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第三話

 ルートヴィヒが道具を片付けて屋敷を辞したあと、リーベンフェルス男爵家の面々が食卓へと顔を揃えた。

 立ちのぼる湯気とともに、琥珀色のコンソメスープが運ばれてくる。牛肉と香味野菜をじっくり煮込んだ豊潤な香りが食卓を包み込み、家族の穏やかな談笑が続く中、エルイーゼが弾んだ声で切り出した。


「お父様、お母様。今日から庭園で、わたしの肖像画を描いてもらっているの」


 その一言に、スープを口に運ぼうとしていた母親のスプーンが止まる。彼女は驚きに目を瞬かせ、優しく微笑んで問い返した。


「あら、それは素敵なこと。それで……どなたのご紹介かしら。レンブルク侯爵夫人のサロンで評判の若手? それとも、あのダヴィッド様の高弟かしら。仲のよろしいシュテファニー嬢あたりに教えていただいたの?」


「ううん、誰の紹介でもないわ。ドナウ運河の橋の上で出会ったの」


 事もなげに言い放たれた答えに、食堂は一瞬、時間が止まったかのような静寂に包まれた。父親はワインを危うく吹き出しそうになり、ナプキンで口元を押さえながら絶句している。


「……橋の上? エルイーゼ、お前は路上の絵描きをこの屋敷の庭に入れたというのか」


 長兄のヴィルフリートが、信じられないものを見る目で妹を射抜いた。彼は外交官として、日々ウィーンの秩序の維持と守護に奔走している身である。特に何に怒っているわけでなくとも、表情の作りがひどく険しいため、黙っているだけで周囲を威圧する怖さがあった。


「冗談はやめなさい。身元も知れない者を、誰の許可でリーベンフェルス家の敷地に入れた」


「わたしの許可よ。わたしの肖像画だもの」


「安全と信用に関わる問題だ。お前にはこの家の娘としての自覚というものが──」


 説教を始めようと身を乗り出したヴィルフリートを、父親が穏やかに手で制した。彼は混乱を飲み込むようにワインを一口含むと、穏やかに娘に問いかける。


「……エルイーゼ、その画家はどんな絵を描くんだ? 我が家の庭園を気に入ってくれたかね」


「ええ、とっても! 埃っぽい部屋に閉じ込めるのはもったいないって言ってくれたわ。お父様、彼は本当に色使いが素敵なのよ。お父様が大事そうに集めているあの退屈なコレクションより、彼の描く絵の方がずっと生き生きしているんですもの!」


 せっかく娘を庇おうとした父親だったが、自慢のコレクションを「退屈」と断じられ、胸を押さえて絶句した。ヨーロッパ中の王宮御用達の巨匠たちの名作を揃えているという自負は、末娘の無邪気な一言で粉々に打ち砕かれる。


「エルイーゼ、言葉が過ぎるわ。お父様がどれほどの手間をかけてあのお部屋を整えたか……」


「だってお母様、パリの有名な画家に『お人形でござい』という顔に描かれるのはもう飽きたわ。彼はわたしのことをキラキラさせて描くって約束してくれたの」


 その堂々たる宣言に食卓は再び奇妙な沈黙に包まれたが、ただ一人、次男のフェリックスは楽しそうに笑い声を上げた。彼は運ばれてきた子牛のローストを切り分けながら、妹とよく似た面差しを輝かせる。


「兄さん、これは興味深いね。大学でも既存の権威に囚われない芸術が議論になっているんだ。橋の上の絵描きが、男爵家の令嬢をどう解釈するか……。知的好奇心がそそられるな」


