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第一話

「まあ、見てアンナ! あの貴婦人の帽子の飾り、まるで鳥を一羽そのまま捕まえて載せたみたいよ!」


「お嬢様、お願いですからあまり歩調を速めないでくださいまし!」


 ドナウ運河をまたぐ橋の上は、馬車の轍の音と物売りの声が入り混じる、活気に満ちた混沌そのものである。

 エルイーゼはレースをふんだんに使った日傘をくるくると回しながら、軽やかな足取りで人混みをすり抜けていく。胸下ですっぱりと切り替えられたハイウエストのエンパイア・ドレスが、彼女が踏み出すたびに締め付けのない自由なラインを描いて揺れた。


「お嬢様、足元に泥が。それに、このような雑多な場所に来たことが奥様に知れたら……」


 背後では二十歳をいくつか過ぎたばかりの侍女が、ハラハラとしながら彼女を追いかけていた。アンナはおてんばなお嬢様の世話を焼くことに慣れてはいたが、今日ばかりは勝手が違う。言い出したら聞かない悪いくせに負けて、礼拝の帰り道だというのに、こんな橋の上にまで寄り道させられてしまったのだ。


「ねえアンナ、ここを歩いていると、なんだか全然違う誰かになったような気分よ」


 エルイーゼはそんな彼女の心配など露知らず、橋の上を行き交う人々に興味津々な視線を送る。十七歳の足取りは軽く、視線はせわしなく動く。見るものすべてが面白くて、知らないことはもっと面白い。彼女にとってこのウィーンの街は、毎日が新しい発見に満ちた宝箱のような場所だった。


「そうだわ、お願いがあるの。今日だけはお嬢様なんて呼ぶのはやめて。今のあなたはわたしのお姉さんよ、いい? 今からそうしてちょうだい?」


「できません。それより、そろそろお戻りに──」


 ふとエルイーゼの足が、ある露店の前で惹き寄せられるようにぴたりと止まる。石畳の上に無造作に立てかけられた何枚かの絵。その前に座り込んで膝に板を乗せ、ぞんざいな姿勢で何か描いている男がいる。そこは欄干に数枚のキャンバスを立てかけただけの、ひどく質素な青空画廊だった。


「……っ!」


 しかしそこに描かれたウィーンの街並みが、エルイーゼの目を一瞬にして釘付けにしたのだ。一枚、また一枚と視線が吸い寄せられ、ドナウ川を描いたその一枚の前で、彼女は動けなくなる。


「……ねえ、アンナ、見て。見てよ、これ」


「お嬢様?」


「この色、おかしいわ。おかしいって良い意味よ。空がただの青じゃないの。川がただの銀色じゃないの。まるで空をそのまま川底に沈めたみたいに深くて、それでいて水面がキラキラと、まるで生きた宝石が跳ねているみたい。わたし絵のことなんてちっともわからないけど、でもこれは絶対すごいわ……!」


「分かりました。分かりましたから、あまり身を乗り出さないでくださいまし」


 エルイーゼはもうアンナの声を聞いていなかった。くるくると日傘を手の中で回しながら、絵の前にしゃがみ込んで、まじまじと眺めている。すぐそばでは、干し草のようにくすんだ髪を首筋で跳ねさせた男が顔も上げずに、浮き出た関節が目立つ手でコンテを動かしていた。


「ねえ! あなたが描いたの?」


 エルイーゼが鐘を鳴らすような大声で問いかけると、男はようやくスケッチを止めた。その榛色の眼差しに一瞬だけ値踏みするような間があって、それからにっこりと笑う。目の前で大きな瞳を丸くしている少女が、騒がしいけれど上等のシルクを纏った上客であることを見抜くのに、そう時間はかからなかった。


「そうだよ。風景画も、その可愛いお顔の似顔絵も、今ならたったの二十クロイツァー。どう?」


「二十クロイツァー? 安すぎるわ! いいわ、まずその似顔絵を描いてちょうだい」


 押しつけがましさはないけれど、気安さだけはやたらとある男だった。彼が新しい紙を取り出して膝の板に固定する間も、エルイーゼはしゃがんだままそのそばに陣取る。興味の対象を見つけて、じっとしていられる性分ではない。


「わたしのことも、このドナウの水面みたいにキラキラさせて!」


「分かった、キラキラね」


「いつもここで描いているの? 橋の上って風が気持ちいいわね。でも冬は大変じゃない? 雨の日は?」


「雨の日は描かないよ」


「そうよね。ねえ、ウィーンの絵ばかりだけれど、他の街は描かないの? プラハとか、ザルツブルクとか」


「売れないから」


「そんな理由? でも、売れるなんて関係なく描きたい街はあるでしょう?」


「絵描きだもん。売れる場所で描くのが仕事でしょ」


 男は耳元で囀る小鳥をあしらうような、極めて適当な生返事を繰り返しながらも、指先にあるコンテは迷いなく紙の上を滑っていく。エルイーゼがどれほどしゃべり続けていても、その手が止まることは一度もなかった。


