第十話
ルネサンスの宗教画について一通り語り終え、満足げな表情を浮かべたリーベンフェルス男爵は、ついにその異変に気づき足を止めた。
本来なら今日一番の目玉である聖母子画が鎮座しているはずの特等席。そこに収まっていたのは、重厚な静謐さとは正反対の、光が跳ね踊るような瑞々しい愛娘の肖像だった。
「……おや」
その前には、逃げ遅れた……もとい、確信犯的に待ち構えていた二人の姿。誇らしげに胸を張るフェリックスと、それとは対照的に、小さく身を縮めようとしているエルイーゼである。
「フェリックス。エルイーゼ。……これは一体どういうことかな? 私の自慢のコレクションの中に一輪、見たこともない野生の花が紛れ込んでいるようだが」
父の声に、エルイーゼは思わず兄の背中を盾にするように隠れた。しかしフェリックスは動じず、不敵に微笑んで一歩前へ出る。
「父さん。これこそが、本日の内覧会における真の目玉です。……ルートヴィヒ・レンツェ。エルイーゼが見出した、ウィーンで最も光を捉えるのが上手い魔法使いですよ」
「……お父様、驚かせてしまってごめんなさい。でも、この光を見てほしかったの。ルネサンスの静謐も素敵だけれど、今のギャラリーには、きっとこの輝きが必要だと思ったのよ」
エルイーゼも祈るような気持ちでそっと父を見上げた。父が自慢げに語るコレクションを退屈だと切り捨てた彼女だが、それは父の審美眼を否定しているからではない。むしろ芸術を愛し、その力に心動かされる父の感性は誰よりも信頼しているのだ。
「……困ったものだ」
男爵はしばらく黙っていたが、吐息のような声を漏らすと肩の力を抜いた。エルイーゼの切実な祈りが通じたのか、あるいは、キャンバスから溢れ出す生命力が心を打ち砕いたのかもしれなかった。
「内覧会の目録を勝手に書き換えるとは、リーベンフェルス家の息子としては少しばかり、いや、相当に不作法だよ、フェリックス。……そしてエルイーゼ。そんなに潤んだ瞳で私を見ても、今回は誤魔化されんぞ」
困り果てた、それでいて愛おしげな苦笑いを浮かべ、エルイーゼの頭を優しく撫でる。
「……この絵はあまりに眩しすぎて、私の目には少しばかり毒だ。……だが、今日来た客たちの顔を見てごらん。皆、その魔法使いが描いた光に、毒されるどころか救われたような顔をしているよ」
男爵は周囲の招待客たちが熱心に絵を論じ、感嘆の声を漏らしている様子を静かに眺めた。そして、もう一度キャンバスに目を戻す。厳格な秩序という美学を持って描かれた絵画の中で、その一枚だけが、まるで壁を切り抜いてドナウの陽光を直接引き込んだかのように、瑞々しく脈動していた。
「勝手な真似をした二人には、あとでたっぷりお小言を聞かせなくてはならないが……。画家の感性だけは、認めざるを得ないな」
「……すごい。やったわ! ねえ、今ギャラリーの空気が確かに震えたわ。ルネサンスの聖母さまたちも、きっと驚いて目を覚ましてしまったに違いないわ!」
「父さんをこんなに狼狽させたのは、二人でシャンデリアを割って以来だね、エルイーゼ。これで明日からの社交界の噂話は、君を描いた魔法使いで持ちきりだ!」
兄妹は子供のように手を取り合い、歓喜の声を弾ませた。自分たちの信じた才能が、ついにこの家の主によって祝福されたのだ。エルイーゼは胸の高鳴りを抑えきれず、この奇跡を起こした最大の功労者を振り返った。
「ねえ、聞いた? ルートヴィヒ、お父様も認めてくれたのよ!」
ところが彼女が差し出した手の先に、あの窮屈そうな燕尾服の主はいなかった。右を見ても、左を見ても。つい数分前まで「酸素が足りない」「お腹空いた」とやるせなさを漂わせて立っていたはずの青年は、栄光を放り出したまま忽然と姿を消していた。
「……あら? ルートヴィヒ?」
主役のいなくなった空間に、エルイーゼの困惑した声が小さく溶けていく。魔法使いは自らがかけた魔法の余韻だけを残して、夜明けの夢のようにどこかへ消え去ってしまったのである。
一方、熱気のこもったギャラリーを抜け出し、屋敷の扉から一歩外へ踏み出すと、そこには全く別の時間が流れていた。
「……あー、死ぬかと思った。二度とやんない、絶対」
華やかな拍手を背後に押しやって、ルートヴィヒはリーベンフェルス邸の広大な庭園へと逃げ出していた。草花は己の背丈を競うようにのびやかに咲き誇り、露を含んだ土の匂いが優しく鼻をくすぐる。
彼は芝生の上に腰を下ろし、借り物の燕尾服を無造作に放り出した。汚れなど知ったことではない。シルクのタイに至っては、ここへ辿り着くまでの迷路のような廊下のどこかで解き、投げ捨ててきてしまった。手には通りすがりの給仕から「それちょうだい」と半ば強引にもらってきたシャンパングラス。彼はそれを喉の渇きを癒やす水のように思い切り煽った。
「生き返る〜……」
