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第四話

 初夏の陽光がプラーター公園の木々を青く輝かせ、いくつもの貴族の紋章が入った馬車が芝生に並ぶ。色とりどりの優雅な天幕が花のように開き、あちこちで笑い声が響くウィーン社交界のピクニックの風景。

 賑わいから離れた大きな樫の木の木陰、特等席に陣取ったエルイーゼと親友のシュテファニーは、口いっぱいにクラプフェンを放り込みながら忙しく目を動かしていた。


「ねえ見て、シュテファニー。フェリックスってば、また懲りずに年上の未亡人に話しかけに行っているわ」


「あら本当! でも見て、あの未亡人の冷ややかな視線。あんなに熱弁を振るっているのに、彼女ったら扇で隠してあくびをしているわ」


 シュテファニーがクスクスと笑いながら、マカロンを小さくかじる。二人はまだデビュタントを控えた身。華やかな恋の駆け引きやスキャンダルは、彼女たちにとって劇場で観るオペラよりもずっと刺激的な他人事の娯楽だった。


「ダメね、フェリックス! あの方にはくちばしが黄色い二十歳の世間話なんて子守唄にもならないわ。あら、シュテファニー。あなたのお兄様は、あちらで男爵令嬢に声をかけられていらっしゃるわよ!」


「でもなんだかぜんぜん会話が弾んでいなそう。カールお兄様は口下手なのよ。相手の方が一生懸命お話ししていらっしゃるのに、あの調子じゃ……」


 十七歳の少女たちは、自分たちの兄が社交の荒波に揉まれて撃沈する姿を、まるで良質な喜劇でも観るような目線で楽しんでいる。続いてエルイーゼの視線は、人だかりの中心にいる長兄へと移った。


「うちのお兄様はもっと悲惨よ。見て、あのカストリッツ男爵夫人。ご令嬢をヴィルフリートお兄様に売り込もうと、まるで競走馬の品評会みたいに息巻いているわ」


 こっそり指し示した先では、ヴィルフリートが夫人から熱烈な紹介を受けて、借りてきた猫のように神妙な顔で令嬢と向かい合っていた。


「まあ、ヴィルフリート様なら将来有望だもの。お相手の令嬢も、とっても可愛らしくてお似合いじゃない?」


「いいえ。見た目は真面目そうで立派に見えるけれど、中身はガチョウみたいに口うるさいんだから! 毎日、わたしのドレスの襟元がどうだとか、帰る時間がどうだとかお説教してくるのよ。あんなに可愛い令嬢が嫁いだら、三日でノイローゼになってしまうわ。……あ、ほら。また眉間に皺を寄せて難しい顔をしたわ。あんな顔で愛を語れるわけがないわね!」


 二人は顔を見合わせて笑い転げた。少女というのは世界で一番無敵で、残酷なほどに自由なのだ。

 やっと笑いが落ち着いた頃、二人は少し先の水路沿いに視線を向けた。穏やかな水面を縁取る柳の木陰を、睦まじげな二人の人影がゆっくりと歩いている。シュテファニーの姉とその婚約者だった。

 エルイーゼは幸せそうな背中に向かって「マティルデ様、お祝いするわ!」と、弾んだ声で大きく手を振る。マティルデは頬を染めながら、育ちの良さを感じさせる穏やかな笑みを返してくれた。


「シュテファニー、お相手はエッテンハイム家の方なんですって?」


「ええ、そうなの。あちらも伝統ある家柄のご長男だから、お父様もお母様もホッと胸をなでおろしているわ」


「けれど、ついこのあいだ社交界にデビューしたばかりなのに、そんなにすぐに決まってしまうものなのね。うちのお姉様なんて、理想を追い求めすぎて婚約に三年もかかっていたわ!」


 婚約と聞いてエルイーゼが思い出すのは、山のような求婚者を「関心の向く先はそれぞれなのだと思うわ」「とても落ち着いていらっしゃる方ね」「お言葉をひとつひとつ大切になさるのね」と優雅に退けていた長姉の姿だった。けれど、あれは要するに「趣味が合わない」「表情が退屈」「お話が長い」ということなのだと、エルイーゼはちゃんと知っている。


「そのおかげでリーベンフェルス家は、今や社交界でも影響力のある伯爵家の親戚じゃない。エルイーゼ、あなたのデビュタントの時はそれこそ選り取り見取りよ。きっと名門家のご長男たちが列をなして挨拶に来るわ」


「長男? 嫌よ、そんなの! 長男なんて、家を守るだの伝統を継ぐだの、肩書きばかりが重くて退屈じゃない。わたし、あんなに堅苦しい人生を送るなんて想像しただけで息が詰まりそうだわ」


