識の殿堂。
そして――
(あの女性がいる場所)
侍女からの報告は正確だった。
“サラ”という名の平民は、ほぼ毎日ここに通っている。
(確認しなくては)
噂ではなく、自分の目で。
それがフェルディナ家の流儀。
館内に足を踏み入れる。
静寂。
紙の擦れる音と、控えめな足音だけが響く。
(……どこにいるのかしら)
視線を巡らせる。
そして――
見つけた。
奥の閲覧席。
ピンクの髪に金の目。
めったにない特徴的な外見だ、間違いないだろう。
一人の少女が、本に向かっている。
外見が特徴的というだけで、服装も平民そのもの、
盗賊を制圧したというのが信じられないほど、特に目を引く訳でもない。
どこにでもいる普通の平民に見える。
ジェニファーは歩み寄る。
近づくにつれ、机の上が見えてくる。
広げられた本。
書き込まれた紙。
そして――
(……これは)
思考が、止まった。
「――少しよろしいでしょうか」
声をかける。
少女が顔を上げる。
金の瞳。
静かで、澄んだ光。
「どうかされましたか?」
落ち着いた声。
怯えも、遠慮もない。
「私はジェニファーと申します」
「初めまして、ジェニファーさん」
人のよさそうな笑顔。
裏表もなく、社交界の駆け引きに慣れた自分からしたら、
赤子の手を捻るように蹴落とせる存在に見える。
「あの、その見てらっしゃる資料について、
少しお話をお伺いしたいのですが」
サラは、ああというように資料を見た。
「では、談話室に移動しましょう」
そう提案され、談話室に移動する。
「お名前をお伺いしても」
すでにサラという名前は知っているが、
怪しまれない為にあえて言う。
「サラといいます」
相変わらずの笑顔、警戒などみじんもない。
この笑顔だけ見ると”つがい”とはとても信じられない。
(しかし・・・・)
机に広げられていた資料。
「……これは、小麦の栽培記録ですわね」
問いかける。
「ええ、1000年間の推移を見てるの」
ジェニファーは、言葉を失った。
(……1000年?)
収穫量。
気候変動。
土地利用。
そして、手元の目もに書き込まれた文字。
「……連作障害?」
思わず声に出る。
「同じ作物を育て続けると、土地が痩せる事ね」
サラが説明する。
まるで、当然のことのように。
「だから輪作するのね。豆類を挟んだり」
「……」
どこの地域でどのぐらい小麦が採れるかは知識としてある。
しかし、1000年間の推移を調べた事もなければ、
どうやってその小麦が採れるようになったか調べた事はなかった。
あくまで”公爵令嬢”として教えられた知識だけ。
それで十分だと思っていた。
「こちらは?」
「ああ、肥料の資料よ、作物の収穫量を上げるのには重要だから」
サラはページをめくる。
「動物のふん。あと貝殻」
「貝殻?」
「砕いて土に混ぜるの。石灰になるから」
ジェニファーの思考が追いつかない。
「焼き畑も有効だけど、やりすぎるとダメね」
さらりと続ける。
「酸性かアルカリ性か、土の性質を見る事、
その上で植える植物、時期を見る事が大切ね」
ぽかんとサラを見る事しかできなかった。
「……難しかったかしら?」
ジェニファーは答えられなかった。
(……違う)
頭の中で、何かが崩れていく。
自分も学んできたつもりだった、農業も、経済も。
だがそれは――“知識として”
一方、サラは。
(繋げている)
点と点を。
過去と現在を。
理論と実践を。
一つの“理解”として。
「どうして、そこまで調べていらっしゃるの?」
気づけば、そう聞いていた。
サラは少しだけ考える。
「興味があるから」
「それだけですの?」
「それだけ」
迷いがない。
「でもね」
サラは本を軽く叩く。
「食べ物って、全部の基本でしょ」
ジェニファーの心臓が、強く鳴った。
「安定しないと、全部崩れる」
その言葉は重かった、同じことを自分も学んできた。
だがそれは、“知識として”でしかなかった。
しかし、サラは民の生活の基礎として実感している。
沈黙。
静かな空間。
サラにあるのは親しみを込めた笑顔。
持っている資料に興味を持った女の子に、
親切に説明してるだけ。
それが逆に自分の足元が崩れる気がした。




