第二十八話
「あのね、ルートヴィヒ。今日はジャガイモを十個も剥いたのよ。マグダにもちゃんと食べられるところが残ってるって褒められたわ」
屋根裏部屋の薄っぺらい扉を押し開け、エルイーゼは誇らしげに報告した。最近では「もう一人で出歩いても迷子にならないわね」と姉妹からお墨付きをもらい、自由な時間ができればこうして彼のアトリエへ遊びに来るのが日課になっていた。
「すごいじゃん。怪我しなかった?」
イーゼルの前に座るルートヴィヒは、キャンバスに向けた視線を外さないまま、器用に筆を動かしながら応えた。
「大丈夫、もうすっかり慣れたのよ。ほら見て」
差し出された指先は、かつての白磁のような滑らかさは失われ、水仕事のせいで少し赤みを帯びている。けれど、その変化こそがエルイーゼにとっては誇らしかった。この街の空気の中で、自分の手で生きている証拠のように思えるからだ。
かつてはパレットを握ることさえ気分次第だったルートヴィヒも、近頃は画商からの依頼も増え、「描きたい時にしか描かない」という放蕩ぶりは影を潜めていた。画材で溢れていた床も彼女との約束通り、それなりに、あくまで彼なりにだが片付いている。
ケルナー家の姉妹からは「あんな一文無しの何がいいの?」と呆れ顔で聞かれるが、エルイーゼにとってはルートヴィヒは、彼女の奥底にある輝きを誰よりも先に見つけ出し、キャンバスに写し取ってくれた人だった。「本当のわたしを見つけてくれた人なのよ。わたしを救ってくれた人なの」そう正直に答えたら、マグダとフィーネには「重症ね」と見放されてしまったけれど。
ふと窓の外に目を向ければ、ウィーンの街には雪が降り積もり始めていた。気がつけばもう冬なのだ。白く染まっていく景色に、エルイーゼの瞳がわずかに翳った。
「……毎年この時期は、家族みんなでクリスマスの準備をしていたわ」
ぽつりと零れたその声があまりに寂しげに響いたから、ルートヴィヒは筆を止めた。どんなに傑作を描いている最中であっても、手放す気のない女の子が過去の影に震えているなら話を聞いてやらなきゃいけない。それはもはや彼にとって一種の使命感のようなものだった。
「天井まで届くモミの木を運んで、銀の鈴や本物の林檎を飾って……。ヴィルフリートお兄様が一番高いところに星を置くのが家の決まりだったの」
リーベンフェルス家の末娘はもうどこにもいない。あの光り輝くシャンデリアの下も、家族の笑い声に満ちた温かい屋敷も、彼女が帰るべき場所ではなくなったのだ。彼女が時折、こうして失くしたものの輪郭をなぞるように寂しがることを、ルートヴィヒは誰よりもよく知っている。
「……エル、こっち来てよ」
エルイーゼが振り返ると、彼はその手を引いて自分の膝の上へと誘った。彼女が戸惑う間もなく、背中から大きな腕が回される。
「そのモミの木とか銀の鈴は、ここにはないけどさ。……代わりに今年はおれが描いてあげるよ。絵の中なら枯れないし、星だって兄さんに負けないくらい一番高いところに描き込んでやるから」
彼はとにかく自分にできる、不器用で精一杯の方法で彼女を慰めた。その真っ直ぐな言葉に、エルイーゼはくすぐったそうに、けれど幸せそうに目を細めて笑った。
「……ありがとう。ルートヴィヒの描いてくれるツリーなら、本物よりもずっと輝いていそうだわ。あなたはいつもそうやってお祝いしていたの?」
「え? ……いや、おれは別に祝わないけど。クリスマスとか毎年気づいたら過ぎてたし」
その言葉に、エルイーゼは「まあ!」と声を上げ、膝の上でくるりと振り返って彼を凝視した。
「なんて不信心なの! 救い主様がお生まれになった日なのよ。あなた、今までどんな風に生きてきたの?」
「どんなって……。どうせ大体一人だし、集まったところで似たような連中ばっかりだしさ。子供のときは教会連れてかれたりもしたけど、あそこで貰えるパンだけが目当てだったし、気づいたら行かなくなってたな」
