第七話
嵐のような姉からようやく解放された帰りの馬車の中、ぐったりと項垂れて「……信じられない。あのような不審な男を屋敷に招き入れるとは……」と小声でこぼす兄を横目に、エルイーゼはふふ、と喉の奥で小さく笑った。
いつ、どんな風に彼に伝えて驚かせようか。姉の洗礼を受ける彼の姿を想像すると、エルイーゼの胸の内には悪戯っぽい喜びが込み上げてくる。
しかし、そんなエルイーゼの企みとは裏腹に、陽光が強まるにつれ、あの日課となっていたひとときは季節に押し流されるように終わりを告げた。肖像画はほぼ形になり、「あとはこっちで描き込んで仕上げるから」と、ルートヴィヒは屋敷へ足を運ばなくなったのだ。
紹介する機会を逃したまま、エルイーゼはモーニングルームの窓辺で退屈を持て余していた。イーゼルの消えた庭を眺め、いつになったらあの無作法な絵描きに会えるのかと考えていると、不意に背後から軽やかな声がかかる。
「エルイーゼ。これから出かけるんだけど、君もついてこない?」
「お出かけ? どこへ行くの、フェリックス」
「それは着いてからのお楽しみ。どうする? ここでぼーっと庭の蝶を数えながら一日を終えるか、それとももう少し面白いものを見に行くか」
行き先を教えてもらえないのは少し不安だが、今のエルイーゼにとっては退屈こそが最大の敵だった。
「……そうね、行きましょう。ここで干からびているよりはマシだわ!」
二人を乗せた馬車は住み慣れたインネレ・シュタットの静寂を抜け、太陽の光を跳ね返すドナウ運河を颯爽と渡っていく。景色は次第に賑やかさを増し、馬車は活気溢れるレオポルトシュタットへと滑り込んだ。
「ねえ、本当にどこへ行くの? どんどん道が狭くなっていくけれど」
エルイーゼが窓の外を覗いて身を乗り出す。馬車は迷路のような路地裏へと迷い込み、軒を連ねる商店や行き交う人々の活気に揉まれながら、何度か急な角を曲がる。そして、煤けた石造りの建物の前で不意に止まった。
「ほら、着いたよ。降りてごらん。箱入り娘には刺激が強すぎるかな?」
目の前にそびえ立っていたのは、歴史を感じさせる古い集合住宅だった。壁の塗装はあちこち剥げ落ちているが、見上げれば開け放たれたいくつもの窓から色とりどりの洗濯物が旗のように垂れ下がり、風を受けて賑やかに棚引いている。
「……すごい! 一体いつから建っているのかしら。ねえ、ここってきっと、誰にも言っていない秘密をたくさん抱えてるんじゃない?」
フェリックスは「いい反応だね」と満足げに頷くと、慣れた足取りで一段ごとにギィギィと鳴る外階段をトントンと上がっていった。エルイーゼはドレスの裾が汚れないように持ち上げ、冒険心と少しの不安を抱えて兄の背中を追う。
「それで、ここに何の用があるの?」
「いいから。びっくりするよ」
たどり着いた最上階。そこにある、お世辞にも立派とは言えない古い木の扉を、フェリックスは驚くほど無遠慮にドンドンと拳で叩きつけた。
「おい、ルートヴィヒ! 開けろ!」
「……えっ! ルートヴィヒ?」
驚きに声が少しひっくり返った。まさか、あの風のような画家がこんな場所に住んでいるなんて。
中から椅子を引きずるような、何かが転がるようなドタドタという音が聞こえてきて、やがて鍵が外れる鈍い音がした。ひょい、と顔を出したのは、やはりルートヴィヒだった。寝癖のついた髪を雑にかき乱し、上着の袖をまくった彼は、眩しそうに目を細めて二人を見やる。
「……え、なんでいるの? ここ教えたっけ?」
驚くというよりはどこか間の抜けた声だった。彼はドアの枠にだらしなく寄りかかり、眠たげな目で困惑を浮かべている。
「姉さんに教えてもらった」
「誰だよ。姉さん会ったことないけど」
「うちの姉さんは、知りたいと思ったことはドナウの底に沈んだ石ころの数でも調べ上げる人なんだ」
「怖……ほんと誰?」
「とにかく、邪魔するよ。エルイーゼが退屈して死にそうだったからね」
「あ、ちょっと、勝手に……。足元気をつけてよ。筆とか絵の具踏んだら怒るから」
口では文句を垂れつつも、本気で追い出す素振りは見せない。むしろ「勝手にしろよ」と言わんばかりに部屋の奥へとふらふら戻っていく。
言葉通り、部屋の中は凄まじい混沌だった。床には使いかけのチューブが転がり、脱ぎ捨てられたシャツとスケッチブックが境界線なく混ざり合っている。充満しているのは、鼻をつくようなツンとしたテレピン油の匂いと、重たい油絵具の匂いだった。
「ねえルートヴィヒ、どうして筆を床に置くの? 棚に並べればいいのに!」
