第五話
「やっとあのガチョウたちのご機嫌取りから解放されたわ! お兄様ったら本当にガーガーうるさいんだから。昨日のピクニックなんて、わたし、お人形のふりをするだけで一日が終わってしまったのよ!」
陽の光が差す庭園で、エルイーゼは昨日の殊勝な淑女っぷりが嘘のように、兄たちに連行された屈辱をこれでもかとルートヴィヒにぶちまけていた。
イーゼルの前で、彼は雑にかき上げた前髪が落ちてくるのを鬱陶しそうに払いながら「へえ」「そうなんだ」と、いつも通り聞き流すような返事を繰り返している。やがて筆をまとめていた紐を解くと、前髪を横の毛と一緒にいい加減な手つきで後ろに結んだ。
肖像画は着実に進んでいた。油絵具を薄く塗り重ね、乾かし、また深みのある色を置く。その気の遠くなるような作業の合間に、エルイーゼの愚痴だけが木々の葉ずれに絡まる。
「ねえ、ルートヴィヒ。この気分を、あなたのその絵の具で塗り替えてちょうだい! もっと、こう……パッとするような魔法の色で!」
「塗り替えてって言われてもね……。じゃあその白い手袋脱いで、気晴らしにこの色でも混ぜてみる?」
「えっ……いいの⁉︎」
彼女の瞳が一瞬で輝いた。昨日までの苛立ちなど跡形もなく吹き飛んだような笑顔で、エルイーゼはドレスの裾を翻して駆け寄る。感情の昂りは嘘をつけないようで、薄い皮膚をした鎖骨や耳朶には、早くも赤みがさしていた。
「これ、どうすればいいのかしら。触ってもいい?」
「え、指? 普通はナイフとか筆だけど。直でいくつもり?」
驚くルートヴィヒをよそに、エルイーゼはためらいもなく、パレットに置かれた鮮やかなコバルトブルーとパールホワイトに指先を沈めた。ひんやりとして、ねっとりとした油絵具独特の感触が指に伝わる。
「まあ……! 見て、ルートヴィヒ。指が空の色になったわ!」
「それ一回ついたら簡単に落ちないよ。石鹸で洗ったくらいじゃ全然意味ないけど、どうすんの」
「いいのよ、取れなくたって。それも面白いじゃない! もし一生取れなかったとしても、わたしの指が他の誰とも違う綺麗な色をしていたら、贅沢で嬉しいもの」
「変な子だなー……」
エルイーゼは見事な晴天の色に染まった人差し指を、透き通るような木漏れ日にかざして歓声を上げた。まるで指先に魔法の力が宿ったかのように。そんな子供じみた無邪気な姿を見て、ルートヴィヒはつい口を滑らせた。
「……せっかくだし、記念にサインでも入れる?」
「えっ、いいの? わたしのサイン……!」
ルートヴィヒは身を低くし、イーゼルの裏側へと回り込むようにして手招きした。エルイーゼもドレスの裾が汚れるのも構わず、彼に倣ってしゃがみ込む。二人の肩が触れ合うほど狭い、キャンバスの裏側の影。
「ほら、ここに描きな」
エルイーゼは緊張に鼓動を速めながら、裏面の木枠に張られたキャンバスの布地におずおずと触れた。ザラリとした布の目を感じながら、指でゆっくりと文字を描く。筆とは違う、不器用で、でも力強い丸っこい筆跡だった。
「……E、l、o、u、i、s、e……。できたわ、見て!」
キャンバスの裏には、鮮やかな空色でElouiseの文字が刻まれていた。ルートヴィヒが「……変わった綴り。エルイーゼってあんま聞かないよな」と何の気なしに尋ねると、彼女は「お父様が外交官をしていた頃に、フランス語の響きを気に入って付けてくれたのよ!」と得意げになる。ルートヴィヒは「ふうん」と気のない返事をしながら、傍らにあった古い布の切れ端を拾い上げて彼女の指を無造作に掴んだ。
