第六話
「いいか、エルイーゼ。ゆめゆめ姉上の言葉に惑わされて言いくるめられるなよ。……返事は?」
揺れる馬車の中でヴィルフリートは腕を組み、国運を左右する会議でもしているかのような険しい表情で妹を見据えた。向かいの座席に座るエルイーゼは、緊張の面持ちでコクコクと頷く。
「分かっているわ、お兄様。今日こそは、本来の目的を死守してみせるわ。……でも、マリアお姉様は押しが強いんですもの。いつの間にか話がすり替わっているんだわ」
「あの人は微笑みながら相手の領土を割譲させる名手だからな。……いいな、隙を見せるな。姉上が『あら、それより……』と言い出したら、それが開戦の合図だ」
デビュタントを控え、母から「流行に詳しいマリアに、ドレスや宝飾品の相談をしてきなさい」と勅命が下ったものの、長女マリアは社交界の薔薇と謳われる美貌の裏に、底なしの活力を隠し持つ優雅な暴君である。彼女にとって相談とは悩みを聞くことではない。自分のやりたいことに、体裁よく弟妹を素材として組み込むことなのだ。
「だからこそ、フェリックスじゃなくてお兄様についてきてもらったのよ。あの人、お姉様の強烈な押しを受けると真っ先に白旗を振るんだもの」
「あいつは軟弱だからな。……僕が姉上の長弟としてどれほどあの強引さに耐えてきたか、今日こそ証明してみせよう。外交官としての交渉術をもってすれば、こちらの希望を通すことなど容易い」
ヴィルフリートの言葉には長年の年季が入った重みがあった。幼少期から姉の気まぐれな洗礼を受け、鋼の精神を鍛え上げてきた彼こそが、今日という日の唯一の防波堤だった。
しかし。リヒテンベルク伯爵邸のサロンに足を踏み入れた瞬間、二人の計算は華やかな香水の香りと共に崩れ去る。
「……あら。いらっしゃい、可愛いエルイーゼ。それにヴィルフリートも。ちょうどよかったわ。今、ベルギーから素晴らしいボビンレースが届いたところなのよ」
出迎えた長女マリアは、整った顔立ちに涼やかな微笑を湛えていた。エルイーゼとは確かに姉妹だと頷ける面差しだが、その頬は簡単に赤らんだり、感情に合わせて表情がころころと変わることはない。常に優雅な静謐さを纏う彼女は、妹よりも頭一つ分ほど背が高く、見下ろす視線には有無を言わせぬ支配者の風格があった。
「あの、マリアお姉様、今日はデビュタントのドレスの……」
「ええ、わかっているわ。でもその前に、このレースをあててみないと。あら、このリボンは少しお休みさせましょう。ちょっと外して」
「えっ、あ、待っ……」
あれよあれよと言う間にエルイーゼはソファに座らされ、髪飾りをすべて剥ぎ取られた。「結んだ雰囲気が見たいのよ」という断りようのない情熱に押され、エルイーゼは鏡の前でなすがままにされてしまう。
「待ってくれ、姉上。まずは順を追って話を──」
背後からヴィルフリートが交渉術を武器に制止の声を上げた。しかしマリアは振り返りもせず、微笑みを湛えたまま傍らのナーサリーメイドに合図を送る。
「あら、ちょうどいいわ、ヴィルフリート。あなたのその逞しい腕、何のためにあるのかと思っていたけれど、この子の高い高いのためにあったのね」
ナーサリーメイドに抱かれていたのは、まだ小さく愛らしい、よだれを垂らした甥のルドルフだった。
「ほら、抱っこして? ……しなさい。弟の義務よ」
抵抗する間もなく、ルドルフがヴィルフリートの胸元に押しつけられた。鉄の規律を重んじる彼のコートは、瞬く間に幼児のよだれで湿っていく。
「……ヴィ、ヴィルフリートお兄様……!」
「……エルイーゼ、すまない……」
ヴィルフリートは小さな手に鼻を掴まれ、タイを全力で引っ張られながらも、無下に引き剥がすこともできず石像のように固まっていた。
それから三十分ほどの間、サロンはマリアの独壇場となった。エルイーゼはなすがままに髪を編み直され、繊細なレースを幾重にもあてがわれる。
マリアは時折、うっとりとした表情で「まあ、なんて愛らしいの。まるで春の妖精のようよ」と慈愛に満ちた笑みを浮かべて眺める。そのあまりに優雅な称賛を前にしては、反論の言葉など霧散するしかなかった。
やがてナーサリーメイドが「ルドルフ様、お食事の時間でございます」と告げ、小さな主役がヴィルフリートの腕から去っていくと、ようやくサロンに静寂が戻る。マリアはまるで今になって本題に気づいたかのように、満足げに手を打った。
「……さて。それで、デビュタントのドレスの相談だったかしら。ちょうど今、このレースに合うシルクのサンプルをまとめたところなの。じっくり検討しましょうね、エルイーゼ」
本来の目的に戻れた安堵と、すでに手の上に乗せられ始めている予感。エルイーゼは編み込まれたレースの重みに耐えながら、湿ったコートを悲しげに見つめるヴィルフリートと視線を交わした。
「今、ウィーンで一番勢いがあるモード商なら、ケルントナー通りのマダム・シュテルンの店よ。あそこはシルエットの出し方が抜群に上手いの。紹介状を書いてあげる」