 十七歳の少女のあまりに恐れを知らぬ放言に、シュテファニーも声を殺して笑った。


「確かにそうね。次男だって三男だって、お父様が爵位を持っていらっしゃることには変わりないもの。家督を継ぐ責任がない分、次男坊あたりを捕まえて、気ままにウィーンの夜会を渡り歩くほうがずっと楽しそうだわ」


「そうでしょう? 伝統なんてお兄様たちが背負っていればいいのよ。わたしはもっと……そう、胸が躍るような、鮮やかな毎日を過ごしたいの! あんなふうに、ただ家柄を交換し合うようなお見合いなんてまっぴらだわ」


 社交界というチェス盤の上で、姉たちが勝ち取った格は、後に続く妹たちの歩きやすさを決める……らしい。姉はエルイーゼの将来のことまで考えて、義兄を選んだのだろう。

 ただ、次期伯爵夫人となった姉は最近どうも、自由という言葉をあまり使わなくなった気がする。どこへやったのかしら、とエルイーゼは時々思う。クローゼットの奥にでも仕舞ってあるのかもしれない。


「だからね、理想は高く、責任は低く。これがわたしたちの合言葉だと思うのよ。楽しいことだけを摘み取って、誰が誰と踊ったとか、誰の贈り物が一番高価だったかなんて話をしているのが一番平和だわ!」


「エルイーゼったら。それじゃあいいとこ取りじゃない。でも、確かに……。恋をするなら、家のお仕事に追われていない、自由な方の方が楽しそうだわ」


 無敵の少女たちは、未来という名の他人事をピクニックのデザート感覚で勝手気ままに品定めしていく。離れた天幕で、夫人の息つく間も無いお喋りに眉間を寄せて耐えているヴィルフリートの苦労など、彼女たちの知ったことではなかった。


「あ、見て、シュテファニー。お兄様ってば、夫人の勢いに押されて一歩下がったわ! 長男の威厳は一体どこへ行ったのかしら!」


「あはは! 本当ね。お父様譲りの交渉術も、婚活に燃えるお母様方の執念の前では無力だわ!」


 エルイーゼがスプーンを握ったまま身をよじって笑うと、シュテファニーも指を差して瞳をキラキラと輝かせた。しかし無敵の時間というのは往々にして、儚くも唐突に終わりを告げるものだ。


「……エルイーゼ、そこにいたのか」


 氷点下に近いほど冷徹で、聞き慣れた不機嫌な声だった。エルイーゼがびくっと肩を震わせて振り向くと、そこにはいつの間にか夫人のお喋りを、おそらく強引な中座で切り抜けてきたヴィルフリートが、眉間の皺をさらに深くして立っていた。その背後には同じく連行されてきたらしい、魂が抜けたような顔のフェリックスもいる。


「……お、お兄様。ご挨拶は済んだのかしら?」


「ああ、済んだとも。カストリッツ男爵夫人が、ぜひ我が家の『元気のよろしい妹君』にも挨拶をしたいと仰っていてね。……シュテファニー嬢。君もお父上が、姉君の婚約者殿の親族を紹介したいと探していらしたよ」


 その言葉に、先ほどまで自由な恋を説いていたシュテファニーの顔が一瞬で青ざめた。


「嘘でしょう、お兄様。わたしたち、今とっても重要な議論をしていたところなのよ……!」


「議論の内容は向こうの天幕まで筒抜けだったぞ。『理想は高く、責任は低く』だったか? 外交官の家族として、実に頼もしい合言葉だ」


 皮肉たっぷりに言い捨てると、ヴィルフリートは躊躇なく声を張り上げる。


「ラインハルツ卿!」


 その鋭い呼びかけに、少し離れた天幕からシュテファニーの父、ラインハルツ男爵が「シュテファニー、探したぞ」とこちらへ向かって歩き出してしまう。もはや退路は断たれたのである。


「お前が退屈で重たいと切り捨てた長男の義務を、今から少しだけ肩代わりさせてやろう。フェリックス、エルイーゼの右側を固めろ。逃がすなよ」


「了解。……なあエルイーゼ、お兄様の地獄耳を甘く見た罰だよ、これは。長男が厄介だっていうのは同意見だけどさ」


「嫌よ、放して! わたしはまだ、このクラプフェンの最後の一つを食べていないわ! ああっ、シュテファニー、助けて!」


「ごめんなさいエルイーゼ、私も連行される身だわ……!」


 必死の抵抗も虚しく、無敵の少女が謳歌した自由な時間はあえなく幕を閉じた。そこから先は、リーベンフェルス家の令嬢としての退屈な任務が待ち受けている。彼女は淑女の仮面を被らされ、まるで見えない糸に操られる優雅なマリオネットのように、きらびやかで冷徹な社交の荒波へとその一歩を踏み出したのである。

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