「……んー。やっぱ取れないわ、これ。油絵具だもん、当然か」
ゴシゴシと力任せに擦られたが、青い色は頑固として主張を続けている。彼は早々に諦め、布を放り出した。
「ま、エルイーゼが『一生取れなくてもいい』って言ったんだしいっか。指が他の人と違う綺麗な色なら嬉しい、んでしょ?」
「うん! もちろん。わたしだけの特別な色だわ」
エルイーゼは空色を愛おしげに見つめる。二人が並んで立ち上がったところで、ふと背後の小道からかすかな音が忍び寄った。規則正しい足音ではない。歩みを殺そうとして、かえって不自然に間の空いたそれに、エルイーゼは鼻筋に皺を寄せてあからさまに不快感を露わにした。
「あれ、ずいぶん楽しそうな密会だね。ていうかなんか近くない、二人とも?」
案の定、庭園の入り口からひょっこりと声がかかった。大学の講義が早く終わったのか、このガチョウ二号の登場はエルイーゼにとって全くの想定外である。
「……フェリックス! あなた、いつから……なんでこんなに早く帰ってくるのよ!」
「家に帰って何が悪いんだよ。……ところでエルイーゼ、肖像画を描くのにそんなにくっつく必要があるのかなあ。我が家のガチョウが聞いたら泡を吹いて倒れるかもしれないなあ」
「ち、違うわ! これは、わたしの指が空色になったから……!」
「へえ、ついに青い血が肌を突き抜けて出てきた? ……でも大丈夫、僕は兄さんとは違うからさ。不敬だの身元調査だの、そんな無粋なことは言わないよ」
エルイーゼは不機嫌を隠そうともせず、上唇をツンと尖らせて今にも小石を投げ返しそうなほどの勢いだった。フェリックスは二人の間の絶妙な距離感と、エルイーゼの青く染まった指先を交互に眺め、揶揄するように笑っている。彼は冷やかし半分に歩み寄り、そのままイーゼルの正面に回り込んだ。
……が、そこで彼の動きがピタリと止まる。
「……え、ちょっと待って。これ君が描いたの?」
「え? まあ、そうですけど」
「上手くない? すごいね、この木漏れ日とか。美術アカデミーの人? 教授の秘蔵っ子とかそういう系?」
瞳から茶化すような色が消え、一瞬にして真剣な光が宿る。フェリックスは素で驚き、キャンバスに顔を近づけて色彩の重なりを凝視した。そんな兄の反応に、エルイーゼは「でしょ!」と自分のことのように胸を張る。
「いや、違います。アカデミー、普通に落ちたし」
「落ちた⁉︎ 教授連中見る目ねえ〜!」
フェリックスは「信じられない……」と頭を抱えたあと、即座にルートヴィヒに詰め寄った。
「最高だよ。このエルイーゼとか今にも文句言い出しそうじゃん。名前なんていうの? ルートヴィヒ? ルートヴィヒ、君は天才だ!」
「あ、ちょっと……お兄さん近いんだけど」
「いいじゃん。今日から友達になろうよ、ルートヴィヒ」
ルートヴィヒも大概初対面から馴れ馴れしい性格ではあるが、フェリックスはそのさらに上を行っていた。ガシッと遠慮なく肩に腕を回し、まるで十年来の親友のような距離感で話し出す。
「僕はね、型にはまった退屈な絵には飽き飽きしてたんだ。この光の捉え方、いいセンスしてるじゃないか。兄さんには僕から適当に言っておくから、安心して描きなよ。あ、他にも作品ある? 今度見せてよ!」
「えーと……、どうも。まあ機会があれば?」
「フェリックス、すごいでしょ? 彼の絵筆は魔法使いの杖なの。ただの絵じゃないのよ! 昨日の退屈なピクニックの景色だって、ルートヴィヒが描けばきっと宝石箱みたいになるわ」
「魔法使いとは言い得て妙だね、エルイーゼ。よし、ルートヴィヒ。君は今日から我が家の魔術師だ。僕の肖像画も描いてよ。最高に派手なやつをね!」