エルイーゼは呆れ半分驚き半分で声を上げたが、その瞳は見たこともないほどキラキラと輝いている。部屋の中央に鎮座する大きなイーゼル、壁際に無造作に立てかけられた大量のキャンバス。拭い去られた絵具のついた布切れさえ、彼女の目には美しく映った。
「これは何? この色の混ざり方、まるでお菓子が溶けたみたいだわ!」
「エルイーゼ、袖がパレットに当たるって……。それはただの試し塗りの残骸。そんなに珍しいもんじゃないでしょ」
「いいえ、珍しいわ。ここにあるもの全部、あなたの頭の中がこぼれ落ちたみたいでとっても素敵!」
はしゃぎ回る妹の横で、フェリックスはといえば、勝手に壁際のソファにどっかりと腰を下ろしていた。使い込まれてクタクタになった毛布が投げ出されたその場所からは、不健康な生活がありありと伝わってくる。
「……それにしてもこの部屋、死ぬほど暑いね。よくこんな場所に住めるよ」
フェリックスが眉を寄せると、ルートヴィヒは「そうだよ」と、さも当然のように肩をすくめた。
「夏は地獄みたいに暑いし、冬は凍えるほど寒い。それが屋根裏部屋の特権だろ」
「なんでこんなところにしたの?」
「家賃安いから。……あと、窓が大きくて好き、ってそれだけ。光がなきゃ描けないもん」
ルートヴィヒはそう言って、さらに「あー、人増えたから余計に暑い」とぼやきながら、無造作に上着を脱ぎ捨てた。それだけでは足りなかったのか、さらにその下のベストのボタンまで指をかける。
「おいルートヴィヒ。待て、やめろ」
ソファでくつろいでいたフェリックスが、弾かれたように身を乗り出して彼の手首を掴んだ。
「僕の可愛い妹の前だぞ。淑女に対する最低限の礼儀ってものがあるだろ」
「なんで? ちゃんとシャツ着てるじゃん」
「シャツ一枚なのが問題なんだよ」
「いや、ほんと分かんないって。淑女がどうとか言われてもさ。うちに来る子、こんなの気にしないし。むしろ……」
「黙れ。余計なこと言うな」
フェリックスは顔を赤くしてルートヴィヒの口を力任せに押さえつけた。彼は幼少期から完璧な淑女への配慮とマナーを叩き込まれて育っているのだ。
「……そんなに必死にならなくても。見てよ、おたくの淑女とやらはこっちに一ミリも興味もってないよ」
指し示した先では、エルイーゼが二人の騒ぎなど完全に無視して、積み上げられたスケッチブックに釘付けになっていた。彼女が今見ているページを閉じて、隣のもう一冊を手に取った瞬間、ルートヴィヒが「あ」と少しだけ焦った顔をする。
「フェリックス、あのスケッチブック取り上げて。あのー……こう、風通しのいい格好した人たちの練習用だから」
エルイーゼが今まさにその表紙をめくろうとした瞬間、フェリックスがひったくるようにぶん取った。「あ! 返して!」とエルイーゼは一瞬だけ頬を膨らませて抗議したが、すぐにその怒りは散っていく。
今の彼女には、一つのことに怒って立ち止まっている暇さえないのだ。好奇心の赴くままに視線を走らせ、ついに最高の考えを思いついたように顔を輝かせた。
「……ねえ、わたしも描いてみたいわ! ルートヴィヒ、これ貸して? 描かせてちょうだい!」
「えー……別にいいけどさあ。そんな安物の紙と、使い古しの鉛筆で満足できるの?」
「いいの! この部屋の空気が混ざった道具じゃないと、魔法は起きないもの!」
彼女はぐいぐいとルートヴィヒを光の当たる場所へと押しやった。さらに、ソファでスケッチブックを死守していたフェリックスの腕を力強く引っ張り上げる。
「お題はルートヴィヒ。上手く描けた方の勝ちよ」
「僕も描くの? ……勝敗の基準は?」
「わたしが決めるわ」
「それは公平なのか?」
「とっても公平よ」
まったく躊躇のない返答だった。ルートヴィヒはため息をつきながら、言われるがまま壁に背を預ける。
「おれ、なんでこんなことになってんの」
「じっとして。動いたら減点よ」
「減点ってなんだよ」
文句を言いながらも、彼はそれ以上動かなくなった。二人は床や膝の上で、黙々と鉛筆を走らせ始める。いつもは止まることなく喋り続けているエルイーゼが、不自然なほど静かになった。その真剣な横顔を眺めながら、ルートヴィヒはぼんやりと考える。
……黙ってりゃ、普通に綺麗なお嬢様に見えるのにな。
窓から差し込む夏の光が、彼女の髪を縁取ってキラキラと輝いている。だが、そんな感傷的な静寂は長くは続かなかった。
「できたわ! 見て、ルートヴィヒ!」
エルイーゼがパッと顔を上げ、弾けるような声で駆け寄ってきた。ルートヴィヒの手に、誇らしげに紙が押し付けられる。そこに描かれていたのは、やけに全体が丸っこい人物だった。そして何より、その表情が……妙に、小馬鹿にしたような、あるいは何かを企んでいるような、若干ムカつく顔をしている。
