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第九話

 リーベンフェルス家のギャラリーは、熱気と香水の匂い、そして格式張った社交辞令の応酬で満たされていた。当主である男爵が自慢のコレクションを披露する内覧会。招待された社交界の重鎮や美術評論家たちは、金色の額縁に収まった聖人や英雄たちの絵を、手にしたグラスを揺らしながら品定めしている。

 その喧騒の渦中。入り口から最も目立つ、本来なら今日一番の目玉であるはずの宗教画が飾られるべき場所にその絵は忽然と現れた。エルイーゼとフェリックスが、父が招待客との挨拶に没頭している隙を見逃さず、背後の使用人たちをも鮮やかに欺いて入れ替えたのだ。


「……ねえフェリックス、本当に大丈夫かしら? わたし、急に心臓がどきどきしてきたわ」


「大丈夫だよ、エルイーゼ。父さんは今、ルネサンスの宗教画の解説で忙しい。あのお喋りが終わる頃には、客たちの称賛が耳に届いて『おや、こんな名品がうちにあったかな?』と鼻を高くするさ。……それより、あっちを何とかしないと」


 フェリックスが視線を向けた先には、壁際に直立不動で突っ立っている、一人の場違いな紳士がいた。ルートヴィヒはフェリックスから無理やり貸し出された燕尾服に身を包み、死ぬほど居心地が悪そうな顔をしている。


 数時間前、彼にとっての悲劇は、まだ星が残る早朝に幕を開けていた。フェリックスに叩き起こされ、半ば引きずられるようにして裏口からリーベンフェルス邸に放り込まれた彼は、そこから二人の着せ替え人形へと成り果てたのである。


「……なんでおれ、朝の六時にお前の部屋で着替えさせられてんの?」


「黙って袖を通して。君のその、どこで拾ったのか分からない服じゃ、ギャラリーの敷居を跨いだ瞬間に執事に塩を撒かれるからね」


 真っ白なシャツと燕尾服を鼻先に突きつけられ、「三大欲求に逆らいたくない……」とぼやきながら、ルートヴィヒは半分寝たまま腕を袖に通していく。着替え終わる頃には、燕尾服の息苦しさに早くも脱ぎたそうな顔で襟元を弄っていた。


「まあ、ルートヴィヒ。見違えたわ。あとはその寝癖さえどうにかすれば、立派な若き天才の出来上がりね!」


 そこへ勢いよく扉が開き、エルイーゼが弾んだ足取りでやってきた。彼女は手にした櫛を揺らして、彼を鏡の前へ追い込む。


「痛いってエルイーゼ、頭皮剥げる。……あ、もう剥げたわ、これ」


「我慢してよ。天才画家は、少し謎めいた雰囲気で洗練されていなきゃダメなの。この一束をこう垂らして……ほら、退廃的で素敵じゃない?」


 格闘すること小一時間。鏡の中にいたのは、いつもの橋の上の野良犬ではなく、どこか陰のある、それでいて貴公子然とした若き芸術家──に、無理やり仕立て上げられた、心底気だるそうな男だった。


「完璧だわ。これなら、あのアカデミーの教授たちも『どこの名家の隠し子だ?』って腰を抜かすはずよ!」


「よし、作戦開始だ。君はただ、最低限の挨拶と愛想笑いをして立っていてくれればいい。君の無作法が露呈する前に、僕たちがすべて引き受けるから」


 そして現在。右にエルイーゼ、左にフェリックス。鉄壁の布陣で両脇を固められ、ルートヴィヒは逃げ場を失っていた。


「……ねえ。さっきからあっちのじいさんがおれのこと睨んでんだけど」


「睨んでいるんじゃないわ、驚いているのよ! ほら笑って、ルートヴィヒ。……あ、やっぱり笑わなくていいわ。何か企んでいるみたいで怖いから」


 エルイーゼの扇の影で早口に囁いていると、人並みから一人の貴婦人が進み出てきた。芸術サロンの主宰者として知られ、その審美眼はウィーン随一と謳われるレンブルク侯爵夫人だ。彼女は手にしたレースのハンカチを口元に当て、キャンバスの前に立ち尽くした。


「……まあ、なんてこと。こんな色使い、今まで一度も見たことがありませんわ。まるで光がそのまま絵具になったみたい」


 夫人は吸い込まれるように絵に顔を近づけ、それから隣に立つエルイーゼを慈しむように見つめる。


「それに、なんて素敵な笑顔かしら。昔からよく笑う可愛らしいお嬢さんだったけれど、この絵の中の令嬢は……まるで魂が輝いているようですわね」


 その言葉を聞いた瞬間、エルイーゼは胸を張って満面の笑みをご機嫌に咲かせた。


「光栄です、侯爵夫人。わたしも、この絵の中に本当の自分を見つけたような気がしておりますの!」


「さすがお目が高い。夫人、この色彩の躍動こそが彼の真骨頂です。伝統的な技法に背を向け、光そのものを捉えようとするその筆致……。彼は既存の美学を塗り替える、まさに時代の開拓者なのです」