マリアの口から次々と飛び出す仕立て屋や、今シーズンの流行の傾向。さすがは社交界の花形だけあって、その知識は先ほどまでの暴君ぶりを忘れさせるほど確かだった。
「ジュエリーはどうするの? 我が家に代々伝わるあの深みのあるサファイアかしら。それとも……いっそデビュタントのために、新作のダイヤモンドをあつらえる? どうかしら、エルイーゼ」
マリアが示す選択肢はどれも完璧で、うっとりするほど豪華だった。けれど、エルイーゼは鏡の中の自分を見つめながら、「うーん……」としばし首を傾げる。そんな時ふと脳裏をよぎったのは、あの庭園に流れていた自由な空気だ。染まった指先と、魔法のようにパレットに広がった、あのどこまでも澄み渡る色彩。
「お姉様。わたし、ただ歴史や値打ちを誇るだけの石には興味がないわ。身につけるなら、わたしの魂を一等引き立ててくれるものがいいの。……そう、例えば、空を切り取ったような澄み渡る青とか!」
「まあ、相変わらず理想が高いこと。ヴィルフリート、聞いた? この子の望みを叶えるには、誰も見たことがないような一石を探し出さなくてはならないようよ」
「……宝石選びについては、姉上の審美眼を信頼しよう。だが、予算と外商との交渉は僕が立ち会わせてもらう。これ以上、あなたの気まぐれに振り回されるわけにはいかない」
「あら、心強いわ。頼りにしているわね。エルイーゼ、あなたのその小生意気な魂に相応しい一品を、お姉様が世界中から引きずり出してあげる。……ヴィルフリート、覚悟はよろしいかしら。これは交渉術を総動員して、王室御用達の金庫をこじ開けさせるくらいの気概が必要よ」
意気揚々と語るマリアだったが、いざ宝石の色味とドレスの白のトーン、そしてエルイーゼに似合う色の調和を考え始めると、さすがの彼女も「……難しいわね」と贅沢な悩みに眉を寄せた。
「エルイーゼ、あなたは温かみのある真珠のような白が似合うわ。だから選ぶ宝石も、あまりに冷たい青に寄せすぎてはいけない。この色彩の均衡をどう取るべきかしら……」
マリアが真剣に考え込んでいる横で、ヴィルフリートが不可解そうに、あるいは「何を大層な」と言いたげな顔で口を開く。
「姉上、何をそこまで悩む必要があるんですか。宝石の色味はともかく、絹地の白など、どれも同じ白だろう」
「……ヴィルフリート。あなた、今なんて言ったかしら」
「いや、ですから。白は白でしょう。微細な差にこだわって、デビュタントの準備が滞る方が問題だ」
その瞬間、サロンの空気が止まった。マリアがゆっくりとシルクのサンプルから顔を上げ、深い憐れみすら含んだ視線を弟に向ける。
「ヴィルフリート。これと、これが、同じに見える人間に、今日のこの場で発言権はないの。雪のような青みのある白、ミルクを薄めたような白、人それぞれに合う色は全く違うのよ。エルイーゼの肌をくすませる白を選んだら、それはもはやドレスではなく、ただの布切れだわ」
マリアの容赦ない断罪に、ヴィルフリートは気圧されたように沈黙した。そんな中、エルイーゼがふと思い出したようにパッと顔を輝かせる。
「それなら、お姉様! 心当たりがあるわ。今、わたしの肖像画を頼んでいる画家がいるの。ルートヴィヒというのだけれど、彼の色彩感覚は本物の魔法みたい。彼ならわたしに一番似合う白も、それに映える青も教えてくれるはずだわ」
「よせ、エルイーゼ。そんな話を姉上の前でするんじゃない」
ヴィルフリートがルドルフのよだれが乾き始めたジャケットを払いながら、苦々しく制止の声を上げた。
「ドナウの橋の上で拾い上げたような素性の知れない画家に、リーベンフェルス家の娘のデビュタントを左右させるなど言語道断だ。伝統というものを重んじてもらいたい」
「……ドナウの橋の上で、拾った?」
しかしヴィルフリートの懸命な防波堤は、マリアが発した一言によって脆くも崩れ去る。扇の隙間から覗く瞳が、好奇心という名の怪しい光を湛えて細められた。
「なんてロマンチックな響きかしら。あなたそんな面白い方を隠していたの? どんな方なの? 会わせてね。いいえ、絶対に会わせなさい」
「姉上、聞き流してください。宝石とドレスの色味は一世紀以上の歴史を持つ御用達の商人に任せるべきだ」
「ヴィルフリート、あなたが彼を連れてこないというのなら、私の方で勝手に調べさせてもらうわよ。リヒテンベルク家の情報網を舐めないことね。……それとも、私が直接ドナウの川辺で野宿でもしている姿を、社交界のゴシップ誌に載せたいかしら」
「……っ。脅迫ですか、姉上」
最強の盾をも貫く姉の好奇心という名の槍。ヴィルフリートは完敗を認め、天を仰いだ。
「決まりね。エルイーゼ、次回の相談にはその橋の上の魔法使いも同席させなさい。最高のデビュタントにするために、徹底的に品定めしてさしあげるわ」