「いや、だからただの絵描きだって。お兄さんも相当変な人じゃん」
ルートヴィヒが困り果てて言うと、フェリックスは「変でいいんだよ。普通なんて、鏡を見てるのと同じくらい退屈だろ?」と笑い飛ばした。キラキラした目でまくし立てるお嬢様と、肩を組んで勝手に役職を与えてくる自由すぎる兄。流石の彼もこれには多勢に無勢で防戦の一方である。
「実はさ、僕も昔は絵を習っていたんだよね。習いたい、って自分から言い出したもんだから、芸術好きの父さんはもう大喜び。一流の家庭教師をつけて、歴史画だの宗教画だのそれはもう厳格に仕込まれたよ」
フェリックスは懐かしさと皮肉の両方が混じったような笑みを浮かべる。ようやくルートヴィヒの肩から手を離すと、近くのアイアンチェアに腰を下ろした。
「でもさ、描かされるのは石膏像とか死んだ顔の聖人ばっかり。ミリ単位で形を写せ、影の境界線をぼかせ……。鏡みたいにそっくりに描くなら、そんなの鏡を置いておけば十分じゃないか。僕はね、もっと絵でしか表せないことが見たかったんだよ。光のざわめきとか、エルイーゼのこの生意気な魂の形とかさ!」
そう言って彼が、乾きかけのキャンバスの上で踊る鮮烈な色彩を見つめると、ルートヴィヒは毒気を抜かれたような顔をした。やれやれと回していた肩を止めて、ふっと力を抜く。
「なるほどね。……お兄さん、遊び人かと思ったら、意外と本質突いてくるな」
「だろ? だからさ、その魔法の絵の具ちょっと触らせてよ。僕だって指を空色にして、古臭い連中に『これからは心の目で描く時代ですよ』って説教してやりたいんだ」
「フェリックス、真似しないで! これはわたしとルートヴィヒだけの魔法の色なんだから」
「独り占め? 冷たいなあ、エルイーゼ。二人で指を青くして夕食の席に座ろうよ。兄さんは毒蛇でも見たような顔をするだろうね」
「それはただの嫌がらせでしょう。だいたい、あなたが混ざったら全然特別じゃなくなっちゃうじゃない! フェリックスの指なんて、泥水の色で十分だわ!」
「それはちょっと言い過ぎじゃない?」
フェリックスが面白がってさらにパレットへ指を伸ばし、エルイーゼが「やめてったら!」とムキになって応戦する。優雅なはずの庭園が、にわかに子供じみた追っかけっこの様相を呈し始めた。
「はいはい、そこまでそこまで」
割って入ったのはあきれ返った顔のルートヴィヒだった。手に持ったパレットナイフを、まるで審判の旗のように二人の間に差し出す。
「お兄さんもあんまり煽らないの。あとエルイーゼも、実の兄貴を泥水呼ばわりは流石に可哀想だろ」
「だってルートヴィヒ、フェリックスったら!」
「わかってる、わかってるから。ほらお兄さん、指を染めなくても心の目ってやつは絵を見れば伝わるでしょ。肖像画を描くときは、背景を全部このコバルトブルーで塗りつぶしてやるよ」
「お、それいいね。前衛的だ。約束だよ、ルートヴィヒ」
興奮する妹をなだめ、グイグイ来る兄を適当にあしらう。手のかかる子どもをあやすように二人を捌きながら、ふとルートヴィヒは思う。自分がこいつらくらいの年の頃、こんなだったっけ、と。
「……いや、絶対違うな」
記憶の中の自分は、もう少しだけ、いや、相当マシな大人だった気がする。
場にそぐわないほど静かな独り言は、なぜか目を離した一瞬の隙に仲直りして、今度は「どっちが青い絵具にふさわしいか」でキャッキャと盛り上がり始めた無邪気な二人の笑い声にかき消され、初夏の庭園に溶けていった。