昼間の高い太陽が、グラスの底に残った水滴を宝石のように光らせる。片手でベストの前のボタンをすべて外し、窮屈なシャツの首元を緩めた。昼下がりの風が布地を膨らませ、心地よく抜けていく。
その時、屋敷の中から、「ルートヴィヒ?」とフェリックスの声が小さく聞こえた。探されているのは分かっている。あの夢見がちな共犯者たちが、高価な裾を芝生の露で汚しながらも追いかけてくるに違いない。
「見つかる前にもう一杯どっかで調達してくんだったな……」
ルートヴィヒが深く息を吐き出すと、早速背後の生垣から「あー、見つけたわ!」という弾んだ声が飛んできた。
「なんて格好かしら。自分の脱皮した殻を廊下にぶら下げていくのはお門違いではなくて?」
振り返ればエルイーゼの手には、彼が逃走経路に捨ててきたはずのシルクのタイが、まるで捕獲された蛇のように握られている。
「どっか落としてきたやつじゃん。わざわざ拾ってこなくていいって」
「落としたんじゃなくて、捨てたんでしょう?」
「……はいはい。でもおれ、今日はもう戻んないよ」
ルートヴィヒは子供のように唇を尖らせ、そのまま後方へ倒れ込んだ。日差しが横顔の無骨な輪郭を浮かび上がらせ、柔らかな芝生が疲れた背中を受け止める。投げ出された脚を無造作に組み替え、横目で彼女をうかがった。
「今日はもう十分すぎるくらいだわ。付き合ってくれてありがとう、ルートヴィヒ。やっぱりあなたの才能は、世界中の宝石を曇らせるほどのダイヤモンドだったみたいね!」
声を弾ませて、エルイーゼは満面の笑みを浮かべる。その声があまりに素直で優しかったから、ルートヴィヒは少しだけ面食らって空を仰いだ。
「……。分かったんなら、エルイーゼはさっさと戻ってお客さんの相手してきなよ。朝から叩き起こされて眠いし、おれもうここで寝るわ」
目を閉じ、腕を頭の後ろに回して、彼は完全に店じまいを決め込んだ。そのあまりに雑で勝手な言い分に、エルイーゼは「ちゃんと聞いてよ!」と騒ぎ出す……かと思いきや、その場でけらけらと声を上げて笑い出した。
「いいわ、決めた。わたしも今日はおしまい!」
「……はあ?」
彼が片目を開けた瞬間、隣で視界が激しく揺れた。
ドサリ、という重みのある音。続いて、高価なシルクが芝生と擦れる贅沢な衣擦れの音。エルイーゼは令嬢としての嗜みも、ドレスの汚れもすべてを放り出してルートヴィヒの真横に寝転がったのだ。
「すごい。寝転がってみると、空ってこんなに低い位置にあるのね。手を伸ばせば、あの雲の端っこを千切って絵具に混ぜられそうだわ!」
「えー、何してんの……」
ルートヴィヒの困惑を置き去りにして、エルイーゼは隣で足をバタつかせ、無邪気に指を差してはしゃいでいる。そのあまりの迷いのなさに、ルートヴィヒは呆れを通り越して、喉の奥から笑いが込み上げてきた。
「やっぱ変な子……」
「変でいいのよ。それが嬉しいわ。誰でもないわたしでいられるんですもの」
彼女は健康的な若さを湛えた白い腕を空へと伸ばし、五本の指を大きく広げた。その隙間から零れる陽光が、彼女の瞳の中で金色の火花を散らしている。雲を捕まえようとするその仕草は、何にも縛られない自由な生き物そのものだった。
「ねえ、聞いて。わたし、もうすぐデビュタントなの。社交の場に正式に出るようになれば、もっとたくさんの方とお知り合いになれる。そうすれば、もっと色々な人にあなたの才能を知ってもらえるわ!」
ルートヴィヒはそれを聞いて、目を閉じたまま顔をしかめる。またあの肩の凝る燕尾服に身を包む日が来るのかと思うと、げんなりしたのが本音だ。だがあのギャラリーで、自分の絵を前にして誰よりも誇らしげに胸を張り、褒められれば自分のことのように、あるいは自分以上に、弾けるような笑顔で喜んでいた彼女の姿が脳裏をよぎる。
……あそこまで喜ばれると、悪い気はしないけど。
彼はそんな柄にもない感傷に浸り、瞼を閉じたまま黙り込んだ。
「ちょっと! ルートヴィヒ? 返事がないわ、もう寝ちゃったの⁉︎」
隣からエルイーゼが身を乗り出し、彼の肩を思い切り揺さぶってくる。その無邪気すぎる勢いに、ルートヴィヒは「それやめて」と片手で彼女の突進を制した。
「……起きてるよ。うるさいな。……まあたまになら、考えないこともないけどさ」
「あら、言ったわね。約束よ、魔法使いさん!」
エルイーゼは勝ち誇ったように笑い、満足げに再び芝生に体を預けた。高く広がるウィーンの空、流れる雲。奔放な男爵令嬢と、その日暮らしの名もなき画家。不作法極まりない二人は、陽光に誘われるようにまどろみの中へと落ちていく。
数分後、芝生に転がる二人を見つけたフェリックスが「……今日の目玉は、この『野良猫たちの昼寝』に書き換えるべきかな」と呟くことも。その直後、無造作に放り出された自分の燕尾服を見つけ、今度は裏返った声で憤慨し始めることも。眠りの中にいる二人にとっては、もはや知った話ではなかった。