「ねえ、ちゃんと聞いているの?」


「聞いてるよ」


「どこまで?」


「ザルツブルク」


 パステルに持ち替えて、色が乗り始める。橙、黄、白。光を足し算していくような、魔法じみた手つきだった。


「はい、できた」


 差し出されたのは、描き始めてからわずか十数分後のことだ。受け取った紙を見た途端、エルイーゼの時間は不意に途切れたように止まった。


「……っ、……!」


「お姉さんもどう? 今ならそっちのお嬢ちゃんより美人に描くよ」


「結構です。お嬢様、ほら、もう行きましょう。奥様がお待ちですわ」


 アンナが手慣れた様子で銀貨を支払い、男の軽い誘いを一言でいなしている。ところがエルイーゼはその場から一歩も動けなかった。彼女の手の中で、安っぽい紙がわなわなと小刻みに震え始める。


「……お嬢様? どうかなさいましたか?」


「見てよこれ。見てちょうだい、アンナ!」


 叫ぶような声とともに、エルイーゼは紙をアンナの眼前に突きつけた。

 そこに描かれていたのは、彼女自身が鏡の中にだって見たことがないほど、輝きに満ちたエルイーゼの姿だった。高く結い上げられた金褐色の髪が風を含んで柔らかくほどけ、頬には陽光の名残のような温かな色が差し、翠色の瞳は何かを見つけた瞬間の輝きをそのまま閉じ込めたように生き生きと笑っている。


「すごい。この場所を歩いていると、全然違う誰かになれるって……本当のことだったんだわ。わたし、こんなに素敵に描いてもらったの初めてよ!」


 エルイーゼは大はしゃぎで足を踏み鳴らした。男はすでに別の客を捕まえようと通りすがりの子供に手を振っていたが、エルイーゼは逃がさない。ガバッと顔を上げると、のんびりと座り込む彼の前に膝をつき、胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄った。


「ねえ」


「ん?」


「お願い、あなたに描いてほしいわ。わたしの肖像画を描いて。ちゃんとした、大きなキャンバスに!」


 彼は初めて、本当の意味でエルイーゼを見た。二、三秒、呆気に取られてぽかんとしている。瞬きを繰り返し「ちょっと待って」というように手のひらを差し出してからようやく口を開いた。


「え、肖像画?」


「うん」


「なんでおれ? 似顔絵ならここで二十クロイツァーでやってますけど……」


「あなたの描く絵が気に入ったから」


 向けられた猛烈な熱視線に、彼は心底困り果てて顔をしかめる。そんな注文を受けたのは初めてだったし、そもそも彼は肖像画家ではない。別に描けないことはないが、金持ちの居間に飾るような品の良い絵の描き方など、これっぽっちも持ち合わせていないのだ。


「えー……。お嬢ちゃん、やめといたほうがいいよ」


 逃げるように視線を逸らして、断り文句を並べた。目の前の少女は見るからに金払いが良さそうだが、それだけで引き受けるにはわずかに残った良心が痛んだ。


「肖像画なんてさ、もっとちゃんとした人に頼むもんでしょ。せっかく可愛いのにさ。こんな街角の半端なやつに描かせたらもったいないって」


 片手でコンテを弄びながら「パパに怒られちゃうよ」と追い払うように手をひらひらさせた。しかしエルイーゼの瞳に灯った火は、もはや誰にも消せそうにない。


「いやよ、あなたがいいの。わたしはちゃんとした人の絵より、あなたの絵のほうが好きよ」


「……お嬢ちゃん、褒め上手だね」


「うん。よく言われるのよ。それじゃあ引き受けてくれる?」


 身を乗り出して詰め寄るエルイーゼの勢いに、彼は面食らって後ずさった。背後ではアンナが深い溜息をつき、周囲の目を気にしながら彼の耳元でこっそりと囁く。


「お嬢様はこうなったら、あなたが描くと仰るまで、明日になってもここを動きませんわ。このまま橋の上に居座られたら、奥様と旦那様にお咎めを受けるのは私なのです。どうか形だけでも引き受けてはいただけないでしょうか?」


 切実な代弁に彼は「げえっ」と顔をしかめる。アンナは疲れ果てた目をした気の毒な侍女だった。それからエルイーゼは、まっすぐこちらを見つめ返してくる、有無を言わせない少女だった。


「……分かったよ」


 綺麗な身なりをして、中身はとんだ厄介なお嬢様だ。だが、日傘を握りしめて期待に頬を染めている彼女を見ていると、不思議と悪い気はしない。


「いいよ、描いてみようか。お嬢ちゃん、名前は?」


 途端、エルイーゼの顔がぱあっと明るくなる。さっきの似顔絵の中の笑顔が、そのまま再び目の前に現れたようだった。


「エルイーゼよ! エルイーゼ・フォン・リーベンフェルス。あなたは?」


「ルートヴィヒ・レンツェだよ」


「ルートヴィヒ!」彼女は嬉しそうに繰り返した。「よろしくね、ルートヴィヒ」


「敬称とかないんだね」


「だってわたしたち、もうお友達でしょう」


 アンナが再び大きくため息をついた。ルートヴィヒも似たような息を吐き、無造作に伸ばされた金の髪をかき上げた。ドナウ運河をまたぐ橋の上は、相変わらず賑やかすぎる喧騒に包まれていた。

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