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不遜な女神へのオマージュ  作者: 櫻まど花


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第二十九話

 冬のウィーンの凍てつく寒さの中で、二人は一枚の毛布にくるまって、互いの体温だけを灯火のように夜を越した。

 ルートヴィヒは暗闇の中で、エルイーゼを抱きしめる腕にふと力を込めては、何度も「ほんとに後悔してない?」と聞き返していた。それは彼女が捨ててきたものの大きさを知っているからこその、彼なりの怯えだったのかもしれない。けれどエルイーゼは、そのたびに彼の胸に深く顔を埋めて、くすぐったそうに笑うのだった。


「そんなことよりね、ルートヴィヒ。昨日はわたし、一人でグラーシュを煮込んだのよ。もっと褒めて」


 のんびりと体を伸ばして甘える彼女の指先には、慣れない家事で作った小さな傷が刻まれている。その指で誇らしげに語る彼女は、かつてのどの肖像画よりも生き生きと輝いて見えた。


 春が訪れて石畳の隙間の雪が解け始める頃には、エルイーゼはマグダやフィーネの手を借りずとも一人で買い物に出かけられるようになっていた。それでもルートヴィヒは「ついでがあるんだよ」だの「あそこの店主はふっかけてくるから」だのと適当な理屈をこねては結局後ろを付いて歩いた。

 相変わらず姉妹からは「エルの成長の邪魔しないでよ」と煙たがられていたが、「これ、おれがめっちゃ値切ったから」と戦利品を突き出すようになると、彼女らも「……まあ、荷物持ちくらいならいいんじゃない?」と、ようやく共存の道が見え始めるようになった。


 ある日のマルクトで色とりどりの品が並ぶ露店を覗きながら、エルイーゼは一本の淡い空色のリボンにふと目を留めた。ルートヴィヒはそれを見逃さず、「いいじゃん。エルに似合いそう」と軽く笑って買い求めると、慣れない手つきで彼女の髪に結んでやった。

 かつての彼女はメイドたちの手によって、彫刻のように精緻で魔法のように華やかな髪型をしていた。今では自分で簡単な編み込みにするのが精一杯だったが、ルートヴィヒは鏡の前で髪をいじる彼女の後ろ姿を見て、「女の子なんだしやっぱああいう可愛いのがしたいよな」と密かに思っていたのだ。

 だから最近の彼は、暇さえあれば「ちょっと練習させてよ」とエルイーゼの髪を弄っている。絵で培った指先の器用さを、その時ばかりは筆ではなく彼女の細い金褐色の髪に注ぎ込んでいた。


「……いたっ、ルートヴィヒ、指に引っかかっているわ」


「あー、ごめん……優しくしてるつもりなんだけど。これすっげえ神経使うわ」


 彼女を可愛くするために、当の本人の髪で練習を重ねるというどこか可笑しな状況。だが真剣な顔をして編み込みと格闘する彼を、エルイーゼは鏡越しに微笑ましく見つめた。

 夏の陽光がウィーンを瑞々しい緑に染める頃、二人は涼を求めてアウガルテンを訪れた。木陰の涼しい風の中で、エルイーゼは熱心に手を動かしていた。


「ねえ、見て。ここをこうして……。ママに教わった通りにすれば、綺麗なお花の模様になるのよ」


 彼女がママと呼ぶのは、自分を娘として受け入れてくれたケルナー夫人のことだ。細い指はかぎ針を操り、繊細なクロシェレースを編み上げている。その隣でルートヴィヒは芝生に寝転がったまま、頬杖をついて彼女の手元をぼんやりと眺めていた。


「そんな細かいことよくやるね。見てるだけで指攣りそう」


「少しずつ形になっていくのが嬉しいの。完成して、ママに見せるのも楽しみなのよ」


 そう言って微笑むエルイーゼの横顔は木漏れ日に透けて、どこか夢のように美しい。ルートヴィヒはしばらくその様子を眺めていたが、やがて思い立ったように傍らの画帳を手に取り、さらさらとスケッチをし始めた。


 街が枯葉色の装いに変わる頃には、アトリエの大きな窓から差し込む斜光が、一枚のキャンバスを鮮やかに浮かび上がらせていた。そこへ不意に訪ねてきた馴染みの画商に対し、ルートヴィヒは露骨な舌打ちを隠さない。うっかり片付け忘れていた描きかけの彼女を、画商の目が逃さなかったからだ。


「……レンツェ。これはまさか、あのリーベンフェルス家の令嬢か?」


 ルートヴィヒ・レンツェという名をウィーンの芸術界に刻みつけたのは、かつて彼が描いた二枚の肖像画だった。モデルとなった令嬢やパトロンであったその兄と、彼が懇意にしていた事実は広く知られている。


