第八話
「……ねえフェリックス。このままじゃわたしたち、この屋敷の調度品と一緒に風化してしまうわ」
「奇遇だね、エルイーゼ。僕も今、父さんの自慢のコレクションの一部になった気分だったところだよ」
モーニングルームのソファで分厚い参考書を盾に、こっそり小説を読んでいたフェリックスが顔を上げる。廊下の先では、父が新しく手に入れたルネサンス期の絵画を巡って使用人たちが右往左往していた。ギャラリーの配置換えに余念がない父は「うーん、どうしようかなあ……」「いや、光の当たり方が……」と、朝からずっと煮え切らない声を屋敷中に響かせている。
「お父様ったら、また今週末にお客様を呼んで自慢するつもりよ。変わり映えのしない、重苦しい宗教画や歴史画ばかり……」
エルイーゼがため息混じりにフェリックスの小説を覗き込み、「ねえ、早くめくって」「まだ読み切ってないよ、待って」と二人は小競り合いを始める。そこへ執事が音もなく現れ、エルイーゼに向かって恭しく頭を下げた。
「お嬢様、例の画家が参りました」
「ルートヴィヒが⁉︎ まあ、やっとね!」
まさに願ってもない救いの声に、エルイーゼはフェリックスを突き飛ばすような勢いで立ち上がった。不意を突かれたフェリックスが本を落としそうになるのも、今の彼女の目には入らない。
直後、扉の隙間から「おはよー、なんか今日取り込み中っぽいけど……」と、いつもの気怠げな調子でルートヴィヒが顔を出した。……が、窓際のソファで優雅に茶を嗜んでいる男爵夫人の姿を認めた瞬間、彼の動きが凍りつく。
ルートヴィヒは視線を泳がせながら、片手ですばやくシャツの釦を一番上まで留めた。この屋敷に通ううちに、さすがの彼もこの家の女主人の前でだけは、野良犬のままではいられないことを学んでいたのだ。
「……失礼しました。リーベンフェルス男爵夫人、お初にお目にかかります。……あ、いえ。お目にかかれて、光栄です」
喉の奥で無理やり丁寧さを絞り出したような声に、フェリックスが「……ぶふっ」と思わず本で顔を隠す中、ルートヴィヒは小脇に抱えていた大きなキャンバスを慎重にイーゼルへと立てかけた。
「本日は、お嬢様の肖像画が完成いたしましたので……その、お持ちいたしました」
「やっぱりね! ついにできたのね! 待っていたわ、ルートヴィヒ!」
エルイーゼが弾けるような声で叫び、彼の周囲を蝶のように舞い踊る。その無邪気な突進に、彼は「ちょっと待って、落ち着いてね……」と、夫人の手前、精一杯の抑制を効かせた声で制した。不慣れな敬語と彼の困惑に、夫人は怪訝そうな表情を浮かべる。ところが、ルートヴィヒが覆っていた布をさらりと払い落とした瞬間、その場の空気が一変した。
キャンバスを埋め尽くしていたのは、あの広大な庭園を溢れさせる、眩いばかりの光の奔流だ。白や黄色、薄紫の筆致が無数に踊り、それが風に揺れる花々や新緑の木々となり、光そのものと溶け合っている。
その光の渦の中心に立つエルイーゼのパールブルーのドレスは、周囲の緑や花々の色、そして黄金色の光を反射して、まるで七色に輝く水の精のようだった。荒々しく、迷いのない筆致の重なりが、風に遊ぶ金褐色の髪の束を、高鳴る鼓動を伝える頬の赤みを、今にも「ねえ、ルートヴィヒ!」と叫び出しそうなほど生々しい、唇の動きを形作っている。
「……まあ」
夫人が歩み寄り、キャンバスの前に立ち尽くした。誰もが釘付けになり、お喋りなエルイーゼさえ、短く感嘆の息を漏らしたあと二の句が継げなくなった。
「今まで見てきたどの肖像画とも違いますわね。筆致が荒々しくて、まるで息遣いが聞こえてくるよう」
夫人は震える指先を、まだ絵具の匂いが残るキャンバスの中の娘に、触れんばかりに近づける。
「不思議ね。この絵の中のエルイーゼは、わたくしの愛する娘そのものだわ。今まで描かせたどんな完璧な絵よりも、この子が可愛らしく、瑞々しく見える……」
エルイーゼはしばらく、そこに描かれた自分を見つめていたが、やがて沈黙を破ったのは彼女の迷いのない足音だった。突然ずかずかとルートヴィヒに歩み寄ると、至近距離から彼をぐいと見上げる。
「……やっぱり、あなたは魔法使いだわ! この光、この風……ルートヴィヒ、あなたはわたしの魂の色を見つけてくれたのね」
あまりの熱量にルートヴィヒは少し仰け反りながらも、「……エルイーゼがそう言うなら、魔法ってことにしておくけど」と照れくさそうに視線を逸らした。
その傍らでフェリックスもまた、真摯な眼差しで絵を見つめている。妹がこれほどまでに鮮烈な光を放つ存在なのだと、兄である自分ですら、この無作法な画家に突きつけられるまで気づいていなかったのかもしれない。
「……認めざるを得ないな。君の筆は、確かに現実以上の真実を写しているよ」
感心したように呟いたフェリックスが、ふと隣に立つエルイーゼと視線を合わせた。二人は何事かを通じ合わせたように同時に深く頷くと、身を寄せてヒソヒソと密談を始めた。
「……え、何? 怖いんだけど」
ルートヴィヒが眉を寄せ、一歩後ずさる。しかし逃がさないと言わんばかりにエルイーゼが彼の手を掴み、ヒソヒソ話の輪の中に無理やり引き入れた。
「いい? この絵をお父様のギャラリーの一等席に飾るのよ。あんなカビの生えたような宗教画の隣に、この新しい風を吹かせましょう!」
「だからルートヴィヒ、君には今度の内覧会に出席してもらう。父さんが招待した名士たちの前で、この絵の画家として堂々と立ってもらうよ」
「え? 嫌だけど、普通に」
ルートヴィヒは即座に首を振った。華やかな社交界も、自分を品定めするような貴族たちの視線も、彼にとってはテレピン油の匂いよりも不快なものだ。しかし兄妹の攻撃は止まらない。
「いいのか? あのアカデミーの古臭い伝統に縛られて君を落とした連中も来るんだよ。奴らの鼻を明かしてやる絶好の機会だ!」
「そうよ、あの方たちに教えて差し上げるのよ。あなたたちが理解できなかった天才が、今ここでウィーンの新しい風を描いているんだって!」
「いや、別にいいし……。あいつらの鼻がどうなろうと知ったこっちゃないし……」
力なく反論するが、一度火がついた二人はもう誰にも止められなかった。エルイーゼはすでに「どんな服を着せようかしら」と彼の全身を眺め、フェリックスは「まずはそのボサボサ頭をどうにかしないとな」と検討に入っている。
「聞いてる? おれ、帰っていい? 今すぐ帰って寝たいんだけど」
無駄な抵抗だと悟りながらも、ルートヴィヒは天井を仰いだ。目の前の二人の瞳には、彼が描いた絵と同じくらい鮮烈で自由な色が躍っていた。




