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第二話

「こっちよ! こっちへ来て、ここで描いてちょうだい!」


 約束の日、ウィーンの一等地にそびえ立つリーベンフェルス邸。場違いなほど着古した上着を羽織って現れたルートヴィヒは、挨拶もそこそこにエルイーゼに手を引っ張られて庭園へと連れ出されていた。

 きっちりと刈り揃えられた芝生ではなく、ゆるやかな起伏に沿って草花が咲き、曲がりくねった小径が続く。春の陽光を浴びて咲く花々の中で、エルイーゼは癖のある髪を揺らし、日傘を広げて意気揚々と振り返った。笑うと下まぶたがふっくらと盛り上がり、長い睫毛の奥で瞳が爛々と輝いている。


「わたし、ここに立つわ。このドレスとってもお気に入りなの。だからリボンもレースも、裾の先までぜんぶキャンバスに入れてね。さあ、始めて!」


「……えー。ちょっと待ってよ、エルイーゼ」


 ルートヴィヒは猫背気味の長身を丸め、よっこらしょと重い画箱を地面に下ろした。邸宅のバルコニーからは、執事やアンナが庭の真ん中で今にも描き始めようとする二人を、不安と困惑が入り混じった顔で見守っている。


「いいの? こういうのってさ、もっと立派な部屋のフカフカした椅子に座って、後ろには重たそうなピアノとかがあるやつじゃん。お嬢様の肖像画って、だいたいそういうもんでしょ」


「そんなの、ちっとも面白くないわ。わたしはこの光の中にいたいの。だって、宮廷の肖像画みたいな立派な絵が欲しいわけじゃないんだもの。あなたのあの色で、風や光と一緒に今のわたしを描き留めてほしいのよ!」


 熱っぽくまくしたてるエルイーゼに対し、ルートヴィヒは「あー、そう……」と、温度差のある低い声で返した。けれど彼は眩しそうに目を細め、光を透かして輝く彼女のシルクオーガンジーのドレスをじっと見つめる。


「……まあ、確かにね。わざわざ埃っぽい部屋に閉じ込めるのはもったいないかも」


 ルートヴィヒはのんびりとした手つきで不安定な芝生の上にイーゼルを立てる。迷いなくキャンバスを固定すると、木炭を手に彼女を見据えた。


「いいよ、気に入った。そのまま立ってて。あんまり動かないでくれると助かる」


「動かないでいられるかしら」


「まあ頑張って。これから何時間もかかるけど、普通じゃ面白くないもんな」


 まずはあたりを取るところから。木炭がキャンバスを擦る乾いた音が響き始める。しかし、エルイーゼが黙っていられるはずもない。彼女は日傘を持って優雅にポーズを保ったまま、口だけは絶好調に動かし続けた。


「ねえ、石像みたいに立ちっぱなしって大変ね。でもわたし、家族とよくテニスをするから体力には自信があるの。すごく得意なのよ! 負けたことなんて一度もないんだから」


「へえ、すごいじゃん」


「お姉様とお兄様たちと一緒にやるの。お姉様はお嫁に行ってしまったから時々しか会えないのだけれど……とっても綺麗な方なのよ。わたしもああなれたらって思うんだけど、アンナに言わせるとわたしはお姉様とは全然違う種類の人間だって」


「アンナさん、正直だね」


「でしょう! 失礼よね。それで、お兄様は二人いてね。上のお兄様は六つ年上で、いつも難しい顔をしているの。もう一人は大学に通っていて、わたしたちよく似てるって言われるわ。じっとしていられないところとか」


「だろうね。今も口だけはテニスコートを三往復くらいしてるもんね」


 ルートヴィヒは手元を動かしながら、絶妙なタイミングで相槌を打つ。適当に流しているようでいて、その実、相手に気持ちよく喋らせる不思議な間を持っていた。


「そうなの! あ、そういえばルートヴィヒは何歳なの? あなた、いくつ?」


「おれ? 二十四」


「あら、お姉様の一つ下だわ。もうすっかり立派な大人じゃない!」


「そうかな。まあ、そうかもね」


 変わらず木炭を走らせながら、ルートヴィヒはちらりとエルイーゼを盗み見た。日傘をくるくる回し、ぽってりとした唇で家族の話を一生懸命にまくしたてる姿は、どう贔屓目に見ても大人びた淑女には程遠い。せいぜい寄宿学校を飛び出してきたばかりの子供のようだ。