エルイーゼは今度こそ、心底驚いて言葉を失う。リーベンフェルス家にとって、聖夜は一年で最も神聖かつ華やかな行事だったからだ。
この人のことを、わたしは何も知らない。目の前で冷えた手を温めてくれているこの人は、自分が想像もできないような荒野を歩いてきたのかもしれない。
「ねえ、教えて。ルートヴィヒのこと」
「……何を?」
「今までのあなたのこと。わたしの話はたくさんしてきたけれど、あなたの話はぜんぜん聞いたことがないわ。もっとあなたを知りたいの」
ルートヴィヒはその予想外の言葉に面食らった。自分の過去なんて、埃の積もった屋根裏部屋のような、特筆すべきこともない退屈なものだからだ。
「えー……おれの話? そんなの、エルイーゼみたいな楽しい話とか一個も出てこないよ。キャンバス買うために飯抜いてひたすら不貞腐れてただけだしさ」
「それがいいの。あなたの見てきたものを、わたしにも見せてほしいから。あなたがどんな景色を見て、どんな風に笑って生きてきたのかを」
エルイーゼの真っ直ぐな視線に射抜かれ、ルートヴィヒは簡単に降参した。最近の彼は、彼女のこういう純粋な熱意にめっぽう弱い。
「……分かったよ。じゃあなんか……飲みもん用意するわ。エル、あったかいのがいい?」
彼女の鼻先を指で軽くつついてから、ルートヴィヒはのろのろと腰を上げた。過去を掘り起こすには、それなりに長い時間がかかるだろう。冷えた体を温めなければならないと、直感的に思ったのかもしれない。
「あ、待って。お湯の沸かし方、もう一回教えて!」
慌ててついてくる彼女に、彼は「まだ覚えてないんだ」と苦笑しながらも、火の熾し方から丁寧に手解きをした。やがて湯気を立てる二つのカップを手に、二人はアトリエの使い古されたソファに並んで腰を下ろした。
「さっきも言ったけどさ。別に面白くないから、あんまり期待しないでね」
そんな前置きから始まった彼の独白に、エルイーゼは膝を抱えて耳を澄ませる。ルートヴィヒは湯気の向こう側で笑いながら、思い出すのも億劫といった風に口を開いた。
「生まれたのはザンクト・ペルテンの、隙間風がひどい家でさ。親父は大工、おふくろは洗濯婦。きょうだいがわらわらいて、家の中は年中大騒ぎっていうか……戦場? 飯の時間は早い者勝ち。まあ別に仲が悪かったわけじゃないけどさ。今頃あいつらはどうしてんのかな。どいつもこいつも、しぶとく生きてるとは思うけど」
そんな喧騒の中で、彼は一人、風変わりな子供だったという。
「親父の仕事場でさ、転がってる木の端切れにそのへんの炭で適当に落書きして……。家族には『そんなもん何の役にも立たねえだろ』って呆れられてたけど、おれにとっちゃ唯一の楽しみだったんだよね」
十五歳で近所の装飾画家のもとへ放り込まれたものの、待っていたのは芸術の世界とは程遠い、下塗りと掃除だけの毎日。
「十八か十九の時かな。そこで一番偉そうにしてた兄弟子と喧嘩してさ。あいつ、おれが練習で描いてた複製画を見て、本物だって言い張ってもバレないんじゃねえか、とか言い出したんだよ。要は贋作作りの片棒担げってこと。……気づいたらそいつの顔、思いっきりぶん殴ってたよね」
彼は昔の自分を冷やかすように薄笑いをこぼした。今でも拳にその時の感触が残っているかのように、少しだけ手を握りしめながら。
「そのまま勢いでウィーンまで出てきちゃったわけ。一丁前にアカデミーも受けたけど、結果はまあ、見ての通りあっさり落ちた。その頃は本気でもうやめようって思ったんだけど……筆置いたら何も残んない気がして、結局続けちゃった」
ルートヴィヒはそこで言葉を切り、カップを置いて、自分の大きく無骨な手を見つめた。
「……ね? 言ったでしょ。エルみたいに楽しい話なんか、一個も出てこないって」
その指先には、落書きを始めたあの頃からずっと、消えない絵具の染みがこびりついている。エルイーゼは彼が握りしめてきた日々を想い、首を横に振った。
「そんなことないわ。とても眩しいもの。……わたし、あなたの話を聞けて嬉しい。あなたがたった一人で戦って、必死に生きてきた毎日の証だもの。わたしには、それが何よりも尊く見えるの」