「知的好奇心だと? 安全保障の問題だ。そんな怪しい男と妹を二人きりにさせるなど、正気の沙汰ではない。……おいフェリックス、明日は予定があるか?」


「いや、講義は午後からだね。幸いなことに」


「よし。明日の午前中、僕は庭で読書をすることにする。お前は……」


「テニスの素振りでもしていようかな。ちょうどバックハンドの調子が悪かったんだ」


「ちょっと待ってよ! 明日は芸術の時間なのよ、お邪魔虫はいらないわ!」


 エルイーゼの抗議は、二人の兄の冷えたシャンパングラスがぶつかる音にかき消された。たまらず隣のフェリックスの袖を掴み「やめてってば!」とぐいぐい揺さぶったが、空いた手で軽く肩をぽんぽんと叩かれる。子どもをあやすようにあしらうその口元は、まったく隠す気もなく緩んでいた。

 そうして迎えた翌朝、庭園の空気はいつになく騒がしかった。エルイーゼの不機嫌な声が、穏やかな春の風を切り裂く。


「お兄様、そこじゃ邪魔よ。もっとあっちの、草むらのさらに奥の木陰の方で本を読んでちょうだい」


「ここが一番、陽の加減がいいんだ。気にするな、僕はただ読書をしているだけだ」


「もういい加減にしてよ。フェリックスもうろちょろしないでって言っているでしょう!」


「いやあ、バックハンドは実に繊細な調整が必要でね。ここで風の動きを見極めているんだよ」


 各々言い訳を並べ立ててはいるが、ヴィルフリートはすでに不審な絵描きをどう詰問するかの想定に入っている。ラケットを振り回すフェリックスは、騒動の予感に期待しているのが丸分かりである。


「もう来ちゃうんだから、あっちに行ってってば!  いい大人が揃いも揃って覗き見しようだなんて、妹として恥ずかしくて見ていられないわ!」


「それはちょっと言い過ぎじゃない?」


 エルイーゼが激しい剣幕で追い払うと、長兄は「……身を案じているというのに」とわずかに肩を落とし、次兄も「ひどいなあ、応援しているのにさ」と苦笑いしながら、しぶしぶと茂みの向こうの東屋へと移動していった。


「……これでいいわ。でも絶対、あそこから盗み聞きする気ね」


 門の方を何度も振り返り、ついに現れたルートヴィヒの姿を捉えたとき、エルイーゼの胸に不安がよぎった。彼のあの、あまりに世俗的な口調。もしヴィルフリートの耳に「はいはい、キラキラね」なんて言葉が飛び込んだら、即座に不敬罪で憲兵を呼ばれかねない。


 そこで彼女は考えた。彼が失礼なのではなく、自分がそれを「命じている」ことにすればいいのだと。


「遅いわ、ルートヴィヒ。あなたを待つ時間は、わたしの貴重な一日を数分も無駄にしたわ!」


 日傘を広げ、エルイーゼはこれ以上ないほど傲慢に顎を上げた。いつもより三割増しの高貴な令嬢を演じる彼女に、ルートヴィヒは画箱を抱えたまま、まじまじとその顔を覗き込んだ。


「あ、おはよ。今日も元気だね……。ていうか今日なんか……堅くない? 高いもんでも食べた?」


「言葉を慎みなさい! ……けれど、良いわ。わたし、堅苦しい敬語というものは耳が痒くなるから好きではないの。だから、あなたにはそのままの物言いを……特別に、許して差し上げます」


 精一杯の上から目線で言い放ったエルイーゼを、ルートヴィヒは「はあ……」と生返事で受け流した。


「あ、そう。よく分かんないけど、エルイーゼがそれでいいならそうしとくよ」


 彼は特に深く追求することもなく、いつもののんびりとした仕草でイーゼルを立て始めた。背後の茂みからはヴィルフリートの放つ殺気に近い視線が突き刺さっているが、ルートヴィヒはそれを「今日の風ちょっと冷たいな」程度にしか感じていないようだった。


「……よろしいわ。あなたにわたしを描く栄誉を授けます。感謝して、そのまま続けなさい」


 何はともあれ、ここまでは悪くない最先……のはずだった。しかし木炭の下書きが済み、パレットに下塗り用の絵具が並び始めると、エルイーゼの好奇心はその仮面を食い破り始める。ルートヴィヒがキャンバスに最初の一筆を置いた瞬間、エルイーゼの瞳が輝いた。