「……これ、おれ?」
「うん。あなたの魂を捉えた自信作なのよ」
あんまりにも自信満々なので、ルートヴィヒは否定する気も失せてしまった。むしろ慣れない道具で一生懸命に描いてくれた熱意は伝わってくる。
「……そっか。まあ、ありがとね。もらっとくわ」
彼がそれを受け取ると、次にフェリックスが「僕も終わったよ」と得意げに紙を差し出した。ルートヴィヒはそれを覗き込み、一瞬感心したように眉を上げる。
「へえ、結構上手いじゃん。ちゃんとデッサンを教わった形跡があるな」
しかし。じっと見つめているうちに、彼の顔に微妙な影が差した。
「でもさ。なんか、感じ悪くない? これ」
「何が?」
「いや、なんかこう……すごく嫌なやつっぽい。鼻持ちならないっていうか……」
確かにデッサンとしては整っているが、そこに描かれたルートヴィヒは、相手を鼻で笑うような絶妙に癪に障る表情を浮かべていた。
「君のありのままを写実的に捉えた結果だよ」
フェリックスは涼しい顔で言い放つと、さらに追い打ちをかけるように、その絵の余白へサラサラと鉛筆を走らせた。
──路上にて拾得。扱い注意、よく喋る。
「え、最悪なんだけど……普通に……」
ルートヴィヒは本気で嫌そうな、あるいは面白がるような投げやりな溜息をついた。エルイーゼが横からその拾得物の似顔絵を覗き込んで、鈴を転がすように楽しそうに笑う。
「判定は? エルイーゼ。どちらが勝ちなのか、公平な審判をお願いするよ」
「わたしの勝ちよ!」
「……だろうね。当然だよ。君が審判なんだから」
最初から分かりきっていたことだった。妹という生き物はいつだって自分に甘く、そして兄には厳しいものなのだ。エルイーゼは「当然でしょう」という顔をして、自分が描いた丸っこいルートヴィヒの絵を満足げに小鼻をふくらませて眺めている。
「ま、ありがと。失くさない限り大事にしとくわ」
ルートヴィヒは二人の力作を再び一瞥すると、そこらへんの棚の隙間に無造作に差し込んだ。
「失くさないように努力はしないんだな」
「ここは風が吹くからさ。明日にはどっか飛んでってるかもな」
「まあ。それならわたしが画鋲で止めてあげましょうか!」
エルイーゼが再び部屋をかき回し始めるのを、ルートヴィヒは「やめてね、壁が穴だらけになるから……」とあくび混じりに制した。
午後の強い日差しが、開け放たれた窓から埃と一緒に降り注いでいる。本来なら、ルートヴィヒは一人でキャンバスに向かい、エルイーゼはモーニングルームで退屈し、フェリックスは勉強に励んでいるはずの夏の一日だった。
突然の訪問によって、狭い屋根裏部屋は一気に賑やかな時間に塗り替えられる。それは誰にとっても──一人の時間を愛する画家にとっても、刺激を求める令嬢にとっても、そして振り回される兄にとっても──全くの想定外だったけれど。
「……たまにはこういう暑苦しいのも悪くないか。エルイーゼ、お茶飲む?」
ルートヴィヒは、使い古した絵筆の束や読みかけの画集、飲みかけのワイン瓶が雑多に押し込まれた棚の隙間から、縁の欠けたカップを三つ取り出した。かつてエルイーゼに「あなたにもあげる!」と押し付けられ、贅沢すぎて仕舞い込んでいた薔薇の紅茶がようやく日の目を見るわけだ。
「まあ。それ、わたしがあげたお茶じゃない!」
「え、そう。ずっと宝の持ち腐れだったしちょうどいいでしょ」
なんとなくで返事をしながら、彼はは棚の奥で眠っていた高級な錫の缶を開けた。目分量で茶葉を放り込み、適当な加減で淹れてみるが、そのいい加減さをエルイーゼが見逃すはずもなかった。
「なんて淹れ方かしら。一人の時もちゃんと飲んでいるの? ルートヴィヒ、午後のティータイムの習慣はないの?」
「おれが優雅に薔薇の紅茶を嗜む時間とかあるわけなくね」
二人のやり取りを面白がって眺めていたフェリックスだったが、手元に置かれた紅茶を一目見て、その笑顔が引きつった。香りはいつも妹が好んで淹れさせているあの高級な薔薇そのものなのだが、視覚がこれまでの常識を真っ向から否定してくる。
「……これ、茶葉が直接口に入ってくるんだけど。ストレーナーとかは……」
「そんなもんあるわけねえだろ。沈むの待つか男らしく飲み込めよ」
「ちょっと待ってよ。フェリックスはまだしも、わたしにそんな野蛮なことさせないで!」
文句を言いながらも、エルイーゼはふうふうと茶葉を避けながら慎重に一口を飲み、「やっぱり美味しいわ!」と弾けるような笑みを浮かべた。淹れ方の雑さを茶葉の品質が力業でねじ伏せたのだ。
「これこそ本物の香りよ」と上機嫌になるエルイーゼを横目に、ルートヴィヒは「飲めれば一緒でしょ」と茶葉ごと紅茶を飲み込んだ。