ルートヴィヒは「やっぱ重症じゃん」と呆れて笑った。彼は「別にさ、立派に生きてきたわけじゃないんだよ。ずるいこともしたし」と照れ隠しのように呟き、エルイーゼの小さな手を包み込むようにぎゅっと握りしめた。
「でもさ。……聞いて、エルイーゼ。これからは、おれがエルの兄貴になって、父親になって、親友になって……エルが置いてきた全部の代わりにはなれないかもしれないけど、一人にはさせないから」
その力強い言葉が、聖書のどんな慰めよりも深く、エルイーゼの胸の空洞を埋めていく。ザンクト・ペルテンの隙間風の中で、炭を握りしめていた少年。贋作を強要する大人を殴り、一人でウィーンへやってきた孤独な若者。
あんなに過酷な日々を生き抜いてなお、温室で何不自由なく育った自分に対し、こんなにも優しい誓いを立ててくれる。苦労の跡が刻まれたその大きな手が、愛おしくてたまらなかった。
「……ルートヴィヒ、わたし、あなたが大好き。本当に、大好きよ」
天井に届くモミの木も、輝く銀の鈴も、もう必要ない。自分をミューズと呼び、お湯の沸かし方を教えて、芋の皮剥きを褒めてくれるこの人が隣にいる。それだけで、エルイーゼは世界中の誰よりも幸福になれたのだ。
「……あのね、お兄様にも、お父様にもならなくていいの。もっと、ずっと特別な人になって。もっと、わたしを愛して。あなたをもっと知りたいし、あなたにもわたしを知ってほしいの」
エルイーゼは握りしめたルートヴィヒの手にぎゅっと力を込めて、彼の胸に額を預けた。自分の鼓動が、重なった掌を通じて彼に伝わってしまうのではないかと思うほど、胸が熱い。
「え、待って。……え? どういう意味?」
ところが、ルートヴィヒは情緒もへったくれもない声を上げて固まった。無理もない。彼はかつて、いい雰囲気になったところで彼女に盛大に突き飛ばされた苦い記憶がある。ここで特別な人の定義を履き違えれば、また壁に叩きつけられかねない。
しかし、今日のエルイーゼは違った。彼女は顔を林檎のように真っ赤に染めながら、さらに距離を詰めると、彼の乾いた唇に、むに、と自分の柔らかい唇を押し付けたのだ。
「……同じ気持ちでいてくれているって、期待してもいいのかしら」
震える声で紡がれたのは、箱入り娘が出せる精一杯の勇気だった。至近距離で見つめてくる潤んだ瞳は、もう温室育ちのそれではなく、たった一人の男を求める、生身の女の熱を帯びていた。
ルートヴィヒの脳内はティータイムの余韻を「お湯の沸かし方教えてる場合じゃなかったわ」と一瞬でかなぐり捨て、凄まじい速度で回転し始めていた。「絶対あいつらに変な知恵つけられただろ」とマグダあたりの顔がよぎりながらも、本能がもっとどろりとした欲望をぐるぐると巡らせる。
けれどそんな雑念よりも何よりも、目の前にいるのは他のすべてがどうでもよくなるほどの女の子だ。かつての名誉も家柄も何もかもを放り出して、自分という何者でもない男にすべてを晒すと決めてくれた、たった一人の大切な存在だった。
「……。そんな可愛い顔で見られたらさ、期待とか、そんな生ぬるい言葉で済ませてやる自信ないんだけど」
ルートヴィヒは大きな手で彼女の腰をぐっと引き寄せた。重なり合う体温が、冬の冷えた空気を一瞬で跳ね除ける。彼はそのまま、吸い寄せられるように細い首筋に顔を埋めた。
「いいの? エルが思ってる以上のことされても知らないよー……」
エルイーゼの心臓は、耳の奥まで届くほど激しく鳴っている。首筋に触れる唇の熱さと、肌を撫でる荒い吐息。初めての感覚に翻弄されながらも、彼女は彼が顔を上げた途端、縋り付くようにしてまた唇を押し付けた。その柔らかくて必死な感触に、ルートヴィヒの自制心は完全に決壊した。
「かわい……。もっと早くこうしときゃ良かったわ……」
彼は熱く濡れた声で囁くと、今度は自分の方から、深く、彼女を飲み込むようなキスで応えた。