「エルイーゼは? いくつなの」


「十七歳よ!」


「……十七かあ」


 十七歳ってこんな子どもっぽいもんだっけ。自分にもそんな時期があったはずだが、昔すぎて覚えていない。というか自分が十七のころ、こんなにうるさかっただろうか。


 そんなことを考えている間にも、描き始めて数十分が経過していた。意気揚々と立っていたエルイーゼだったが、さすがに同じ姿勢を保つのが大変だと気づき始めたらしい。日傘を持つ手がわずかに下がり、片足が傾き始める。


「……ねえ」


「動かないで」


「でも」


「動かないで」


「だって足がぴりぴりするんだもの。ちょっと姿勢を変えてもいい?」


「だめ。動かないでって言ったじゃん。テニスで鍛えたとかいう体力はどうしたの。まだ下書きの段階なんだけどな……」


 ルートヴィヒはキャンバスから目を離さないまま容赦なく釘を刺す。しかし、エルイーゼはそんな警告を爽快に無視した。


「もういいわ、少し休憩しましょう! お茶にしたいわ。喉がからからなの」


 エルイーゼがパッと日傘を閉じる。するとあれよあれよという間に、茂みの陰や邸宅の柱の影から、使用人たちが待ってましたと言わんばかりにぞろぞろと姿を現した。ルートヴィヒが「え、何……?」と呆気に取られている間に、芝生の上には白のリネンが敷かれたテーブルが置かれ、装飾の施された椅子が二脚、そして湯気の立つティーセットが瞬く間に並べられた。


「……すごいね。手品か何か?」


「ううん、みんなが気を利かせてくれたの。ほら、あなたも座って。このクッキー、すっごく美味しいのよ」


 当然のことながら、使用人たちは最初から近くに控えていたのだ。末娘の思いつきは今に始まった話ではないが、どこからか連れてきた画家を名乗る素性の知れない男と二人きりにするはずもない。かといってあからさまに見守れば、エルイーゼはすぐに顔をしかめて「落ち着かないわ!」と騒ぎ出す。ゆえに全員、茂みの向こうで息を潜めていた。


 ルートヴィヒは周囲を見回しながら「お嬢様ってすげー……」と場違いな感心をしていた。一方のエルイーゼは、椅子に座った途端にまたおしゃべりに火がつく。


「ねえ、このクッキーに木苺のジャムを乗せると美味しいのよ。あなたも食べてみて」


「なんかジャム多くない?」


「多いほうが美味しいの。ほら、口を開けて」


「ちょっと待って、せめて自分でやるからさあ……」


「いいから! 遠慮しないで」


 ルートヴィヒはキラキラした瞳に圧倒され、半ば押し切られるようにジャムまみれのクッキーを口に放り込まれた。口の中いっぱいに広がる強烈な甘さに骨ばった鼻筋を顰めながらも、何だか可笑しくなって小さく笑う。


「……うん、美味かった。ありがとね」


「でしょう! ねえ、もう一枚」


「いや、もういい」


「遠慮しなくていいのよ」


「遠慮じゃなくて」


「じゃあわたしが食べる」


 エルイーゼは自分の分のクッキーに、また山盛りのジャムを乗せた。


「ルートヴィヒはどこに住んでいるの? アトリエがあるの?」


「アトリエって呼べるかは知らないけど、一応絵描く部屋はあるよ」


「どんなところ? 見てみたいわ!」


「散らかってるから駄目」


 ルートヴィヒは指についた炭をリネンで勝手に拭きながら、目の前の少女を眺めた。クッキーを頬張りながら、次の話題をもう探している。一秒も止まらない。喋って、食べて、また喋って。疲れないのだろうかと思うが、顔を見る限り欠片も疲れていない。


 お嬢様ってすげー……。いや、お嬢様だからというより、この子が規格外なのかもしれない。たぶんこの子は、どこに生まれてもこうだった。


「そうだわ。次はこのお茶を飲んで。これも特別な茶葉なのよ!」


「……へえ。でもおれ、普段そういうの飲まないからさ。舌バカだったらごめんね」


「そんなことないわ。きっと違いが分かるはずよ。だってただの紅茶じゃないのよ、薔薇の花びらが入っていて──」


 エルイーゼが誇らしげに語る言葉を半分ほど聞き流しながら、ルートヴィヒは頭の中でパレットに鮮やかな絵具を並べ始めた。目の前の十七歳がまき散らす、あまりにも眩しい生命の熱量。それを塗り込めるには、今まで使ったこともないような、とびきり強烈な光の色彩が必要な気がした。

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