「……それ売りもんじゃないですよ。ただの趣味だから」


 テレピン油で筆を洗う手を止めずに、ルートヴィヒは投げやりに応じた。だが画商は、額に汗を浮かべながらキャンバスを覗き込み続けた。例の二枚の絵は今もリーベンフェルス家にある。亡くなった妹を思い出すからと彼への支援を打ち切ったあの兄が、屋敷の奥にしまい込みはすれど、決して手放すことのない遺品。もしこれが彼女の未発表の肖像画だとしたら、それなりの高値がつくことは想像に難くない。


「しかし、この筆致……生きているようだ。まるでそこに彼女がいるような……」


「似てますかね? でもほら、好みの顔なんかそうそう変わんないでしょ。昔からああいうのがタイプなだけですよ」


 鼻を鳴らし、冗談めかして笑い飛ばす。詮索を煙に巻くための彼なりの必死な誤魔化しだったが、それがかえって画商の空想をかき立ててしまったらしい。噂は尾鰭をつけて、翌日には芸術家たちが集まるカフェで悲恋の物語へと姿を変えていた。


「聞いたか? レンツェは亡きミューズを忘れられず、面影の似た女を探し出して囲っているらしい」


「死んだ恋人を画布の上に蘇らせようと足掻いているのだ。あの傲慢な男にそんな一途な情念があったとは……」


 そんな劇的な誤解を真っ先に信じ込んでしまったのがマグダとフィーネだった。二人はエルイーゼを囲むと、今にも泣きそうな顔で訴えた。


「エル、可哀想に。あの男があんたを連れてきたのが、そんな身勝手な理由だったなんて……」


「ほんと最低。あんたの中に別の女を見てるのよ。あんな男、今すぐウィーンから追い出してやりたいわ」


 散々慰められ、困惑しきったエルイーゼが屋根裏部屋を訪れると、ルートヴィヒは相変わらず呑気な顔をしていた。


「いや、そんなつもりじゃなかったんだけど。でも結果的に絵の単価も上がったし、まあいいかなって」


 世間では彼を、亡き想い人の面影を追う悲劇の画家として称える声が再燃していた。だがその勝手な噂こそが、皮肉にもエルイーゼを守る盾となったのだ。

 日々の買い物やアウガルテンでの散策、そして生活を彩る豊かな陽光は、彼女の肌を健康的な色に染め、かつての令嬢の面影を上書きしていく。立ち居振る舞いはケルナー家の娘としてすっかり馴染み、今や彼女をリーベンフェルス家の亡霊と疑う者はいなかった。

 あの画家が執着している亡き令嬢に瓜二つの別人、という都合の良い肩書きが彼女に自由を与えたのだ。


 そうして再び冬を越し、ウィーンの街にはエルイーゼの死から二度目の春が巡ってきた。石畳を濡らした雪解け水は陽光を跳ね返し、並木道のマロニエが若芽を膨らませている。


「……エル、ちょっとこっち来てよ」


 窓から吹き込む春の風が埃っぽさを浚っていくアトリエで、イーゼルの前に座ったままルートヴィヒは軽い調子で声をかけた。描き始めると寝食を忘れて没頭してしまう彼のために、エルイーゼが食事を運んでくるのは日常の光景だ。二人は並んで座り、温かな食事を分け合う。そして絵筆を置いた合間のひととき、彼は決まって彼女の髪をいじり始めるのだった。


「今日はね、スミレ混ぜてみた。さっき下の道にちっちゃい花売りがいてさ、エルを飾るのにちょうどいいと思って」


「わたしのために? 嬉しい……。とってもいい香りね」


「そうだよ。ウィーンで一番の美人に似合うやつちょうだい、って言ったらさ、カゴん中ひっくり返して、色が濃くてシャンとしてるやつ何本も選んでくれたの」


 彼はエルイーゼが自分で結んでいたリボンを指先でゆっくりと解いていく。さらりと零れた髪を指で梳き、スミレを一輪ずつ宝物を扱うような手つきで忍ばせていった。


「そうだわ、ねえ、これも一緒に結んで。今日は絶対にこれがいいの」


「わかったわかった。ちょっとじっとしてて」


 エルイーゼが勢いよく振り返って差し出したのは、ケルナー夫人に教わって自ら編み上げた、繊細なクロシェレースのリボンだった。ルートヴィヒの指先は、ケルナー家の姉妹に「向いてない」だの「エルが可哀想」だのとなじられながら習得した器用な手つきで、エルイーゼの自慢のレースを編み込んでいく。