「ねえ、今何色を置いたの? 見せて、見せてちょうだい!」


 日傘を放り出しそうな勢いで身を乗り出すエルイーゼに、ルートヴィヒは筆を動かしながら「んー……」と、困ったような、面白がっているような声を漏らした。


「お嬢様なら『見せなさい』とか言わなきゃいけないんじゃないの? もう設定ガタガタじゃん」


「……っ! 失礼、今の発言は取り消しますわ。……見せてごらんなさい。わたしが確認してさしあげます」


「へえ、確認してくれるの? じゃあこれ。この色はエルイーゼの目の色に似せて作ったけど。どう?」


「どれ⁉︎ どこ⁉︎ ……コホン! ……近くに持ってまいりなさい。遠くてよく見えなくてよ」


 前のめりになりかけて必死で踏みとどまるエルイーゼ。すると、静かな庭園の少し離れた茂みの奥から「……ぶふっ! ははは!」とこらえきれないといった風な爆笑が響き渡った。


「見ろよエルイーゼのあの顔! 口調が迷子になって……!」


 案の定、フェリックスの緊張感のかけらもない笑い声である。直後、ゴンッ! という実に見事な鈍い音が庭園に響き渡った。


「……静かにしろと言っただろう、フェリックス」


 ヴィルフリートが容赦なく、分厚い年鑑の角で弟の頭を小突いたらしい。何も知らない可哀想なルートヴィヒは、その暴力的な音の方向に顔を向けて引きつった笑いを浮かべた。


「え、何? 怖……」


 一瞬本気で引いたような顔をしたが、エルイーゼの必死に虚勢を張っている横顔と、茂みの向こうの不穏な気配を交互に見て、彼は「あー、なるほどね」となんとなくわけを察した。


「ま、いいけどさ。エルイーゼが命じるなら、おれは逆らえないもんな」


 彼はわざとらしく居住まいを正すと、パレットを構え直してお嬢様に向き合う。


「えーっと。そうですね、お嬢様。あー、仰せの通り、今からこの色を乗せます。えー、光の加減とか、そういうのが大事、かな……って思いまして」


 慣れない丁寧語を絞り出し、頑張ってお嬢様の絵描きらしく振る舞おうとした。語尾がどうしても揺れてしまうのはご愛嬌だが、その歩み寄りにエルイーゼの瞳がパッと輝く。


「……そう! それでよろしいわ、ルートヴィヒ。わたしの言うことをよく聞いて、最高の一枚を仕上げなさい。わかったかしら?」


「承知しました、お嬢様。……これ、結構疲れるな。終わったらクッキー二倍ね」


 最後にはいつもの口調が出てしまったが、彼はこのお嬢様におとなしく付き合ってやることに決めたようだった。ルートヴィヒは茂みの方をチラリと見て、「これで満足?」と言わんばかりの薄ら笑いを浮かべた。


 陽の位置がゆるやかに傾き、その日の制作が切り上げられる頃。そのお芝居にエルイーゼは大満足し、約束通りテーブルには山盛りのクッキーが用意されていた。


「見て、ルートヴィヒ。約束通り二倍……ううん、三倍くらいあるわよ。全部食べていいわ!」


 エルイーゼは瞳を輝かせ、自分も一緒になって幸せそうに手を伸ばす。しかしルートヴィヒは皿を埋め尽くす甘い塊を前にして「もういらない、勘弁して……」と早々に白旗を上げた。


「あら、遠慮しなくていいのに。あなたが頑張ってくれたから、きっと今日はよりいっそう美味しく感じるわ。ほら、これもお土産に持っていって。明日も元気に描けるようにね!」


 無邪気に笑う彼女によって、結局、余ったクッキーは山ほど紙袋に詰め込まれ、彼の手に押し付けられた。重たい袋を抱えて辟易しているルートヴィヒのことなど露知らず、エルイーゼは「次は別の焼き菓子も用意させようかしら」と、すでに明日の楽しみへと思いを馳せていた。

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