 すかさずフェリックスが、待ってましたとばかりに淀みない口調で喋り出す。その饒舌な解説はまるで彼自身が描いたかのような熱量だった。ルートヴィヒが「……いや、そこまで考えてねーし」と口を挟む隙など一ミリもない。


「素晴らしいわ。レンツェさん、ぜひ今度わたくしのサロンへお越しになって。他の方々にも紹介したいわ」


 侯爵夫人は満足げに微笑み、優雅な足取りで去っていった。その姿が見えなくなるやいなや、エルイーゼとフェリックスがルートヴィヒの両脇を小突く。


「ねえ、聞いた? あのレンブルク侯爵夫人よ。いきなり招待されるなんて!」


「幸先がいいね。ウィーンの流行が、今この瞬間にも君の筆先から塗り替えられていく予感がするよ」


「さっきの解説盛りすぎだろ。眩しかったからそのまま塗っただけなんだけど」


「しっ! それを言ったら台無しだよ。君は今日から、リーベンフェルス家が秘蔵していた若き天才なんだから」


 フェリックスが楽しげに嗜めていると、ふとギャラリーの空気が一変した。人だかりを割って、アカデミーの名誉教授エメリッヒが現れたのだ。彼は保守的な古典主義の守護神。厳格な美学を重んじる彼にとって、この光の爆発のような絵は到底見過ごせるものではなかった。

 

「……なるほど。色彩の躍動、か。実に奔放な筆致だ。光の捉え方は興味深いが、いかんせん伝統的なデッサンへの敬意が足りない。古代の巨匠たちが築き上げ、ルネサンスが完成させた永遠の美学への冒涜と言わざるを得ないな」


 重々しい評論に周囲の批評家たちも「左様ですな」「基礎がなっとらん」と追従し、一瞬で周囲が静まり返った。ルートヴィヒが「あー、やっぱり来たか」と、どこか他人事のように腕を組んで見つめていた、その時。


「まあ、エメリッヒ教授。そんな風に思っていらしたの?」


 エルイーゼが今にも泣き出しそうなほど潤んだ瞳で、エメリッヒの前に踏み出した。彼女は肖像画と自分自身を交互に見せながら小首をかしげる。


「わたし、レンツェさんが描いてくれたわたしが、光の中で踊っているみたいで大好きだったのに。……教授のお目汚しになってしまうほど、わたしは可愛くないのかしら。……何だか悲しくなってしまったわ」


「えっ、あ、いや。そういう意味では……」


 エメリッヒは絶句した。彼はあくまで、筆致の放蕩さや古典的な秩序の欠如といった芸術理論を説いていたつもりが、目の前の少女には自分自身の否定として届いてしまったようだった。流石にこの無垢な令嬢に向かって、正論を冷酷に突き通せるほどの心臓を彼は持っていない。


「伝統も大切だが、この……独創的な輝きは、その、令嬢の美質をよく捉えている。うむ、実に瑞々しい」


 エメリッヒが「……いやはや、女の子というのは、どうしてこう扱いが難しいのだ……」と逃げるように去っていく。その背中を見送りながら、エルイーゼはケロリとした顔でルートヴィヒを振り返った。


「やば。エルイーゼ、超性格悪いじゃん」


「あら、魔法使いさん。わたし、あなたの才能を守っただけよ。ねえ、フェリックス?」


「全くだ。君の筆先が生み出した価値を、古い定規で測らせるわけにはいかないからね。……にしてもエルイーゼ、今の演技は僕でも騙されるところだったよ」


 フェリックスが楽しそうに目を細め、三人は誰にも聞こえない声で笑い合った。


「……まあ助かったけどさ。でもあの人、なんか結構偉い人でしょ。あんなことしていいの?」


「いいんだよ。エメリッヒは確かにアカデミーの重鎮だが、彼は美の守護者を自認している。つまり、淑女の涙を無視してまで自分の持論を押し通すような無作法な真似は死んでもできないんだ」


「そうよ、わたしの涙が一番の特効薬なんですもの。少しは新しい風に当たらないと、頭にカビが生えちゃうわ!」


 ルートヴィヒは「……へー、貴族の理屈ってよくわかんね」と、呆れを通り越して感心したように呟いた。ギャラリーの喧騒はさらに増していく。自分たちを縛るはずの格式高い社交界の真っ只中で、三人はまるで秘密の共犯者のように、輝く肖像画の影で自由を謳歌していた。

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