「できた。ほら見て、おれの腕も上がったでしょ」


 手鏡を渡されたエルイーゼはパッと顔を輝かせ、何度も角度を変えて鏡を覗き込んだ。


「素敵……! スミレとこのリボン、特別にあつらえたみたいにぴったりだわ。このふわふわした編み込みも大好き。本当にわたしの髪を扱うのが上手になったわね」


「ほんと? 絵描きに飽きたらこっちでも食っていけるかな」


 ルートヴィヒはいつものように茶化して笑う。しかしエルイーゼは弾かれたように鏡を置き、真剣な眼差しで彼を振り返った。


「……だめよ」


「え?」


「こんなことをするのは、わたしだけにして。わたしだけがあなたの特別でいたいの。だから、他の誰にもこんな魔法は見せないで」


 誇らしげに、そして少しだけ独占欲を滲ませて笑った彼女の顔。その一瞬の輝きに、ルートヴィヒは息を呑んだ。画布に閉じ込めることなど到底できない、生身の彼女から目が離せなくなる。

 今までずっと、言葉を飲み込んできた。彼女の素性が露見すること、フェリックスが仕掛けた策略が無に帰すこと……案じるべき理由はいくらでもある。けれど、目の前で「特別でいたい」と笑う彼女に、そんな理屈や懸念はすべて焼き尽くされてしまった。

 この女神を、ただ自分一人だけのものにしてしまいたい。


「……エルイーゼ。あのさ、おれと結婚して」


 それは描きかけの絵の感想を述べるように、あまりにさらりと零れ落ちた、心からの本音だった。エルイーゼは目を丸くして固まり、ルートヴィヒは少しだけ決まり悪そうに、けれど視線だけは逸らさずに言葉を重ねる。


「いや、ずっと言いたかったんだけど。もういいだろ、これだけ待ったんだし」


 彼はそのまま、呆然としている彼女の細い肩を力強く抱き寄せた。エルイーゼは腕の中に閉じ込められ、彼に染みついた油絵具の匂いと、スミレの瑞々しい香りが混じり合う。


「本物の夫婦になって。……言っとくけどさ、もし断られたらもう一生独身で通すよ。それくらい諦めが悪いんだ、おれは。そんな惨めな男にさせないで、エルイーゼ」


 耳元で響く切実な体温に、彼女は一瞬だけ身をこわばらせ、それから、堪えきれないといった風に笑い声を上げた。


「ふふ……っ、ひどいわ、ルートヴィヒ。こんなの、全然わたしが夢に見ていたようなプロポーズじゃないわ!」


 彼女は彼の腕の中で身をよじって笑い、その体温を確かめるように背中に手を回す。呆れ果てながら、それでも何よりの愛おしさを込めて抱き返した。


「跪いてもいないし、詩の一節もない。……でも、あなたはそういう人だものね。わたしは、そんなあなたが好きなのよ」


 ルートヴィヒは腕の力を少し強め、彼女の温もりを噛み締めるように目を閉じる。エルイーゼは彼の胸に耳を当てたまま、いつもより早い鼓動を聞きながら続けた。


「……あのね。前にあなたが、お兄様やお父様や、親友になれると言ってくれたとき、本当に嬉しかったわ。……でもルートヴィヒ、これだけは知っていてほしいの」


 自由を求めて名前を捨てたあの日から、二人はずっと、宙に浮いたような関係のまま寄り添ってきた。夫婦という名目さえ持たず、ただの画家とモデルとして、あるいは愛し合う男女として。


「あなたがわたしの家族になってくれるように、わたしもあなたの家族になれるのよ。わたしたちはお互いを支えにして、欠けているところを埋め合うの。それが家族というものだから」


 けれど今、アトリエに吹き込む春の風の中で、二人の間にあった見えない境界線は、鮮やかな色彩に溶けて消えていく。


「……わかった。これからはおれが画材を買い込んで食費を使い果たす前に、エルがしっかり怒ってくれるって信じてるから」


「ええ、約束するわ。その代わり、あなたも誓ってね。この先ずっと、どんなに忙しくても、どんなに名声を得たとしても。今日みたいに花を買ってきて、わたしの髪を結んで。一生わたしを特別扱いするって約束して」


 その不遜で、けれどあまりに愛らしい命令に、ルートヴィヒは今日一番の笑みをこぼした。


「言われなくてもそうするって。大体おれ以外の男が、エルのその頑固な癖っ毛と指が攣りそうなレースを相手にできるわけないし。おれだけの特権だろ、これは」


 ルートヴィヒは彼女の頭を引き寄せ、やがてどちらからともなく唇を重ねた。それは物語の終わりにあるような劇的な口づけではなく、これから続いていく何千回、何万回という日々の始まりを告げる、穏やかな約束だった。


「ほんとさ、おれにはもったいないくらいの奥さんだよ」


 キャンバスの中で彼を魅了し続けたミューズは、今、その額縁を飛び出した。永遠に変わらない絵画としての美しさではなく、共に歳を重ね、共に笑い、時には喧嘩もしながら生きていく。たった一人の愛しい妻として、彼のそばにいる。

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